小坂邸を見学して、知りたくなったことが二つある。
ひとつは更衣室にあった鏡台の持主のこと。

もうひとつは書斎に飾られていた肖像画と首像の主はどなたなのかということ。

今日は、ひとつめの鏡台の話
結論から言うと、鏡台の持主は小坂順造さんの長女・百合子さんでした。
その鏡台が何故ここにあるかというと、こんなことらしい。
小坂順造には、四人の子がいました。
長女・百合子 明治43年 ( 1911 ) 03月生~平成11年 ( 1999 ) 07月没 享年88歳
長男・善太郎 明治45年 ( 1912 ) 01月生~平成12年 ( 2000 ) 11月没 享年88歳
次男・善次郎 大正03年 ( 1914 ) 03月生~昭和10年 ( 1935 ) 08月没 享年21歳
三男・徳三郎 大正05年 ( 1916 ) 01月生~平成08年 ( 1996 ) 02月没 享年80歳
百合子さんは、美濃部亮吉氏 ( 東京都知事を3期務めた政治家 ) と結婚し、長男・次男・三男をもうけましたが、美濃部さんが都知事就任前に離婚。
子供3人を連れて小坂家に戻りました。 ( 三人の子どもは小坂姓となる )
つまり、小坂家の更衣室にあった小坂家の家紋が入ったあの鏡台は、百合子さんの婚礼道具で、百合子さんと一緒に戻ってきたものでした。
5月16日、二回目の小坂邸訪問の折、女性の管理人さんに、
「三人のお子さんと百合子さんは、このお宅でご両親と同居していたんですか?」と
伺ったところ、敷地内に別棟を建てて住まわれていたとのことでした。
今その建物はありませんが、現在東門の駐車場があるあたりにあったのだそうです。
母屋の寝室から見える、

ベンチの向こう側、白線がチラリと見えるあの辺り。

長男・達也さん 昭和10年 ( 1935 ) 07月生
次男・麓郎さん 昭和15年 ( 1940 ) 09月生
三男・正亮さん 昭和19年 ( 1944 ) 05月生
長男の達也さんは、自由民主党衆議院議員で後に参議院議員だった小坂憲次 氏 ( 善太郎の次男、達也の従弟 ) の秘書を務め、次男の麓郎さんは僧侶となってオーストラリアに渡り、三男の正亮さんは信越化学工業 ( 小坂家が創業家 ) に勤務し、いずれも小坂姓。
ウィキペディア「美濃部亮吉」より
人事興信録「美濃部亮吉」より
ちょっと興味深い地図がありました

これは1994年発行の住宅地図
上の方 ( 現在小坂邸があるあたり ) に「小坂正亮」、
下の方 ( 横山大観が借りていたことがある離れで今は更地のあたり ) に「小坂花子」と書かれている。
小坂順造夫人の花子さんは 1974年に亡くなられているので、この地図が発行された時点ではいらっしゃらないが、件の記載は、表札などを参考に作られたものと思われます。
また、敷地の右の区画に「南風記念館」「南風ビラ」とあるのは、堅山南風が住んでいた跡地と思われます。
南風は昭和を代表する日本画家の一人で、横山大観の高弟です。
『風のコラム』にも、こんな記事がありました。
太平洋戦争も終末に近づき米機の空爆が激烈を極めるに至ったある日、小坂と親交のあった横山大観は、小坂別邸の隣家に住んでいた南風 ( 大観の高弟 ) を通じて、邸内の茶屋に避難したいが貸してもらえないかと小坂に申し入れました。その後も大観の弟子である南風は、使いとして、大観の絵を何度か小坂に届けています。
明日は、肖像画のお話を。
2025年05月24日 昼ごはん
あごだしうどん、、、、だが見えない

2025年05月24日 夜ごはん
