天誅組のメンバーで生死を分けた二人の人物がいた。
伴林光平は、獄中で『南山踏雲録』を書いた後、処刑されている。
平岡武夫は、天誅組の生き残りとして明治になってから男爵になっている。
左の絵は伴林光平。 右の写真は晩年の平山武夫 ( 北畠治房 )
※『南山踏雲録』は天誅組一党の戦陣記録として、天誅組義擧の精神を後世に伝えている。
平岡武夫の本名は平岡鳩平というが、天誅組当時は平岡武夫を名乗っていた。
明治期には南朝の功臣 北畠親房の末裔と自称し、北畠治房と改名しているが、
今回は、天誅組当時の名前--平岡武夫として話をすすめることにする。
平岡は、伴林光平に師事して国学を学び、過激な尊王攘夷思想に傾倒し、天誅組の変が起ると師匠・伴林を誘って参加する。
その時のいきさつがこうである。
天誅組一党の宍戸彌四郎から伴林光平および平岡武夫に参加を求める書状が届いた。
光平は天誅組の領袖とも親交があり、今度の義擧についても、下相談は受けていたのであろう。
宍戸彌四郎は、一党の合図掛というのだから、準幹部どころであろう。
その手紙は、次のような文面であった。
菊池寛 著 『天誅組罷通る』大日本雄弁会講談社 p.84より
光平は、大阪薩摩堀の廣教寺に和歌の会があって、前日から不在だった。
手紙を見た平岡武夫は、急使を大阪に走らせて光平の帰郷を求めた。
こうして二人は天誅組に参加した。
ところが京都の政変により、天誅組は一転して逆賊とされ、幕府軍の追討を受け壊滅。
天誅組のメンバーほとんどが討ち死にし、辛うじて生き残った者は各自散り散りになって逃亡したものの多くが戦死、捕縛された者も後に京都六角獄で刑死する。
二人はどうなったかというと
伴林光平は捕縛され刑死するが、包囲網をくぐって回避できた平岡は大阪まで逃げ延びている。
『天誅組罷通る』にはこんな風に書かれている。
二人の勤王志士の運命の岐路は、額田部の里で別れたことにある。
平岡は、光平と別れた後、京都に潜行して、幕吏の逮捕の逃れ、維新の後世に生き延びて、北畠治房と改名して司法官となり、後に大阪の控訴院長になり、男爵になった。
光平は、額田部から故郷の法隆寺駒塚に忍んでから京都に出でんとして、捕らわれて斬首されている。
尤も、平岡と光平の場合ばかりでなく、維新の志士の場合は、誰でも死か栄達かの運命の巷に絶えず立っているのだから、二人の親友の一人が悲命に斃れ、他の一人が大臣参議になった例は、いくつでもあるのだが、平岡と光平の場合は、一人が他の人を裏切って、悲命に陥れているように見えるだけ、後世の我々にもいい気持がしないのである。
平岡のために、好意に解釈すると、額田部の額安寺で別れたとき、光平は、その夜は額安寺に宿まる筈であった。それで、平岡は深夜額安寺に使者をやったのだが、光平は寺僧に宿を断られたので、額安寺にいることが出来ず、駒塚に去っていたので、使者が用を果たさなかった。それが、光平に恨まれる原因だというのである。両方とも落人の身で、世を忍びながら事を運ぼうとするのだから、そうした手違いは起こりやすいのだ。
後年 北畠治房男の正式な弁解は、つぎの通りである。
余比に初めて、光平に此著あるを知り、且つ余に対して、不満を懐けりしを耳にし、その意外なるに驚き『額田部の田邊の巷に別れし人は恨め吏り我を知らずに』と、打ちかこち、すなわち惟えらく、今聞く所によれば、光平額安寺により、これに待つ能はず、出でて安堵村に来たり、今村を訪ひ、留守宅の変を聞き、憤懣に耐えず、すなわち精神錯乱を来たし、その處にも居たたまらず、辞去したるも、流石に恩寵の情、二児のために、身にもちたる金に歌を添えて、門外より投げ込みて後、その児らが居らぬ駒塚の旧住に途迷い行き、囀た塚山の木隠れに余の報を待ちしとは本気の沙汰に非ざるを推知ける。事実は額田部の額安寺から光平が離れたため、行き違いがあったにしろ、この弁解の文章は、顧みてやましい所のない君子人の筆致とは、どうしても思われない。不遇にも死んだ盟友を精神錯乱者扱いにするが如き、その昔光平を裏切らなかったにしろ、売りぎりかねない程度の性格の険しさを示している。
もっとも、平岡が、光平を誘い合わして、京都に向かったならば、狸も閉口するほど眼玉が大きい光平は人目につき易く、二人とも捕吏の好餌となっていただろう。
光平は、平岡に比べれば、名も知られ、顔も知られていたから、どうせ免れがたき、運命であっただろう。が、平岡の弁解の文章の中にある留守宅の変とは、何か。光平は、可哀想に、その妻にも裏切られていたのである。
菊池寛 著 『天誅組罷通る』大日本雄弁会講談社 p.138より
といった具合に光平は死に、平岡は生き延びたわけだが、
その後の平岡武夫の生涯はさらに波瀾に満ちている。
彼は、追手を逃れて潜伏し京都・大阪を転々とする。
やがて旧知の水戸藩士に誘われて天狗党に参加するも、早期に離脱。
戊辰戦争では有栖川宮熾仁親王の軍勢に加わる。
明治維新後は司法官となり、横浜、京都、東京裁判所長、大阪控訴院長を歴任。
任期中起こった小野組転籍事件の裁定に辣腕を振るい、槇村正直と舌戦を繰り広げた。
明治十四年の政変で失脚し、立憲改進党に参加。
東京専門学校(現在の早稲田大学)の議員も務めた。
男爵に叙任され、法隆寺近郊で余生を過ごした。
以上は、橋川紀夫 (id:awonitan) さんの記事 ( ⤵ ) で知りました。awonitan.hatenablog.com
天誅組から、天狗党、そして戊辰戦争と、なんとスリリングな人生なのだろう。
それほどとんでもない危険な戦いを何度も潜り抜けて生き抜いてきたとは。
これについては「くだらな」のShimojo さんの ( ⤵ ) 記事に爆笑してしまった。
平岡武夫のことを知ればしるほど《逃げ足の速い、悪運強き人物》という印象を強くする。
因みに晩年の、北畠治房と改名してからの彼のエピソードも愉快だった。
最晩年は法隆寺の信徒総代をつとめていたらしいが、雷爺とか、胡散臭いとか、傲岸不遜だとか散々に言われている。
因みに、平山武夫 ( 後の北畠治房 ) の旧宅は、布穀薗という結婚式場として公開されているらしい。
その素晴らしさといったらない。
一度訪ねてみたいものである。
本日の昼ごはん
魚介とんこつつけ麺のスープで作ったラーメン
本日の夜ごはん
ほぼほぼ酒のつまみ
里芋は、出汁と白だしと柚子胡椒で仕上げた
ひさしぶりのししゃも
【その他の参考資料】