Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

水戸旅行 vo.6 春風萬里荘②

 

春風萬里荘の庭園も手入れが行き届いていて素晴らしかった。

冬なので芝生の色は悪いけれど、それでも花曇りの、今日みたいな日差しの方が、

樹木や花が綺麗に撮れるから私は好きだ。

さて。

こちらの庭園も1100坪という広さがあり、2019年から2020年にかけて大規模な改修工事が行われた。茅葺き屋根同様こちにもクラウドファンディングで支援をしてもらったらしい。

 

改修の主なポイントは庭園内のバリアフリー化。

長屋門に続く傾斜は、木の階段だったものをなだらかなスロープに変更。

新たに湧水が出ていることが判明したところに池を整備したり、

もちろん樹木の高さ調整したり、植栽を配置したりもした。

庭園改修記念の石碑

施工 青葉庭園 田中 宏

令和 2年秋 

日動美術財団 長谷川徳七

 

回遊式庭園のなだらかなスロープの遊歩道

 

正面奥に見えるのは長屋門

 

長屋門に行ってみる

 

スロープを登ると、、、

重厚な造りの門だ。

こちらは地元笠間市内のお宅から譲られたものとのこと

 

長屋門を反対側から、つまりこちらが本来の正面。

 

長屋門の先に外に出られる門があったが日々は使われていない様子。

 

表面は、焼き板塀になっていて、鬼瓦が積まれていた。

 

囲炉裏や座卓がしつらえられた和室は、

団体用の休憩スペースとして使われているらしい。

ここで、一日一組限定で七名までの完全予約制、出前ランチが楽しめるらしい。

■春風萬里荘 長屋門貸切ランチのご案内■【新メニューあり】 : 笠間日動美術館 学芸員便り

 

なだらかな高台にある長屋門から池を見下ろす

桜の木が沢山あるので、春はまた絶景だろう。

 

長屋門側から見た眺め

母屋を見るには、このアングルが一番かもしれない。

 

花見の季節も良いが、雪景色の春風萬里荘も素晴らしいだろうな。


因みに。

移築 当時のお写真があったのでお借りしました

家屋敷や庭は、造成時から息づきはじめ、

年月をかけてその地に根付いて絶景になるのだとわかった。

 

 

 

そうそう。

母屋のことで、とても驚いたことが二つある。

ドラマ『おせん』と『炎の料理人・北大路魯山人』のロケ地として、屋敷が使われていたのだ。

 

『おせん』は、原作者と日本テレビがもめたので、再放送は出来ない幻のドラマ。

⤴ 上の写真は、母屋の三和土スペースに飾られていたもの。

 

1987年 ( 昭和62年 ) に放送されたサントリードラマSP「炎の料理人・北大路魯山人」で、魯山人の家としてこの屋敷が使われていた。

古い映像だが、そのドラマをYouTubeにアップしてくださっている方がいるのでリンクさせていただく。



 

 

閉じこみは、参考資料

長谷川仁氏のこと

長谷川仁は日動画廊創業者

日動画廊社長の長谷川仁は、1976年 ( 昭和51年 ) 10月27日午前1時45分、心不全のため東京・代々木中央鉄道病院で死去した。享年79。

 

長谷川仁は、1897年 ( 明治30年 ) 10月9日、牧師の家の14人兄弟姉妹の第7子として東京市牛込区に生まれ、1910年 ( 明治43年 ) 茨城県笠間町立尋常小学校をおえ、私立聖学院中学をへて1925年 ( 大正14年 ) 3月明治学院神学部を卒業。同年10月には長野県飯田の教会に牧師として赴任したが翌年東京へ帰り、横浜の海岸教会牧師から東京千住の食堂手伝いなどのあと、1928年 ( 昭和3年 ) 友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し、秋に横浜貿易会館で洋画大展覧を開催、翌'29年洗足幼稚園、1930年多摩川園で日本洋画綜合展などを開いて基礎をつくり、1931年 ( 昭和6年 ) 東京日本橋3丁目高能ビル1階に画廊「大雅城」を開いたが、同年9月には閉鎖、続いて11月3日に日本動産保険会社社長粟津清亮の援助で京橋区銀座5丁目の同保険会社ビル1階に「東京画廊」を開いた。翌'32年1月に店名を「日動画廊」と改称、以後、同所でほとんど洋画だけ ( 一時期、工芸品も扱った ) の画商として活動し、今日の洋画商界の先駆となった。

個展としては1932年 ( 昭和7年 ) 4月の草光信成水彩・油絵展を第1回展として、その後、鈴木千久馬展、高間惣七展、翌'33年には木下義謙・雅子滞欧作品展 ( 3月 ) 、大沢昌助展 ( 9月 ) など、1934年にはブラジル経由で帰国した藤田嗣治の個展 ( 2月 ) 、海老原喜之助展 ( 6月 ) などを開催した。

特に、藤田嗣治展は大成功をおさめて注目された。その後の戦前の主な個展をあげると、毎年の藤田嗣治、海老原喜之助展などのほか、猪熊弦一郎展 ( 1935年11月 )、中西利雄展 (1936年5月 )、北川民次メキシコ展 ( 1937年11月 )、野田英夫展 ( 1938年4月 )、佐伯祐三遺作展 ( 同9月 )、松本竣介展 ( 1940年10月 )などがあり、そのほかに個展を開いて画家としては、岡田謙三、山本鼎、三雲祥之助、児島善三郎、津田正周、熊谷守一、野間仁根、桂ユキ、林倭衛、福沢一郎などがある。

また、個展開催はないが作品を扱った重要な画家としては藤島武二があった。戦後も、1945年 ( 昭和20年 ) 9月の三岸節子展を皮きりに、各個展、画廊企画によるグループ展などをつぎつぎと開き、洋画界の発展に寄与した。1948年 ( 昭和23年 ) 国際美術協会を組織してジュネーブ、パリで日本現代美術展を開き、1953年 ( 昭和28年 ) 藤島武二顕彰会を組織して本郷新作藤島武二像を東京芸術大学に寄贈、1956年 ( 昭和31年 ) 日本洋画商協同組合が設立されたとき理事長に就任し5期にわたってその任にあった。1964年 ( 昭和39年 ) 銀座7丁目に新たに日動本店を開き、それを記念して太陽展を企画、第1回展を開催、1967年 ( 昭和42年 ) には若い世代の美術家のために昭和会をおこし昭和会賞を設け、以後両展とも毎年継続して開催した。1964年 ( 昭和39年 ) には月刊美術雑誌『絵』を創刊し、また個人画集などの美術書の刊行にもあたった。

1965年 ( 昭和40年 ) には私財を投じて郷里の茨城県笠間市に財団法人笠間美術館を設立、多くの画家の自画像、パレットを蒐集した特色ある美術館として知られるにいたっている。東京銀座の画廊のほか、大阪、名古屋、熊本、仙台、米子などに支店を開設、1973年 ( 昭和48年 ) 10月にはパリに進出してフォブール・サントノレ街にパリ日動を開設した。

美術界・美術市場におけるこうした功績によって、1967年 ( 昭和42年 ) 藍綬褒賞をうけ、翌1968年 ( 昭和43年 ) 笠間市名誉市民となり、1976年 ( 昭和51年 ) にはフランス政府よりコマンドール文化勲章をおくられた。

著書に、『洋画商』( 昭和39年 )『へそ人生』( 昭和49年、読売新聞社刊 ) がある。

出 典:『日本美術年鑑』1977年 ( 昭和52年版 ) p.287 

     長谷川仁 :: 東文研アーカイブデータベース

 

画商ならではの芸術保護区 『笠間日動美術館』 茨城県 Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)

https://www.city.kasama.lg.jp/data/doc/1420686640_doc_153_0.pdf

 

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