Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

代々木御殿の住人

 

久米民之助が住んだ代々木上原の家を買ったのが徳川家というけれど、

正確にいうと、紀州徳川家 第15代当主・徳川頼倫さん

 

大正過去帳 : 物故人名辞典 - 国立国会図書館デジタルコレクション

頼倫さんは、田安徳川家第8第当主・徳川慶頼の六男として1872年 ( 明治5年 ) に生れ、

1880年 ( 明治13年 ) に紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子となり頼倫と改名。

妻は養父の長女である久子。

1902年 ( 明治35年 ) 4月に東京市麻布区飯倉町六丁目14番地の邸内に南葵文庫を設立。

古書の散逸を防いだ。

その後、関東大震災で被災した麻布本邸に代わって、代々木を本邸とし「清和園」と名付けた。麻布本邸にあった施設図書館「南葵文庫」の古書は、震災後 東京大学に寄贈するなどし、代々木本邸には頼倫候の書斎「九思斎」を新設、こちらにも相当な書架があったらしい。

 

1925年 ( 大正14年 ) 5月18日 豊多摩郡代々幡町代々木上原1177番地の本宅に帰宅後、顔面蒼白さなり苦痛を訴えたため医師が応急処置を施したが、翌5月19日午前

0時10分に死去。52歳没。

 

旧徳川邸のその後

徳川頼倫さんが、旧久米邸に住んでいたのはわずかな時期だったらしい。

久米民之助の次男・権九郎さんの話では徳川家は散々な目にあっていたようだ。

その後、紀州家では悪質な家来がいて、主人の留守に襖絵を剥がして売ったりして、遂々東急に身売りし、東急では池を埋めて山を崩して分譲してしまったものですから、昔の面影は居間は全く見られません。その時庭にあった能舞台は多摩川の遊園地近くに移され、これが戦災を免れた東京で唯一の能舞台として戦後の能界に大きな役割をはたしたのです。

久米権九郎追想誌 生い立ちの記 p.14より

 

 

2025年12月12日 朝ごはん

 

 

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