これは備忘録 💦
森銑三氏の「著作集 第九巻」にはこんなことが書いてある。 (所々現代文)
南麻布の西福寺にある寺に村尾氏の墓があった。
場所は、門を入ると墓地が本堂の右手から、裏手右手と三方に取り巻いていて、その右手になるところに側面に「村尾氏」と刻った墓が四つ並んでいる。
その内の合葬の墓の背面に、村尾氏は清水の家臣とされていた。
しかし合葬の墓の文には「正靖」のことは見えない。
村尾氏の墓を断念し、その先まで行ってみたが、これという墓もない。
来た道を裏側を引き返すと、右の側面に「村尾氏」として、先とは別の墓が、間一基を隔てて立っていた。その背面に「正、天保十二年辛丑五月二十九日」とある。
おやと思い表へ廻ると「正靖居士晴雲真士」とある。裏の天保十二年五月二十九日」は没年であろう。
その墓は臺石が二段になっており、棹石は幅一尺、高さ二尺五寸ほどの、皿型をして、縁のある、ささやかなものである。
正面の法名の下に墓の字があったらしいが、そのあたりは横に広く剥落しており、右の脇に「何々法尼」 左に「何々童女」とある。上部も剥落している。
先の合葬の墓の文を読み直してみると、村尾氏は清和源氏で、山名氏の枝流になり、本国は但馬だったこと。その先を山名師氏といい、その子孫は世々周防の岩国に住していたが、師氏十二世の孫 村尾權右衛門誠正が壮年にして江戸に到って、清水家に仕えたこと、その法名を瑞雲院釋潸龍居士ということなどが記されていて、終わりに、「大正十二年三月改修、山名左衛門權左衛門氏 十七世孫 当家六代村尾文男 記之」とある。
してみると權右衛門誠正が村尾氏の初代になり、この人が正靖の祖父くらいになるらしい。
墓の正面には「村尾氏之墓」とあって、上に杏葉の紋がついている。
村尾氏の四つの墓は、左から二番目に「瑞雲院釋潸龍居士、春暁院釋妙暉信女」と法名を二行に刻しているのが、すなわち誠正夫妻の墓。左側面に「安永七戊犬歳二月十八日」とあるのが誠正の没日で、右側面に「明和五戊子歳二月十六日」とあるのは、その妻の没日であろう。
誠正夫妻の墓の右隣に、法名を三つ刻した墓があり、涼月院玉林妙照法尼というが天明八年十一月二十日に、東淵院釋常心居士というが、寛政六年正月十四日に没していることが知られる。この東淵院が正靖の父らしい。正靖の母は、その墓に桂仙院釋素月信女とある人らしいが、その没年は刻されていない。
p.276
上の文をまとめると、こんな感じだ。
村尾氏は清和源氏で、山名氏の枝流にあたる。本国は但馬。
祖は山名師氏といい、子孫は代々 周防の岩国に住んでいたが、
師氏から十二代目の村尾權右衛門 誠正が壮年にして江戸に来て、清水家に仕えた。
初代 村尾權右衛門 誠正 の法名は瑞雲院釋潸龍居士で、没年は 安永七 (1778) 戊犬歳二月十八日。
その妻の法名は春暁院釋妙暉信女で、没年は 明和五 (1768) 戊子歳二月十六日。
二代目 村尾 ( 名は不明 ) の法名は 東淵院釋常心居士で、没年は 寛政六年 (1794) 正月十四日。
その妻の法名は桂仙院釋素月信女で、没年は刻されていない。
三代目 村尾正靖 ( 嘉陵 ) の法名は 正靖居士晴雲真士で、没年は 天保十二年 (1841) 五月二十九日。
山名左衛門權左衛門氏 十七世孫 当家 六代 村尾文男さんが「大正十二年 (1923) 三月改修」
【森銑三氏のまとめによる村尾嘉陵】
村尾正靖、字は伯恭、通称は源右衛門、嘉陵と号す。
清水家の士にして御廣敷用人となる。
はじめ浜町の賜舎に住まい、のちに麹町三番町に移る。
人となり慎密にして醞藉。遊行を好み、暇あれば杖を郊外に引く。
その探訪の概を記せるものすべて五偏、名付けて『嘉陵紀行』という。
正靖、宝暦十年 (1760) に生まれ、天保十二年 (1841) 五月二十九日に没す。82歳なり。
麻布四の橋 西福寺に葬られ、謚して正靖居士晴雲信士という。
正靖の子は榮蔵といい、三番町の邸には榮蔵屋敷の稱がある。
皇居の田安門の古地図から右下 ( 赤丸 ) に「村尾栄蔵」の名があった⤵

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2025年08月21日 昼ごはん
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2025年08月21日 夜食
今日はお友だちの家の猫の検診におつきあいをしたのと、MOURI が留守だったので
夜ごはんは食べたような食べなかったような・・・

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