久米民之助さんとご子息で建築家の権九郎さんのことを調べていたら、
おあつらえ向きの本に巡り合った。

この本は日本建築界の大家たちの人となりや作品を、弟子が紹介する形になっている。
久米権九郎氏のページは、久米設計会長だった櫻井清氏(後に相談役となり、2001年10月死去) の講演から書き起こされている。
櫻井氏は、久米権九郎を語る上では父君のことが不可欠と、序盤に民之助さんの話をしている。
( 久米権九郎の ) 父上は久米民之助といい、その父、つまり久米先生の祖父・久米権十郎は群馬県沼田の沼田藩の奉行でした。民之助はその長男として生まれ、1873年 ( 明治6年 ) に東京に出て、最初は慶応義塾大学に学びました。1878年に工部大学土木科 ( 現在の東京大学工学部 ) に入学、1881年に卒業と同時に宮内省皇居御造営事務局に土木技師として入りました。
外遊の機会を与えられ、帰国後、皇居二重橋の設計者となり、二重橋造営にあたりました。工部大学校助教授を経て大倉組に入社し、1890年、久米工業事務所という土木・建築の設計事務所兼建設会社を設立しました。
民之助は、土木技術者であると同時に実業家としての才能に優れ、土木事業、鉄道建設事業、水田開発事業、火力発電事業など広範囲な事業を日本国内から朝鮮、台湾で展開していました。
実業家として大成功を収め、たいへんな財産を築き上げました。また、1898年には衆議院議員に当選し、政治活動も行いました。
そうして代々木上原にお屋敷を持たれたのか。
代々木上原の久米邸は約四万坪、その中には立派な能楽堂もあったらしい。
東京地層地図より 明治のおわり ( 約115年前 )

東京地層地図より 関東大震災直前 ( 約105年前 )

地元では「代々木御殿」と言われていた。
下の火災保険図は、久米さんが徳川さんに譲渡した後のものなので「旧徳川邸」となっている。

櫻井氏の話は続く
久米先生から子供時代の思い出話として、屋敷の庭で鴨などを鉄砲で撃ったり、クレーを飛ばして撃って遊んだ話などを聞かされ「へえー」と開いた口がふさがらない思いをしたことがあります。
その後、この屋敷は徳川侯爵に譲渡して、目黒に約三千坪の土地を購入して鉄筋コンクリート造の住宅をつくりました。その家には、エレベーターが付いていたそうで、当時、住宅にエレベーターを付けたのは日本では初めてだったとのことです。
権九郎さんの名前の由来も面白かった
この珍しい名前も祖父が権十郎であると聞けばなるほどと納得します。
また、父上の民之助が豪快な人で、俺のようにすぐれた人間は子孫をたくさん残さなければならない、男の子を十人つくるのだということで長男に民十郎と付け、二男が権九郎、三男が平八郎、四男が五七郎と、十から逆算で名前を付けて行き、功五郎、力四郎まで記録に残っています。そのほかに女の子が四人で合計十人という大勢の兄弟姉妹でした。
「俺のようにすぐれた」とホントに豪語したかはわからないが、
そう言われれば「なるほど、そうですねー」と言うしかなしである。
民之助の長女・万千代は五島慶太夫人
万千代は民之助の祖母の実家である沼田藩の五島家の養女になっていたところ、久米家やほかの名家で書生のようにして東京帝国大学で学んでいた長野県出身の小林慶太に惚れ込まれ、慶太が結婚を申し込んだところ、五島家の養子になるならと言われて、承諾して五島慶太となった。
この人が後の東急コンツェルンの総師となった五島慶太。
権九郎とは義理の兄弟となり、後に久米建設事務所は、銀座東急ホテル、キャピトル東急ホテル、下田東急ホテル、渋谷・東急文化会館等の建設を請け負っている。
2025年12月04日 朝ごはん
グリーンカレーにじゃがいもと骨付き鶏を入れたら、あらまあ美味しい
袋麺が豪華な一品になりました

2025年12月04日 遅い昼ごはん
MOURI のウクレレレッスンの日なので、出がけ ( 15:00 ) にご飯を食べる

焼き鮭

蟹クリームコロッケに卵焼きとウィンナー

最近「私、やっぱり卵は固焼きが好き」と気づき、
それからカッチカチに焼くことにした。
あんまり美味しそうではないけれど見た目より、好みを重視。

カブの味噌汁にはやっぱり油揚げでしょう。