宮下奈都 著『羊と鋼の森』読了

高校生の時、学校のピアノの調律に来た調律師-板鳥さんの音に魅せられ、調律の世界に飛び込んだ外村青年。ピアノを愛する姉妹や先輩、恩師との交流を通じて、成長していくひとりの調律師の姿を、暖かく静謐な筆致で綴った感動作。
この本との出会いは『いつか、アジアの街角で』に所収されていた宮下奈都さんの短編「石を拾う」を読んだのがキッカケだった。
本作は宮下さんの代表作とのこと。
この本には、3人の調律師が登場する。
3人の調律方法や音への向き合い方は異なる。戸村青年の修行は柳さんの調教に同行することから始まった。憧れの板鳥さんは一般家庭の調律もするが、コンサート会場にあるピアノを任されることも多く忙しい。秋野さんは冷めていて皮肉屋でどうにも付き合いづらい先輩だった。
板鳥さんは、〈僕〉を見かけると声をかけてくれる
板鳥さんの指導は優しい。
「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」
こつこつ、こつこつ。
膨大な、気が遠くなるようなこつこつから調律師の仕事はできている。
「こつこつ、どうすればいいんでしょう。どうこつこつするのが正しいんでしょう」
「この仕事に、正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい。
こつこつと守って、こつこつとヒット・エンド・ランです」
「ホームランはないんですね」
「ホームランを狙ってはだめなんです」
p.16
柳さんは、気さくな指導係
柳さんは明るい性格で、お客さんのウケも良い。
指導する時、食べ物に例えたりするのがイマイチわかりにくいが、何でも親切に教えてくれる。
外村は目下、柳さんの顧客の双子の高校生のピアノが気になって仕方がない。
元 ピアニストで皮肉屋の秋野さん
秋野さんは元はピアニストだったらしい。
外村が、板鳥さんのコンサート会場の調律について行くのを見て、秋野さんはこう言った。
「おめでたいお人よしだ」
事務所に戻ると秋野さんが「どうだった?」と何食わぬ顔で聞くけれど、皮肉だけでなく興味があるのだろう。
「あのピアノでコンサートを開くことができるのはピアニストにとってもお客さんにとってもしあわせだと思いました」
「それで、整音はどんなことしてた?」
「詳しいことは、よくわかりませんでした」
正直に答える。
「ただ、ピアノの脚の向きを変えて、音の飛び方を調整していたのを初めてみました」
~中略~
「いい気なもんだよな」
いつもは表情のない秋野さんの声に、はっきりと嫌味が込められている。
「ずいぶんのんきじゃないか。そこじゃないよ、板鳥さんの調律の真髄は。まったく、何見てたの。いくら同じ事務所にいるからって、甘えすぎ。板鳥さんも外村くんに親切にしすぎ。どうぞ見てくださいって全部見せてくれるんでしょ。それ、逆に、なめられてるんじゃないの」
p.86
柳さんにその話をすると「ああ、あの人な」と言った。
「最初は俺も憤慨したさ。その辺の客なんてドンシャリに調整しとけば喜ぶんだって」
え、と聞き返すと、柳さんはにやりと笑った。
「ステレオなんかで一時期そういうのが流行ったんだよ。重低音がドンと響いて、高音がシャリシャリ鳴るような。そういう調節にしておけばいい音だと思われて人気があったんだ」
多少の揶揄を含めて、ということなのだろう。
「ばかなことを言うなと思ったよ。
「調律も、お客さんもばかにしてるって。いいお客さんと会ってないからそんなこと言えるんだ。むしろかわいそうに、ってな。でもさ」
「外村、一回、秋野さんに同行させてもらってみな」
「ドンシャリなんて口だけだ。実際にはいい仕事するんだぜ、秋野さん。うわべの態度や言葉とは裏腹に」
p.88
双子のピアノに魅せられる
柳さんの訪問先に、双子の姉妹の家があった。
姉の和音は、静謐な音色をかもす。妹の由仁は明るく奔放な音色を奏でる。
外村が初めて双子と会ったシーンがこちらだが、どうやらこれが伏線になっているように思った。
最初に試し弾きをしたのは姉の和音だった。
調律したピアノを弾いた和音は「ありがとうございます、いいと思います」と言った。
「じゃあ、これで」と柳さんが言いかけたとき、彼女は顔をあげた。
「あっ、待ってください。もうすぐ妹が帰ってくるはずなので、少しだけ待ってもらえますか」
しばらくして帰宅した妹の由仁はこう言った。
「和音は弾かせてもらったんでしょう。じゃあ、あたしはいいよ」
すると和音が言った。
「ううん、弾いて。弾いて確かめて。私と由仁のピアノは違うんだから」
顔はそっくりなのに、さっき「姉」が弾いたのとはまったく違うピアノだった。
温度が違う。湿度が違う。音が弾む。「妹」のピアノは色彩にあふれていた。これでは確かにそれぞれが弾いてみないと調律の具合を決められないだろう。
彼女は、ふと弾くのをやめて、こちらをふりかえった。
「もう少しだけ明るい感じの音にしていただきたいんです」
それから、
「すみません、勝手なことを言って」と殊勝な顔になった。
「たぶん、音が響きすぎないように調整してくださっているのですよね。その抑えで音が少し暗く感じるんじゃないかと思うんです」
柳さんは笑顔でうなづいた。
柳さんと〈僕〉の好みは違った。
2人のピアノを聞いて、僕は帰りの車で柳さんに聞いた。
「どう思いました?」
「相変わらずおもしろいピアノを弾く子だったなあ」
ふふっと忍び笑いを漏らして柳さんは言った。
「久しぶりに聞いたな、あんないきいきしたピアノ。情熱的でいいじゃない。
調律し甲斐があるってもんだ」
どうやら柳さんは、妹の由仁のことを言っているようだが、僕は姉の和音の方のピアノが気になった。
柳さんは言った。
「なんで? 姉のピアノは普通のピアノだったじゃない。たしかに、きっちり弾けてたよ。でもそれだけだろ。おもしろいのは断然妹のほうだと思うけど」
普通のピアノだったのか。あれが普通なのか。僕にはピアノの経験がないから、少しうまく弾ける人のことも、とてもうまく見えてしまうのかもしれなかった。
~中略~
⸻そう思いかけて、違うと思った
普通じゃなかった。明らかに、特別だった。
「あの子のピアノはいいな」
柳さんは言って、それから付け足した。
「妹のほうな」
僕もうなづいた。妹も、よかった。妹のピアノには勢いと彩があった。だからこそ、あれ以上明るい音を欲しがる理由がないように思えたのだ。
p.29
入社2年目、双子の家から調律のキャンセルの電話が入った。
「今は娘がピアノを弾けない状態なのでしばらく調律は見送りたい」とのこと。
外村は、双子のうち弾けなくなったのが姉妹のどちらなのかと心配になる。
後日、ピアノが弾けなくなったのが妹の由仁だと判明するが、
姉の和音も 妹を気遣いピアノを弾かなかったらしい。
そんな和音が練習を再開するという知らせが入り、柳の調律に、出来れば外村も同行して欲しいと言われる。
「心配かけてごめんなさい。私、ピアノを始めることにした。ピアニストになりたい」
母親が言った。
「ピアノで食べていける人なんてひと握りの人だけよ」
言ったそばから、自分の言葉など聞き流してほしいと思っているのがじんじんと伝わってきた。ひと握りの人だけだからあきらめろだなんて、言ってはいけない。だけど、言わずにはいられない。そういう声だった。
「ピアノで食べていこうなんて思ってない」
和音は言った。
「ピアノを食べて生きていくんだよ」
部屋にいる全員が息を飲んで和音を見た。
和音の、静かに微笑んでいるような顔。でも、黒い瞳が輝いていた。きれいだ、と思った。
なぜ、由仁は弾けなくなってしまったのかを考えてしまった
由仁が何故ピアノが弾けなくなったのかは詳しく書かれていない。おかしな病気で、他に支障はないのに、ピアノを弾くときだけ指が動かなくなってしまったというが、恐らく精神的なことなのだろう。
これはあくまで私の想像だが、由仁は自分と姉の才能を俯瞰してみていたのではないだろうか。
そして 姉にピアノを譲った。
そう感じた理由は、最初に双子の家の調律に同行した時のシーンにある。
調律をし終わった時、試し弾きをしたのは和音だった。
和音はもうすぐ妹が帰ってくるから、彼女にも試し弾きをさせたいと言った。
帰宅した妹の由仁のピアノは、明るく奔放な音だった。
それなのに 由仁は柳にこうリクエストしたのである。
「あの、もう少し明るい音にしてもらえませんか」と。
帰路で外村は思った。
妹も、よかった。妹のピアノには勢いと彩があった。
だからこそ、あれ以上明るい音を欲しがる理由がないように思えたのだ。
これを読んだ時にふと思ったのである。
妹の由仁は姉のために「明るい音」を望んだのではないだろうか、と。
由仁が弾けなくなった原因もそこにあると思った。
一台のピアノを2人で使えば、それぞれの練習時間が短くなる。
「自分より和音に練習をさせたい、
ピアニストになるなら自分ではなく和音がなった方が良い」
由仁がピアノが弾けなくなったのはこういった精神的なことなのではないだろうか。
秋野という調律師もピアノを断念している
秋野は、自分がピアノをやめたのは「耳が良かったから」と言っているが、話の流れではピアニストには、技術や才能だけでなくメンタル面も大きな要素があるのだとわかった。この本には、そうしたアーティストの苦悩もよく描かれていた。
ピアニストの小説といえば
ピアノをテーマにした小説には『蜜蜂と遠雷』という秀作がある。
つるひめさんもかつてご自身のブログて、本作のことを書いていらっしゃったが、
遅ればせながら今回この本を読んで、私も同じように感じた。
《音》を《活字》で表現するのはとても難しい。
『蜜蜂と遠雷』はそれを見事にやってのけているが、この本もしかりだ。
この本では、ピアニストの音の違いだけでなく、調律する前と後の音色の違いも見事に伝えている。また、ひとりひとりの調律師の生きざまや、音にかける想いも描き分けていて奥深い作品だと思った。
そしてもうひとつ
〈人が好きなものを追い求める時の姿勢を美しさ〉を味わうことが出来たのも嬉しかった。
文中には、沢山の名言が詰め込まれていた。
ひとつは柳の言葉
才能っていうのはさ、ものすごく好きだっていう気持ちなんじゃないか。どんなことがあっても、そこから離れられない執念とか、闘志とか、そういうものと似てる何か。俺はそう思うことにしてるよ
p.125
もうひとつは板鳥さんの〈目指す音〉の話
初めての調律でてんぱってしまった外村が、板鳥さんにずっと堪えてきた質問をした時の返事。
外村くんは、原民喜を知っていますか
「その人がこう言っています。
明るく静かに澄んで懐かしい文体。少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体
原民喜が、こんな文体に憧れている、と書いているのですが、しびれました。私の理想とする音をそのまま表してくれていると感じました」
原民喜は、広島で被爆した体験を、詩や小説にした作家だ。
「原民喜 沙漠の花」というエッセーに書いてあるのが、板鳥さんが話した以下の文章。
沙漠の花
原民喜
堀辰雄氏から「牧歌」といふ署名入りの美しい本を送つて頂いた。私は堀さんを遠くから敬愛するばかりで、まだ一度もお目にかかつたことはないのだが、これは荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた。この小作品集を読んでゐると、ふと文体について私は考へさせられた。
明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる。だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。
私には四、五人の読者があればいゝと考えてゐる。だが、はたして私自身は私の読者なのだらうか、さう思ひながら、以前書いた作品を読み返してみた。心をこめて書いたものはやはり自分を感動させることができるやうだつた。私は自分で自分に感動できる人間になりたい。リルケは最後の「悲歌」を書上げたときかう云つてゐる。
「私はかくてこの物のために生き抜いて来たのです、すべてに堪へて。すべてに。そして必要だつたのは、これだつたのです。ただしこれだけだつたのです。でも、もうそれはあるのです。あるのですアーメン」
かういふことがいへる日が来たら、どんなにいいだらうか。私も……。 私は私の書きたいものだけ書き上げたら早くあの世に行きたい。と、こんなことを友人に話したところ、奥野信太郎さんから電話がかかつて来た。
「死んではいけませんよ、死んでは。元気を出しなさい」
私が自殺でもするのかと気づかはれたのだが、私についてそんなに心配して頂けたのはうれしかつた。
「私はまるでどことも知れぬ所へゆく為に、無限の孤独のなかを横切つてゐる様な気がします。私自身が沙漠であり、同時に旅人であり、駱駝なのです」と、作品を書くことのほかに何も人生から期待してゐないフローベールの手紙は私の心を鞭打つ。
昔から、逞しい作家や偉い作家なら、ありあまるほどゐるやうだ。だが、私にとつて、心惹かれる懐しい作家はだんだん少くなつて行くやうだ。私が流転のなかで持ち歩いてゐる「マルテの手記」の余白に、近頃かう書き込んでおいた。昭和廿四年秋、私の途は既に決定されてゐるのではあるまいか。荒涼に耐へて、一すぢ懐しいものを滲じますことができれば何も望むところはなささうだ。
因みに、表題「羊と鋼の森」の羊は、ピアノのハンマーが羊のフェルトで作られ、鋼はハンマーが叩くピアノ線のことなのだと後から気づいた。
タイトルもいいが、牧野千穂さんの装画も素晴らしいと思った。

最後に〈僕〉が語る以下の文章も忘れがたく、書き残しておくことにした。
鋼の弦はぴんとまっすぐに伸び、それを打つハンマーがまるでキタコブシの蕾のように揃って準備されているのを見るたびに、背筋がずっと伸びた。
p.19
調和のとれた森は美しい。
「美しい」も「正しい」と同じように僕には新しい言葉だった。ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。ただ、知っていることに気づかずにいたのだ。
その証拠に、ピアノの出会って以来、僕は記憶の中からいくつもの美しいものを発見した。
たとえば、実家にいる頃ときどき祖母がつくってくれたミルク紅茶。小鍋で煮出した紅茶にミルクを足すと、大雨の後の濁った川みたいな色になる。鍋の底に魚を隠していそうな、あたたかいミルク紅茶。カップに注がれて渦を巻く液体にしばらく見惚れた。
あれは美しかったと思う。
たとえば、泣き叫ぶ赤ん坊の眉間の皺。思い切り力を込めた真っ赤な顔に寄る皺は、それ自体が強い意志を持つ生き物のようで、そばで見るとどきどきした。あれもたしかに美しかった。
それから、たとえば裸の木。山に遅い春が来て、裸の木々が一斉に芽吹くとき。その寸前に、枝の先がぽやぽやと薄明るく見えるひとときがある。ほんのりと赤みを帯びたたくさんの枝々のせいで、山全体が発光しているかのように光景を僕は毎年のように見て来た。
~中略~
美しいものを前にしても、立ち尽くすことしかできない。木も山も季節も、そのまま留めておくことはできないし、自分がそこに加わることもできない。だけど、あれを、美しいと呼ぶことを知った。それだけで開放されたような気持ちだ。美しいと言葉に置き換えることで、いつでも取り出すことができるようになる。人に示したり交換したりすることもできるようになる。美しい箱はいつも身体の中にあり、僕はただその蓋を開ければいい。
これまでに美しいと名づけることのできなかったものたちが、記憶のあちこちからそこにひゅっと飛び込んでくるのがわかる。磁石で砂鉄を集めるように、いともたやすく、自由自在に。
枝先のぽやぽやが、その後一斉に芽吹く若葉が、美しいものであるのと同時に、あたりまえのようにそこにあることに、あらためて驚く。あたりまえであって、奇跡でもある。きっと僕が気づいていないだけで、ありとあらゆるところに美しさは潜んでいる。あるとき突然、殴られたみたいにそれに気づくのだ。たとえば、放課後の高校の体育館で。ピアノが、どこかで溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう。
p.20
いつものことですが、長くなってしまって すみません
本日の昼ごはん 2025年04月20日
大好きな美登利寿司のちらしが売り切れだっていうので、別の店で買ってきてくれたお土産

本日の夜ごはん 2025年04月20日



中くらいの鰺の干物が気になったと買ってきてくれたのを焼く

