杉並区阿佐ヶ谷の「欅屋敷」といえば、地元の方にはたいそう有名な場所らしいが、
杉並区民ではない私は、その辺のことは全く知らなかった。
ところが、ククーロというパスタ屋さんに通うようになり、
隣接する欅並木と河北病院の新しい建物を見て、俄然 興味がわいた。

上記写真の引っ越しのトラック辺りから、
来た道を振り返った写真⤵

立派な土塀が続く
欅林の向こうには新設された河北病院の建物

現在は土塀と石畳のアプローチと数十本の欅だけが残っている。

相澤家 欅興産株式会社と書いてある。
右手に見える蔵のような建物は、土地の所有者宅か?

相澤家のこと
相澤家はこの辺り一帯を所有する大地主。
現在の第15代目当主・相澤弥一郎氏によると、江戸開府以来400年弱続く家で、
名主も勤めていた名家のようだ。
相澤家で一番有名なのは、相澤喜兵衛 ( 安政元年11月生 ) 氏かも知れない。
《喜兵衛》は、当主が襲名する名前で、過去 何人もいらっしゃる。
( 安政元年11月生 ) の喜兵衛さんが家督を相続した1876年 ( 明治8年 ) と阿佐ヶ谷の歴史を照らし合わせると、地元に大きく貢献された「相澤喜兵衛」の1人と思われる。
参考資料:人事興信録9版 ( 昭和6年 ) 76
相澤喜兵衛 常磐生命保険雀 ( 株 )監査役 東京府在籍
東京市外 杉並町阿佐ヶ谷905
君は東京府人 川口喜兵衛の二男にして安政元年11月を以て生れ、
先代 喜兵衛の養子となり明治8年家督を相続す。
現時常磐生命保険会社監査役たり。
長男 彌一 ( 明治13年1月生 )
その妻 たか ( 明治20年3月生 ) 菊島生宣 妹?
二男 邦純 ( 明治15年7月生 )
その妻 ふみ ( 明治29年3月生 ) 千葉所鉚 長女
堅 ( 明治23年7月生 )
はる ( 明治27年3月生 )
幸美 ( 明治43年8月生 ) 長男 彌一の長男
留美子 ( 明治44年12月生 ) 長男 彌一の長女
満江 ( 大正5年5月生 ) 長男 彌一の二女
家族は尚
孫 尹正 ( 大正2年1月生 長男 彌一の二男 )
孫 享 ( 大正3年7月生 長男 彌一の三男 )
孫 信元 ( 大正7年1月生 長男 彌一の四男 )
孫 陸郎 ( 大正13年4月生 長男 彌一の六男 )
孫 昭雄 ( 昭和2年3月生 長男 彌一の七男 )
孫 知行 ( 大正9年2月生 二男 邦純の長男 )
孫 義行 ( 大正10年8月生 二男 邦純の二男 )
孫 寛行 ( 大正11年10月生 二男 邦純の三男 )
孫 恒行 ( 大正13年10月生 二男 邦純の四男)
孫 温子 ( 昭和2年1月 二男 邦純の長女 )
歴代の相澤喜兵衛さんは、どんなことをされたか
阿佐ヶ谷駅新設に貢献
1920年代 中央線は中野・荻窪間に駅がなかったが、中間地点の馬橋村に「馬橋駅」が出来る予定だった。その話を耳にした( 安政元年11月生の ) 相澤喜兵衛は、高円寺村の大地主と共同で、政友会に働きかけ「阿佐ヶ谷駅」と「高円寺駅」が誕生した。
因みに、阿佐ヶ谷駅の敷地は全部相澤家のものだったとのこと。
明治の学制改革の折、杉並第一小学校の用地を寄進した
杉並第一小学校の沿革を見ると、小学校の用地を寄進したのも( 安政元年11月生の ) 相澤喜兵衛さんのようだ。
杉並区立杉並第一小学校は、1875年 ( 明治8年 ) に開校した、杉並区で最も古い小学校の一つです。当初は中野村宝仙寺に「公立第九番学校桃園黌第一番分校」として開校し、その後、1884年 ( 明治17年 ) に現在の場所に移転しました。
Wikipediaより
次に、もうひとつ前の「喜兵衛」さんは何をしたかというと、
墓をまとめて法仙庵を開基した 方らしい。
※ 下記、法仙庵のHPに、文久年間 ( 1861~1863 ) とあることから、墓をまとめたのは
《安政元年2月生れの喜兵衛さん》が家督を相続した年より13~5年前のこと、
故に先代が開基したと考えられる。
法仙庵 【寺院】(阿佐谷北2丁目38番22号)|杉並区公式ホームページ
当庵は、釈迦如来坐像を本尊とする寺院です。
その初めは文久年間(1861年~1863年)阿佐ヶ谷村名主・第十代・相沢喜兵衛と玉野惣七が発起人となり散在していた家墓を集め、村共有の地に貧富に関わらず地割を平等にして造った共同墓地です。
そして、墓地管理のため、相沢家の土地に本堂を建立し慶応年間(1865年~1868年)江戸浅草・海運寺(現杉並区成田東4丁目18番9号)末寺・観音庵(現新宿区新宿7丁目3番13号)より実山見道尼を初代庵主として招いて、開創したのが当庵です。
以上の調べをまとめるとこうなる
第10代・相澤喜兵衛さんが、法仙庵を開基し、村にある墓をまとめた。
第11代・相澤喜兵衛さんが、阿佐ヶ谷駅を招致。阿佐ヶ谷駅の敷地、杉並小学校の敷地を寄贈した。
第15代・相澤弥一郎さんが、自宅の欅林を伐採し、跡地を河北病院の新家屋のために貸した。
相澤家が所有する土地は広大
とにかく、相澤家の所有する土地がとてつもなく広い。
- 河北病院の旧家屋の敷地も相澤家のもの ( 河北病院が借りていた )
- 阿佐ヶ谷駅の敷地も全て相澤家が提供したもの
- 墓を集めて建立した法仙庵も相澤家の土地
- 杉一小も明治の学制改革のときに相澤家が寄進したもの
相澤家の歴史は古く、江戸時代は名主だった
現当主・相澤弥一郎さんのお話に
「私は杉並の百姓でございます。私で15代、江戸開府依頼400年弱というところでしょうか。
阿佐ヶ谷で地主業をしております」
とあるように、相澤家は江戸時代からの大地主で名主だった。
相澤家が昔からこの土地にいらしたのは、江戸中期 ( 1710年 ) に設けられた「半兵衛・相澤堀」の名前からもわかる。
当時、この用水が「半兵衛・相澤堀」と呼ばれていたのは、この用水の恩恵を受けた下井草村と阿佐ヶ谷村の名主であった「井口半兵衛」と「相沢喜兵衛」に揺らうすると考えられる。この両人が近隣の上井草、天沼、鷺の宮、下荻窪などの村々と協議して幕府に申請し、許可を得た結果、この堀を設置することができたものと思われる。
出典:すぎなみ学倶楽部 歴史 「半兵衛・相澤堀」の由来
「相澤喜兵衛」を検索していたら、こんな古文書も出てきた。

古文書の年代にはほとほと困る。
戌年といっても何年なのか判明せず、古文書がさす相澤喜兵衛さんが何代目かわからない。
だが、歴代の喜兵衛さんがこの地に様々な形で貢献していることだけはハッキリした。
移転問題
現在、河北病院が相澤家の跡地に引っ越してきたことで、
新たな計画で問題が起きているようだ。

河北病院があった古い土地に、杉並第一小学校を移転させ、
現在 杉並第一小学校がある場所に商業施設を作るという計画で、
これに対して、住民から反対意見が飛び出しているらしい。
問題点は以下のようなこと
- 北病院は土地が低く、水害のおそれがある
- 古い病院なので医療廃棄物で土壌汚染されている
この計画は、相澤氏(欅興産)と河北病院と杉並区(田中良前区長)が「個人共同施工」で合意したとのことだが、杉一小移転についてはもう少し検討の余地があることかも知れない。
参考資料:
2025年07月28日 昼ごはん
金ちゃんラーメン

2025年07月28日 夜ごはん

穴子の卵炒め、鰺の刺身、ポテトサラダ、ごぼうのきんぴら

ちょっと足りないというので、焼きナスを追加しました
