面白い本を見つけた。
200年前のお侍さんの散歩日記。


村尾嘉稜という結構偉い役職の人が、仕事休みの日にテクテク歩き廻った紀行文。
村尾嘉陵
1760年 ( 宝暦10年 ) 生れ。名は正靖で、嘉陵と号した。徳川家の御三卿のひとつ、清水家に仕えた幕臣で、御広敷用人を務めた。1841年 ( 天保12 ) 81歳没。
清水徳川家とは
清水徳川家は徳川御三卿のひとつで、他の2家とともに徳川将軍家に後嗣がないときは後嗣を出す資格を有する家格。家名の由来となった屋敷地は、江戸城清水門内で田安邸の東、現在の北の丸公園・日本武道館付近にあった。維新後は、元の下屋敷の一つであった甘泉園(東京都新宿区西早稲田)に邸宅を構えていた。
甘泉園といったらあそこですよ、昔訪れたことが早稲田の高台にある公園。
あっいけない、村尾さんから話が反れた。
村尾さんはその清水徳川家の幕臣※で、
御広敷用人とは
江戸幕府の大奥や諸藩の奥に置かれた男性の役職で、主に大奥と外部の取次ぎや事務を担当したらしい。特に、大奥は将軍以外の男性の立ち入りが制限されていたため、その窓口となる重要な役割なので、ちゃんとした人じゃないと任命されない役職。
嘉稜さんは、お役を担っている時は忙しかったので、日帰りで行ける場所を近郊を歩き廻っていたようで、当時は田舎だった現在の杉並区、世田谷区、目黒区辺りまで足を延ばしてしたらしい。
紀行文がしたためられたのは、1807年~1834年嘉稜さんが60代の頃。
朝早くから歩き出して夜8時くらいに帰宅の日帰りで、車も電車もないわけですから、ただひたすら歩く。日本橋浜町から歩いたんですものかなりの健脚です。
嘉稜さんの紀行文は販売目的ではなく自筆の覚書のようなものだったのを、後の人が写本したりして今に至るようです。
私が借りてきたのは、平凡社の完本。




「阿佐谷村神明宮道の記」というのが読みたくで借りたのだが、
他にも馴染の場所や興味深い地名があるので、少しずつ読み解きたいと思っている。
※ 平凡社は原文を読みやすくしたもので、講談社版は現代訳
阿佐谷村神明宮道の記
1826年 ( 文政9年 ) 10月、66歳の時の散歩
この中に、阿佐ヶ谷の名主-相澤喜兵衛さんの名前が出て来る。


名主 相澤喜兵衛宅と書いてある。
199年前から現在の場所に居を構えていたのがわかった。
ゆき行程に、又田あり、向ひに見ゆる木立の陰に、かやふける長や門、のきばたかく作りなしたる家あり、その家の前の木のもとに、稲の穂をこきなどして、老いたる女ありつるに、この屋にすむ人は何といふぞと問ば、相澤喜兵衛といひて、村の名主を勤むるよしを答ふ、門のうち見入れは庭ひろく、
出居 、馬や、白土ぬりたる蔵など、つきづきしく作りなして、いとものどやかにみゆ、神明宮はいづかたぞと問ば、この屋の垣にそひて、うしろのかたに行ば、鳥居たてるぞ、神明宮にてましますとおしゆ『東京近郊道しるべ』 西郊 阿佐谷村神明宮道の記 P.72
相澤さんは当時から大きな家を構えていたんですね。
2025年08月07日 朝ごはん
ざるそば

2025年08月07日 昼ごはん
カニチャーハン

2025年08月07日 夜食



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