小川洋子 著『博士の愛した数式』を読了

【内容】
家政婦として働く「私」は、ある春の日、年老いた元大学教師の家に派遣される。
彼は優秀な数学者であったが、17年前に交通事故に遭い、それ以来、80分しか記憶を維持することができなくなったという。数字にしか興味を示さない彼とのコミュニケーションは、困難をきわめるものだった。
しかし「私」の10歳になる息子との出会いをきっかけに、そのぎこちない関係に変化が訪れる。彼は、息子を笑顔で抱きしめると「ルート」と名づけ、「私」たちもいつしか彼を「博士」と呼ぶようになる。
この本を読んで、真っ先に思い出したのは映画『50回目のファースト・キス』だ。
50回目の方は、オリジナル洋版のをアダム・サンドラー&ドリューバリモアが、日本版を山田孝之&長澤まさみが演じているので、ご覧になった方も多いと思う。
女性の記憶が寝て起きるとリセットされてしまうという短期記憶喪失障害 ( 前向性健忘 ) で、男性が毎日、初対面から始め愛を告白しつづける話だった。
この映画のラストで、二人は結婚し、彼女は目覚めると「ルーシー、ビデオを見て」という走り書きの目もメモを見る。そしてビデオを見ると、ここには彼女が事故で前向性健忘になったことから始まり、二人が付き合っている写真や映像があり、結婚したことがわかるようになっている。
そのビデオを見ている彼女の後姿は真剣で純粋で、怖れや不安がないのに心が温かくなった。
本作『博士の愛した数式』も、障害を持っている博士が傷つかないようにと懸命に世話をする家政婦「私」と、その息子の優しい気遣いに心があつくなった。
博士も前向性健忘で、博士の場合は80分で記憶がリセットされてしまう
前向性健忘は事故が起こる前、つまり博士の場合は数学の知識や義姉のことは覚えているが、事故後に知り合った人のことを覚えていられない。
だから毎日家に来る家政婦のことも初対面だし、自身が前向性健忘だということも忘れてしまうので、博士の背広にいくつものメモがくくりつけてある。
一番目立つところ貼っているメモには「僕の記憶は80分しかもたない」と書いてある。
そして家政婦である「私」の似顔絵もメモとして貼り付けられている。
博士のコミュニケーション
博士は家政婦の「私」に毎回こんなことを聞く。
「君の靴のサイズはいくつかね」
「24です」
「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗だ」
「君の電話番号は何番かね」
「576の1455です」
「5761455だって? 素晴らしいじゃないか。1億までの間に存在する素数の個数に等しいとは」
自分の電話番号のどこが素晴らしいのか理解はできなくても、彼の口調にこもる温かみは伝わってきた。自分の知識を見せびらかす様子はなく、むしろ逆に慎みと素直さが感じられた。もしかしたら自分の番号に特別な運命が秘められており、それを所有する自分の運命もまた特別なのではないだろうか、という錯覚に陥らせてくれる温かみだった。
p.14
これが博士のコミュニケーションの取り方だった。
何を喋っていいか混乱した時に、言葉の代わりに数字を持ち出すのが博士の癖だった。
80分で記憶の消えてしまう博士にとって、玄関に現れる私は常に初対面の家政婦だった。彼は初対面の者に対して抱く遠慮を、毎日律儀に示すことになる。尋ねる数字は靴のサイズと電話番号の他に、郵便番号、自転車の登録ナンバー、名前の字画などいくつかのバリエーションがあったが、それらにすぐさま意味を与えるのはいつも同じようだった。
1975年以降の記憶は、80分で書き換えられる
博士が事故で脳に障害を負ったのは1975年のことだった。
博士の運転する車には義姉もいて、義姉は足に障害を受けた。
博士は亡き兄の妻だった義姉と親密な関係にあったらしく、兄の財産を相続した義姉が母屋に、博士が離れに住んでいた。
家政婦に嫉妬?
家政婦の「私」が博士が高熱を出した時に、時間外の介護をした末に息子のルートと泊まり込んだことを知った義姉は激怒し、「私」を解雇する。
その後、息子のルートが博士を慕って博士の元にたずねてきたことを知り、義姉に更に激怒し口論となる。
「60過ぎの男と10歳の子供が、何をして遊ぶと言うのですか」
「私に無断で、お宅さまのご都合も考えず、息子がお邪魔したことは申し訳なく思います。監督不行き届きでした。どうもすみません」
「いいえ、そんな問題をとやかく言っているのではありません。馘になったにもかかわらず、子供を義弟の元に送り込むのは、何か意図でもおありになってのことなのかどうか、という問題なのです」
「意図?ちょっと誤解なさっていらっしゃるようですね。たかだか10歳の子供ですよ。遊びたいから遊びに来た。面白い本を見つけたから、博士にも読ませてあけげようと思った。それで十分じゃありませんか」
「ええ、そうでしょう。子供には邪心はないでしょう。ですから私は、あなた自身のお考えをお尋ねしているのです」
「私は息子が楽しい気分でいてくれること以外に、望みなどありません」
「では何故義弟を巻き込むのですか。義弟と三人で出かけたり、泊まり込んで看病したり、私はあなたにそういった仕事を要求した覚えはありません。
「職務を逸脱したことは認めます。しかし、意図や企みがあってのことじゃないんです。もっと単純なんです」
「お金ですか?」
「お金?」
「聞き捨てなりません。しかも子供の前で。撤回してください」
「それ以外に考えられないじゃありませんか。義弟のご機嫌を取って、うまく丸めこもうとしているんです」
「馬鹿な・・・」
「あなたは馘になったはずです。私どもは、縁が切れたはずです」
「いい加減にして下さい」
博士の考える濃度はますます深まり、ルートの帽子は皺だらけになっていた。
私は一つ息を吐き出した。
「友だちだからじゃありませんか。友だちの家に、遊びに来てはいけないんですか」
「誰と誰が友だちだと言うのですか?」
「私と息子と、博士がです」
未亡人は首を横に振った。
「あなたは見込み違いをなさっておいでかもしれません。義弟には財産などありません。親から受け継いだものは全部、数学に注ぎこんで、注ぎこんだきり一円だった戻ってこなかったんで」
「私には無関係の話です」
「義弟には友人などおりません。一度だって友人が訪ねてきた例しなどないんです」
「ならば、私とルートが最初の友だちです」
ふいに博士が立ち上がった。
「いかん。子供をいじめてはいかん」
そうしてポケットから取り出したメモ用紙に、なにやら書き付けたかと思うと、それを食卓の真ん中に置き、部屋から出て行った。
取り残された三人は黙ってメモ用紙を見つめた。そこにはたった一行、数式が書かれていた。
《eπi+1=0》
もう誰も余計な口をきかなかった。未亡人は爪を鳴らすのをやめていた。彼女の瞳から少しずつ動揺や冷淡さや疑いが消えてゆくのが分かった。数式の美しさを正しく理解している人の目だと思った。
p.188
このシーンがクライマックス。
義姉の態度は、博士の書いた数式で軟化し「私」は再び博士宅の仕事にカムバックする。
わからないことも沢山あった
数学の苦手な私は、この《eπi+1=0》にどんな意味があるのかわからなかった。
物語の随所に出てくる数式にも、素数の話や、友愛数の意味もわからないことばかりだった。だが、博士や「私」や、息子のルートの言動は品格に満ちていて、人に対する思いやりに満ちているのが感動的だった。
博士はつねに子供に情愛を持ち「私の夕飯を優先して、10歳の子供のご飯が遅くなるのはいけない」とか「おお、そうか。君には息子がいたのか。子供が学校から帰ってくる時には母親が出迎えてやらなければならん、さあ、急ごう。子供の、ただいま、の声を聞くほど幸せなことはない」と言った。
息子の方も、博士につけてもらったルートという呼び名を大切にし、博士を慕った。
ルートも博士も熱烈な阪神ファンで一緒にラジオの中継を聞くのを楽しみにしている。
ルートは、博士が江夏豊が好きだとが知ると、江夏がとうに引退していることを知ったら悲しむと思い、江夏がもう阪神にはいないことを博士に知らせないようにと気遣いをみせる。
この物語は、博士と家政婦とその息子の、年齢や立場の異なる三人の優しい交流で、お互いに対する尊敬と思慕の念が描かれていて実に気持ちの良い読了感を味合わせてもらえた。
小説が既に映画となっていて、映画の方もヒット作であると知ってはいた。
「私」を深津絵里、博士を寺尾聰とぴったりのイメージなので、近々是非観てみたいと思う。

寺尾さんの背広にもメモ用紙が付いているのが可愛らしい。
本日の昼ごはん 2025年04月05日
金ちゃんラーメン

本日の夜ごはん 2025年04月05日

本日のお酒は、Oさんからいただいたワイン

オレンジ色のワインで、味も白と赤の中間のような感じで美味しい

〆はカレー
