Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

吉田修一『国宝』

 

吉田修一 著『国宝』読了

上演中の映画『国宝』を見る前に是非にと、原作を読んだ。

従来の吉田修一さんとは異なる文体「~でございます」に多少戸惑いながらも、

次第に物語の世界観に引き込まれ、一気に読み終えた。

 

今回の作品は、歌舞伎界の中心的存在の女形が主人公。

今まで歌舞伎界の裏側を描いた小説は、弟子や奥さんなど周囲の人間が主人公で、その人たちの視点で綴られたものが多く、本作のように主役級人物の視点で描かれた作品は、あるようでなかったのではないだろうか。

 

【物語】

任侠の家に生まれた立花喜久雄が、歌舞伎の名門当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界に足を踏み入れる。

喜久雄は、花井家の跡取り息子・俊介とライバルとして互いを高め合いながら、芸の道を追求していくが、ある事故をきっかけにその運命が大きく揺らぐ。

日本芸能界の激動の時代を背景に、血族の絆、栄光、そして裏切り、スキャンダルといった人間ドラマを通して、芸に人生を捧げた男たちの葛藤と成長を描いた壮大な一生の物語。

 

主なあらすじ

誕生と転機:1964年、長崎で任侠一家に生まれた喜久雄は、抗争で父を亡くす。

歌舞伎の世界へ:その才能を見抜いた上方歌舞伎の名門当主、花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。

ライバルとの切磋琢磨:跡取り息子である俊介とは兄弟のように育ち、親友でありライバルとして共に芸に青春を捧げ、互いを高め合っていく。

運命の転換:ある日、半二郎が事故で入院し、その代役に息子の俊介ではなく喜久雄が指名されたことで、二人の運命は大きく揺れ動く。

 

以上が上巻 ( 青春篇 ) の流れ。

下巻 ( 花道篇 ) になると、半二郎という後ろ盾を失った喜久雄が、嫌がらせを受けたり、仕掛けられたスキャンダルでつぶされそうになったり、借財から不本意な仕事に甘んじなければならないような苦悩の日々を送る。一方、復帰した俊介は順調に芸の道を歩み始めるが、俊介も病魔に襲われる。

 

 

 

喜久雄や、俊介や、当代一の名女形・小野川万菊を通して、芸に生きる男たちの生きざまが見事に描かれていて面白いが、歌舞伎にかかわる女たちの話にも存分に惹きつけられる。

本作人気の理由は、どの人物に感情移入しても楽しめるところにあるのだと思った。

女たちのエピソード、こんなところが印象的

喜久雄を花井半二郎のもとに送った継母・マツは、下働きをして稼いだ金を送金し続ける。

二代目半二郎の妻・幸子は梨園の妻として、夫・実子と喜久雄・孫の三代の役者を支えて生きる。

特に心に残ったのは幸子と綾乃のこんなシーンだった。

 

喜久雄が花井家にやってきた初日の、幸子のあしらいが痛快

幸子に呆れられたこの少年、花井半二郎の一人息子で本名を大垣俊介、すでに花井半弥の名で初舞台も踏んでいる喜久雄と同じ十五歳でございます。

母親に子供扱いされたのが癪に障ったのか、新参者の喜久雄たちのまえで威勢の良いところを見せようとしまして、

「なんや、今度の下働き、えらい若いな」

と憎まれ口です。

喜久雄も徳次も普段なら売られた喧嘩は喜んで買うのですが、目の前にいる色白な少年の、その透き通るような肌に呆気をとられておりまして、自分たちが喧嘩を売られたことにも気づいておりません。

  ~中略~

反応のない喜久雄たちに焦れて、俊介は不機嫌そうに席を立ちますと、

「この丼、片付けといてな」

と、喜久雄の肩をポンと叩いて出て行こうといたします。そこでやっと我に返った徳次が、

「おうおう、片付けとけ?お前わい、誰にもの言いようか分かっとるんか!」

と、その胸ぐらを掴みます。

たいがいの少年は、場馴れした徳次の啖呵に震え上がるのですが、こちらの俊介、見かけによらず胆が据わっておりまして、

「誰にて、お前わいらにじゃ!ボケ!」

と食卓は一触即発、少しでも誰かが動けば、乱闘騒ぎの緊迫であります。

ただ、そこで動いたのが幸子でして、

「あー、邪魔くさい、どうせ、アンタら、すぐに仲良うなるんやさかい。いらんわ、そんな段取り。でもまあ、しゃーない。喧嘩するんやったら、今日明日でさっさと終わらしとして

p.113

 

綾乃が父親の喜久雄に愛憎を抱いていたことにドキリとする

綾乃の娘・喜重が自宅で火事に遭い重傷を負う。

どうか助かってくれという一心で運ばれた病院に行く喜久雄だが、そこに綾乃が立ちふさがる。

「綾乃!」

思わず我が子の名を呼び、喜久雄が駆けよろうとしたそのときでございました。

「来んでええ! お父ちゃんは来んでええ!」

と両手を広げた綾乃が、そう叫んだのでございます。

思わず、足を止めた喜久雄、

「綾乃・・・」

その名を細く呼びますが、まるで我が娘を奪おうとする炎を見るかのような綾乃が、

「嫌や!来んといて! これ以上、近寄らんといて! なんで? なあ、なんでなん? なんで、私らばっかり酷い目に遭わなならへんの? なんでお父ちゃんばっかりエエ目みんの? お父ちゃんがエエ目見るたんびに、私ら不幸になるやんか! 誰か不幸になるやんか! もう嫌や! もうこれ以上は嫌や! なあ、お父ちゃん、お願いや。わたしから喜重を取らんといて!なあ、もうええやんか・・・」

自分を睨みつける綾乃の瞳の奥に、忘れ去っていた一つの光景が浮かんできたのはそのときでありました。

 

ああ、この子はずっと俺を憎んでいたのだ。そして俺はそれを知っていながら、ずっと気づかぬふりをしてきたのだ。

 

あれは『太陽のカラヴァッジョ』という映画に出演し、過酷な撮影のあと体調を崩した喜久雄が、京都の市駒を頼ったころでございました。

 

ある夜、まだ小学二年生だった綾乃と近所の銭湯に行った帰り、白川のほとりの小さな稲荷神社に寄りまして、二人並んで手を合わせたときでございます。

「お父ちゃん、神様にぎょうさんお願いごとするんやなあ」

と、喜久雄のやけに長い参拝に、横で綾乃が笑いますので、

「お父ちゃん、今、神様と話してたんとちゃうねん、悪魔と取引してたんや」

「ここ、悪魔いんの?」

「ああ、いるで」

「その悪魔と、なんの取引したん?」

「『歌舞伎を上手うもうならして下さい』て頼んだわ。『日本一の歌舞伎役者にして下さい』て。『その代わり、他のもんはなんもいりませんから』て」

その瞬間、綾乃の目からすっと色が抜けました。

p.347

 

吉田修一さんは作品を書くにあたって、黒子になって歌舞伎の舞台裏を見させてもらったという。

好書好日のインタビューで、こんな話をされていた。

book.asahi.com

ある方を通して、四代目鴈治郎さんを紹介していただいたんです。

「こういう小説を書きたいと思ってるんです」という話をしたら「だったら、黒衣をつくってやるよ」と言ってくれて、でも初対面でしたし、飲み屋話だろうと思っていたら、翌月くらいに楽屋に顔を出した時に、すぐ寸法を測ってくれて、本当につくってくれたんですよ。「黒衣を着ていたら、舞台裏にいても目立たないから」って。

ちょっと言い方はあれですが、歌舞伎役者、すげえって思いましたね(笑)

 黒衣をつくってもらってからは、歌舞伎座はもちろん、博多座、松竹座、京都歌舞練場まで日本全国、鴈治郎さんの舞台は全部ついてまわりました。

楽屋にもいるし、稽古場にもいたし、黒衣だからお弟子さんたちと一緒にあいびき(出番待ちの時に座る椅子)とか持って、楽屋から舞台袖までついていったりとか、連載が始まる前からそれをやらせてもらって、連載中も、本当にね、ずーっと、いたんです。

 

舞台裏で見た役者の「あわい」

――まさにスイッチが切り替わる瞬間を観ちゃったたわけですね。

そうですね。女形にしても、一番なまなましいなと思ったのは、あわいというか、舞台と楽屋の中間にある場所があるんですけど、そこですーっと入れ替わるんです。

 

主役級の女形さんじゃなくても、たとえば腰元役の人たちが舞台から降りてくるじゃないですか。草履履いて楽屋行く時には、ちょっとがにまたになってたりする。普通にスタスタ、大股で歩いてるだけなんだけど、着物がそのままだから、えっと思うわけです。

逆に舞台に出ていく時は、すっと女形の所作になっていて、その中間の部分というのを、そこに立って、ずーっと見ていたので。

楽屋にいれば、鴈治郎さんの息子の壱太郎くんが隣で支度しているわけで、裸でおしろい塗ってる姿は、やっぱりなまなましいんですけど、襦袢着て、着物着て、出ていく時は、もう、藤あや子みたいに見えるわけです(笑)。 

 

 

この、歌舞伎役者のスイッチの入れ方に関連するエピソードが小説にあった。

娘の家が火事になったという知らせを、喜久雄は舞台に出る寸前に聞くのだが、

こんな話を出番の前、袖で聞くなんてことも歌舞伎界ではあるのかと、私は驚いた。

蝶吉が持つ懐中電灯に足元を照らされて、袖から舞台に上がりましたのか油屋の内儀に扮した喜久雄で、今夜が千秋楽とはいえ、幕開きの芝居となる店先での御用聞きとのやりとりを、

「そんならここに三百七十匁。これ、よう改めてくださんせ」

「気ぃつけて行かっしゃれ」

今一度、若い相手役と合わせておりますと、書き割りの裏からどこか切迫した人声で、

「三代目に伝えたほうがいい」「いや、もう幕が開く」となのやら言い合う様子。

「なんだよ?」

思わず喜久雄が声をかけますと、舞台に駆け込んできたのは三友の社員で、顔は蒼白、携帯を握った手が震えております。

「なんだよ? 言えよ」

「はい、すいません。今、本社から連絡があって、三代目のお嬢さんのお宅が火事に…」

「綾乃たちは! 無事なのか?」

「え、はい。いえ、あの…」

p.342

「役者は親の死に目にも会えぬもの」と昔から言うが、

結局 喜久雄も、事故の話を聞いても最後まで舞台を務める。

 

それで思ったのは「こういった話を出番の前の役者にするだろうか?」ということ。

役者はどんなことがあっても舞台を途中でほっぽり出すわけにはいかない。

そんな役者の出の前に、こんな話をしたらただヤキモキさせるだけ。

関係者がやるべきことは、出番の前には役者の耳に入れず、上演中には事故等の情報収集にはげみ、舞台がはねたあと素早く病院にむかえる手配を整えることではないだろうか。

 

そんな風に考えこのシーンを読んだ時、吉田さんが接した歌舞伎役者の日常と舞台との「あわい」は、一般的な舞台俳優の「あわい」とは少し違うようにも想像してしまった。

 

舞台俳優といっても、個々俳優の性格にもよるし、おかれた状況・立場によっても違うだろうけれど、やはり板に立つ直前の心境や精神統一の仕方は、歌舞伎役者と違う面があるように思った。

歌舞伎には「型」があり、それに支えてもらえる一面もある。

ところが一般的舞台にはその「型」がないから、相手役との生のかけあいで芝居を成立させなければならない。そういった意味で想像するに、出番直前の俳優の心構えは、歌舞伎役者のそれとは若干違うのではないだろうか。

例えば私が俳優のマネジャー的立場であったら、出の直前の俳優の耳に入れないだろうし、俳優の方も「舞台が終わるまで黙っていてくれて助かった」と言うのではないかと思った。

 

 

最後に原作を読んでふと思った疑問と感想を。

まだ作品に触れていない方には申し訳ない、ネタばれにもなってしまうが、

以下は私の独白。

  • 娘の綾乃がグレてしまった時に面倒をみよう言い出したのが妻・彰子ではなく、元恋人で今は俊介の妻になっている春江だったのは何故か。
  • 喜久雄は終末期の辻村から、「お前の父親を殺したのは俺や」と告白されるが、何故 責めことなく許したのだろう。
  • 喜久雄の父を辻村が殺した時に居合わせた花井半二郎は、何故その事実を喜久雄に言わずにいたのか。 

 

文庫を買ったら、表紙カバーが二重に

最近よくあるが、映画上演中に合わせてこのカバー。

分厚いなとよく見れば、

内側にはもうひとつこのカバーがあった。

 

 

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