昨日の《訣別の碑》に関連することを蔵書『郷土渋谷の百年百話』で調べたところ、
後藤力蔵さんという方の談話が掲載されていた。
後藤さんは代々木の原で生まれて、練兵場に買い上げられた時のことをよく覚えていらした。
以下がその談話
代々木の原が買い上げられた頃 ( 後藤力蔵氏談 )
わたしのおやじ、佐太郎は明治の初めに上豊沢村だった前耕地の原に、明大前から移住して、此処に城を築いた。 ( 自分の住家を建てること ) 場所は原から隠田へ通じる陸橋の近くだ。わたしは其処で生まれたので「お前は鉄道 ( 山手線 ) が通ったとき生まれたんだゾ」と幼少からたびたびきかされていた。明治四十一年に代々木の原が陸軍の練兵場に買い上げられるまでは原の殆どが畑で、人家はわたしの家の外は北谷隠田の近くに七、八戸あるにすぎなかった。岡部の池という、昔のお大名さんの屋敷跡に古い池があって、子供らの遊び場だった。明治二十五年に渋谷小学校へあがったが中島という校長の頃だった。原にあった家は練兵場ができると、みんな
下村 の北谷稲荷周辺へ移ったが、それから畑がなくなったせいか、大雨が降ると岡部が池が溢れて大出水になり、そのたんびに下村の衆は被害を受けるようになった。練兵場に買い上げられた土地代金の十二万円を、おやじは日本銀行まで受取りに行き、貰った現金包みをおやじが抱えて、わたしと兄の仙太郎が両脇について小舟町の第三銀行へ預金したものだった。 ( 昭和三十六年十二月二十二日、世田谷松原の自宅にて )
『郷土渋谷の百年百話』p.418より
後藤さんが住んでいらしたのは隠田なので、《訣別の碑》で燈篭を奉納した代々木深町の方たちとは違うが、当時の様子がうかがえる貴重な話。
因みに同じ『郷土渋谷の百年百話』p.438には、手書きの地図があったのでそれを借用しました。

2025年10月24日 朝ごはん
あごだしうどん


2025年10月24日 夜ごはん
ゴーヤの天ぷらが食べたいと言い出すしとがいて、
今日のメインは苦手な天ぷらをします。
まずは三品盛と、ちくわの磯部揚げ

ゴーヤだけじゃなんなんで、かき揚げと海老天をプラス

あらまあ、美味しそうじゃ あーりませんか うひひ

基本は塩ですが、一応 天つゆと山椒塩を用意しました
