島崎藤村『嵐』を読んだのは、子供むけの全集だった。

古いものです。
今から67年も前、1959年 ( 昭和34年 ) 発行。

学校の図書館におくのにピッタリの本で、

子供が乱暴に扱っても耐えうる丈夫なハードカバー

筆者紹介にも多くのページが割かれていて

作品の読みかたまで掲載されていて、

小学生が昭和の文学作品をどう読むのかを指導する、
いわば国語の教科書の副読本のようなものだ。
全集には島崎藤村だけ二巻あるが、何故『嵐』が選ばれたのかが興味深い。
藤村といえば、『夜明け前』『破戒』などが有名だが、長いし大人向けの内容だから選ばなかったのかしら。
収監されている『嵐』も『分配』も、子供たちとの生活を書いたもので、
その時期、父親である藤村はまだ姪とも関係したし、大人のいざこざ真っ最中。
流石に『嵐』『分配』には、こま子の《こ》の字も出てこないが、子供たちが大人になった時には「そうか、お父さんはあの時こんなことをしていたのか」と愕然としたのではなかろうか。
同時に、小学校の時のこれを読んだ子供の読者も複雑なはず。
全集の「藤村の一生とその作品」で編纂者 滑川道夫さんは、どう解説しているかというと⤵
この年は童話を書くというかわり目にもなりましたし、一身上の生活にも大きな変化が起こりました。藤村の心を暗い谷間につきおとすような、おとなの世界のできごとがあって、胸のふさがる思いをエルネスト・シモン号にのせたのです。大正二年四月十三日の夜、船は神戸のさんばしをしずかに離れました。
なんだか詩的な文章 💦
これではまるで被害者みたい。男と女の問題は当人にしかわからないことで、もしかしたら《姪が誘惑した》ということなのかも知れないが、仮にそうであっても一線を超えた責任は藤村にもあるはずで、こんなゆるい説明で良いのだろうか。
もし私が幼少期、この文章で島崎藤村を認識し、大人になって当時の事情を知ったとしたら、藤村に対しても滑川さんに対しても、微妙に裏切られた感があったろうにな。
藤村が46歳の時に転居した麻布飯倉片町23番地の跡地の写真。



ここで童話を多く書いたそうだが、時期的には『新生』の下巻を書いている。
当時 彼の周りには二人の女性がいた。
ひとりは姪のこま子、もうひとりは後に妻となる静子。
( 静子さんとの結婚は、3年ほど後のことになるようだが、交流はあったようだ )
2026月01月13日 朝ごはん
焼きそば


2026月01月13日 軽食
時間はずれに、やまとこMOURI が買ってきてくれたパンを食べてしまった。

2026月01月13日 夜ごはん
軽食がきいてお腹が空かないね、といいかげんな夕飯でした


おまけ
『嵐』の一部分。
文章は本当にウマいのだがなあ・・・
私たち親子のものは、遠からず今の住居を見捨てようとしている時であった。
こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋ずつを要求するほど一人前に近い心持ちを抱いだくようになってみると、何かにつけて今の住居は狭苦しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟きょうだいは二人ふたりともある洋画研究所の研究生であったから、)末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関側きの四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るいようでも西日が強く照りつけて、夏なぞは耐えがたい。南と北とを小高い石垣にふさがれた位置にある今の住居は湿気の多い窪地にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子はことに暗かった。
「ここの家には飽きちゃった。」
と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人でも借家をさがしに出かけた。
ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二町はある。煙草屋へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋へも五六町はあって、どこへ用達に出かけるにも坂を上ったり下ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
実に些細なことから、私は今の家を住み憂うく思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。
私が早く自分の
配偶者 を失い、六歳を頭 に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供らをどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養えないことはあるまい、その決心にいたったのは私が遠い外国の旅から自分の子供のそばに帰って来た時であった。そのころの太郎はようやく小学の課程を終わりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛わんぱくざかりの少年であった。
私が地下室にたとえてみた自分の部屋の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀へいを境に、ある
邸 つづきの抜け道に接していて、小高い石垣の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏を持ち出して、よく延びやすい自分の爪つめを切った。