Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

用賀の謎

 

本日は岡本町の旧小坂邸に再訪!

沢山写真を撮ります。

見どころ満載なんだもの💛

 

まずは先日同様、渋谷から新玉川線で用賀に出る。

新玉川線のホームのタイルは、各駅で異なる「駅カラー」があてられている

用賀が水色、桜新町が桜色、駒澤大学が若葉色、三軒茶屋がレモン色、池尻大橋は柿色。

なんとなくイメージにピッタリだと思います。

そして各色に白いタイルが混ぜてあり、ホームの階段に近いほど駅カラーの幅が広く、ホームの端に行くほど白タイルの割合が増えるように貼られているのです。

つまり。

電車から降りた時に、タイルの駅カラーが多い方向に進めば階段 (改札) 方向だということが視覚的にわかるし、車窓から見える駅カラーで「今はどの駅を通過した」というもわえる。

これは画期的なアイデアではないだろうか。

開通当初 新玉線に乗った時、私はこのタイルカラーに感動を覚えた。

これを考えた人スゴイと思った。

 

さて。

先日は簡単に素通りした用賀駅だが、本当に大きく様変わりしていた。

用賀駅の改札を出て右に行くと、世田谷ビジネススクエアに直結している。

スクエアビルの地下入口の手前には、外に出られる円形階段がある。

美しいじゃ、あーりませんか

 

一階から見下ろすとこんな感じ。

円形劇場の座席みたいだ。

 

 

世田谷ビジネススクエアのシンボル的存在の高層タワーは、GMOインターネットタワーという。

 

タワーから多摩川 ( 北西 ) を見た風景⤵

2.1ヘクタールの広大な敷地に、高層タワーをはじめ大小あわせて8つの建物からなる、環境と調和するオフィスデザイン群。 ←GMOのHPより

GMOインターネットTOWER

 

ビジネスビルというだけでなく、日常生活も豊かに彩る立派な街だ。

前にも言ったが、新玉川線が開通する前の用賀駅はとても辺ぴなところだった。

辺ぴといっては地元の方には失礼だが、二子玉川や桜新町のように駅前が開けなかったのにはわけがある。

 

世田谷ビジネススクエアを俯瞰でみると赤線の部分。

 

用賀に新玉川線が開通する前は、用賀駅は玉電が走っていた。

上記の写真は、懐かしの玉電 Less is Moreさまのサイトからお借りしました。

左手前に延びている線路は、車輛引込線と思われる。

 

少し前に、世田谷ビジネススクエアが出来た敷地のことを調べことがある。

この広大な敷地は、以前何だったのかと疑問に思ったからだ。

あるサイトに「玉電の車庫があった」と書いてあった。

 

だが、過去の航空写真を見ると車輛の影ひとつない。

上は昭和36年~39年 ( 61~4年前の用賀 )

下は平成19年 ( 18年前の用賀 )

もし、この敷地が車輛基地になっていたのであれば、車輛の1~2台はあってもおかしくないのに。。。

 

さらに調べてみると、こちらのサイトさんに巡り合った。

東急編成写真・資料館 ブログ 用賀車庫計画

懐かしの玉電 Less is More

東京回想・消えた線路 玉電用賀引込線。 | 素浪人・サンダルニャーゴの日々

 

サイトの皆様のお調べでは、用賀の車両基地は「幻」で終わっていたらしい

戦時中 玉電の車庫用地として確保した土地に、引込線を300m建設したが、それも一部を残し撤去。

1960 ( S35 ) ~1964 ( S39 ) 年、追加用地を買収するも、

1968 ( S43 ) 年、東急鷺沼さぎぬま検車区の跡地に営団鷺沼車両基地を建設することとなり、用賀車庫計画は消滅。

それで用賀の車両基地は「幻の車両基地」となり、買収した広大な用地はおきざりにされた。

 

駅の横にこんな広大な敷地を眠らせておけば、店も増えず、道路も遠回りになる。

これが用賀が開けなかった理由ではないだろうか。

 

古地図で見比べてみた

『東急編成写真・資料館ブログ』の矢口様がお調べになった用賀の変遷の記述を元に、航空写真を当てはめてみた。

(黒文字が矢口様の記事。緑文字が航空写真の解説 )  

 

戦時中、玉電の車庫用地として約1万9800平方メートルを確保。

大橋車庫の空襲に備え、引込み線300メートル2本を建設。

※ 1945(S20)~1950(S25) の航空写真。

  敷地に細い線路のようなものが見える⤵

時期不明、引込み線廃止、入口の一部のみ残る。

 

1960 ( S35 ) ~ 1964 ( S39 ) 年、銀座線直通・二子玉川園折り返しとして計画された新玉川線用の車庫用地として追加用地買収、約4万9500平方メートルまで拡張。

※ 1961 ( S36 ) ~ 1964 ( S39 ) の航空写真。

  引込線が消え、白く見える土地の西側区画にも囲いができている。⤵

 

 

1968 ( S43 ) 年、新玉川線が半蔵門線・田園都市線と直通する計画に変更。

 東急が鷺沼から長津田に検車区を移転。

 東急鷺沼検車区の跡地に営団鷺沼車両基地を建設することとなり、用賀車庫計画は消滅。

1969 ( S44 ) 年、玉電廃止。

1977 ( S52 ) 年、新玉川線開業。

※ 1974 ( S49 ) ~1978 ( S53 ) 年の航空写真。

  倉庫のような建物が散在するのみで敷地が残されている。

    敷地の一角が売却? エコプラザ用賀が建設されている。

 

※ 1979 ( S54 ) ~1983 ( S58 ) 年の航空地図、エコプラザ用賀の北の区画が売却?され、城南信用金庫ジムセンターが建設。

 

1993年(平成5年)用賀車庫用地を活用した28階建の世田谷ビジネススクエア竣功。

※ 2007 ( H19 ) 年の航空地図。

  世田谷ビジネススクエアとその北側区画にオーケー新用賀店が建設されている。

 

以上、航空地図からわかる変遷でも、件の広大な敷地は長年にわたり、

街全体から考えられる有効的な利用はされていなかった。

もしこの土地が買い占められていなかったら、現在のビジネススクエアもない代わりに、商店街や宅地が賑わっていたかも知れない。

 

 

 

 

ゆったりした敷地には色々な空間がある。

GMOビルにある会社で働く人たちのランチのスペースは沢山ある。

ガーデンコートには、水が張られたタイルの周りにベンチがしつらえられていて、

ここでランチをする人、パソコンをしたり読書したりする人がいた。

 

道路も綺麗に完備されているが、個人商店が少ない。

 

用賀くすのき公園にも休憩する人が沢山いた。

 

交通量が少ない道で、自転車も安心。

正面奥のスペースにはキッチンカーが二台停まっていた。

 

多くの企業がビルのテナントに入っているので、

敷地の管理費も充実しているのかな?

樹木の剪定も、ガーデンコートやウォーターストーンなど水を使った施設も綺麗に管理されていた。

 

地下の飲食街からウォーターストーンをみる

 

落差8mの半円形の滝。

膨大な水量。

こんなことに掛る費用も、沢山の企業がビルに入っていなければ賄えないだろう。

 

 

www.google.com

 

 

 

2025年05月16日 の昼ごはん

MOURI作 チャーハン

はみ出して乱暴によそってあって「体裁じぶんで整えて」と言われたので、

真ん中に寄せた。なのでお皿のまわりがこんなんなっとる。

 

 

 

2025年05月16日 夜ごはん

今日は歩いた! 13,437歩も歩いたので帰り路の成城でケンタッキーを買って帰る。

これだけでは、、、と思ったのでサラダだけ自作 💦

 

ポテトの食べ比べ。左はモスバーガー、右はケンタッキー。

 

ちくわぶは昨日の残り物