garadanikki

日々のことつれづれ 駄目駄目さんのガラクタ日記

三笠屋さんの美味しいもの~山帰来

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以前、旬の帰りに見つけた和菓子屋さん。

下高井戸は、車を停めて待てるような広い道がありません。

離れた所で私が車で待ち、

徒歩でMOURI が買いに行ったのですが、

方向音痴の彼は迷子になってしまった。

 

今回は私も同行することになり、

甲州街道沿いの100円パーキングに車を停め赴きました。

 

 

 

 

いい感じの和菓子屋さん。

 道明寺、草餅、どら焼きと、よく見る和菓子の中に、見たこともない和菓子があります。

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山帰来、サンキライと読むそうです。

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柏餅のようで柏餅でない。

皮をめくってみる。

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うおー、面白い。

餡子ではなく、餅と餡子が合体した平らな具がおわします。

 

持ち上げてひっぱってみた。

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のびーるのびーる、うんまい。

これは癖になる。

 

こちらは草だんご

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半分にわってみる。

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むぎゅーーーー

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草餅も、これまたおいし。

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餡子の色も上品ですな。

 

薄皮饅頭も美しい

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このてり さいこー

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むぎゅーーーー

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こちらも、しっとりしていて、甘さも上品に控えめで本当に美味しいです。

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この三種のセレクト、大正解でした。

お値段も150円くらいと手ごろですから、大人数の現場への差し入れにバッチリではないかしら。

女将さんにお聞きしたら、

「山帰来は大量にお買い上げになられるお客様もいらっしゃいます」とのこと。

ケーキよりもリーズナブルだし、美味しいし、珍しいし、

差し入れ・お土産などと同じように考える方も多いのでしょう。

「午前中か、前日にでもご連絡いただければお取り置きいたしますよ」

嬉しいお話です、女将さん是非その節はよろしくお願いいたします。

 

彩りのよい朝食

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綺麗な彩りのご飯が出来た朝は、それだけで楽しくなる。

 

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トマトにセロリのスプラウト

この時期だけのスプラウトはごちそう。

 

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長芋とさやいんげんをソテーしました。

こころもち硬めに出来たから、見た目はいいが、MOURI には硬いらしい。

 

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今年お初のびわ

 

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みずみずしくて、甘くて、なんておいしいんだろう。

笹塚の果物屋さんでみつけました。6個で380円は安い買い物。

 

今週の旬祭~サゴシの刺身、カンパチ巻

週末のお楽しみ、旬の美味しいものたち

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珍しい刺身、サゴシです。

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これは渋谷のデパ地下 漬物屋さんで買ったエシャロット

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これはジンケンエビの唐揚げ

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鯛めしも、いつもの旬

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かんぱち巻には、すだちが乗っていました。

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これがまた美味しい。

酢飯を醤油で食べるのではなく、違った方向の酸味、スダチというのはなかなかのアイデアです。

 

 

ところが

実は最初に食べたサゴシに始まり、どうにも苦く感じました。

サゴシが苦いわけはない、どうやら薬の副作用か何かで一時的な味覚障害になってしまったようです。

苦さ ( 味覚障害 ) は翌日も続き、ああ、このまま味覚が狂うのかと、

大きく心配しましたが、薬を中止したらパタリと直りました。

 

よかった。

このまま、何を食べても苦かったりしたら、狂い死にしそうに辛いですもん。

食いしん坊ですから。

徳川慶喜の墓

御穏殿坂の再訪につづき、先日は時間がなくて行けなかったもうひとつの場所に行きます。

澁澤榮一さんに深く関係のある方のお墓。

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徳川慶喜の墓。

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徳川慶喜、最後の征夷大将軍です。

徳川慶喜 (1837~1913 ) は、水戸藩主 徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年 (1866 )正月に鳥羽伏見の戦いを起こして破れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。

 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年 ( 1898 ) には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年 ( 1902 ) には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年 ( 1913 ) 11月22日に77歳で没しました。

 お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。

 

徳川慶喜の墓だけがなぜここにあるのか。。。

そしてこのお墓の形もかなり変わっているので気になります。

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凄い。

徳川将軍の中で唯一、お墓が見られるなんて。

柵の間からのぞいてみる。

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しっかし、この石板、随分邪魔なところにあるわ。

墓の正面に立つと、右手の、奥方の墓石が隠れてしまう。

どうしたものなのか(笑)

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柵から投げ込まれているのはお榊です。

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慶喜さんは、徳川家で唯一の神道なんですって。

※ 徳川家康が東照宮というのは神道でもちょっと意味が違います。

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慶喜さんが宗旨替えをして「神道」になったことは、ボランティアのおじさまから聞きました。

「ちょっと前にね、門の前で30分もお経をあげている人がいたんですよ。

 困ってね~、で、教えてやりましたよ、ここは神道なんだよって」

おじさま、いつもここで説明されているようです。

 

でも、なんで慶喜さんだけ神道なんだろう。。。

おじさまに聞いてみたけど、そこらへんはスルーされちゃった。

どうやら興味の外みたい。

m(__)m 

何でも人に聞いて安直に済まそうとした私が悪かった。

はい。自分で調べます。

 

 

もうひとつ、おじさまから教えていただいた話。

徳川家の本当の字は「徳」ではなく「德」なんだそうです。

四の下に字が一本多い「德」の字。

墓石の字も「德」です。

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次から次へと、説明は続きます。

いいですね、おじさま、楽しそう。

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後記 )

徳川家の墓問題について、とてもわかりやすく解説されている方がいらっしゃいました。

アタシったら図書館や本で調べるんじゃなく、結局 人 (サイト) を頼ってしまいました。

たりきほんがーん m(__)m

ゴウさんのお陰で、慶喜さんが神道だったワケも、

他の将軍さんたちのお墓が増上寺だったり、寛永寺だったりするワケもわかりました。

 

 

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ゴウさんの記事にも出てきたお坊さん、天海さんというんですが、

この天台宗の高僧が徳川家の墓問題のキーマンになってることがわかりました。

 

先にお話した「御穏殿坂」に出てきた歴代の輪王寺宮にも、

この人が関わっとった。

輪王寺宮に親王や天皇の猶子をお迎えして継承してもらおうと

構想したのも、実はこの人だったのです。

凄くないですか? 徳川の菩提寺の住職を親王 ( 天皇の子供 ) にさせちまおうと言うんだから。

 

そもそも。

徳川家の菩提寺は浄土宗の増上寺だったんです。

それを、家康の側近として幕府にも深く関ってきた天海さん、この上の茶色い人ね。

この人が、家康、秀忠、家光を天台宗に宗旨替えさせちゃった。

 

家康の墓は、神格化させる目的で日光東照宮に神道として作りましたが、

それ以外の徳川家の殿様達の墓が、増上寺と寛永寺と、ごちゃごちゃになっちゃったのは、

天海さんのせい お陰?です。

以上の話の経緯は、ゴウさんの記事がとても分かりやすいので是非ご参照を⤵

歴代将軍の墓ってどこにある?徳川家の信仰と埋葬の謎を調べてたら夜が明けた。 | 調べてみた

本当にわかりやすくて、サクサク読めちゃいますから。

 

とにかくやり手の天海さんは、

なんだかんだで 寛永寺を上野に作って、その住職に親王を迎えてハクをつけて、

将軍の霊廟の半分を寛永寺に引っ張っちゃったんですから。

 

ああ、歴史のエピソードって、

学校で習う歴史は覚えにくいのに、なんだかこうやって紐解いてくと結構面白いです。

この時代って日本全体がガラっと様変わりしてしまった時代だから、

色々な人たちの考えが交錯していて興味深いです。

100年と経たない頃だから、資料も写真も豊富だし、こうして現存する場所を歩いたりしながら想像していくと、どんどんとのめりこんでしまいます。

 

今回は複雑な人間関係や、政治的かけひきに翻弄された慶喜が面白い。

御穏殿の最後の主 第十五世輪王寺宮 北白川宮能久親王も波乱の人生だったようですし。。。

どちらも調べたらもっと興味深いエピソードがどんどん出てきそうです。

 

こんなおもろい話もありました

例えば、鶯谷の名前の由来。

輪王寺宮 第3世の公弁法親王が、江戸の鶯が元気ないので、京都から美声で早鳴きの鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥したことから鶯谷という地名になったとか。

 

能久親王はドイツに留学してた頃、ドイツ貴族の未亡人と婚約したけれど、日本政府の反対にあって ( 叱られて ) 破断になったとか。

 

最近になって澁澤榮一さんの遺品の中に、徳川慶喜公にあてた手紙が見つかった。

そこには、慶喜公が幕府軍主力部隊を大阪に残したまま軍艦開陽丸に乗って江戸へ帰還してしまったことに対して非難する内容が書かれてあったとか。

 

ここら辺、まだ100年かそこら前の話なので、資料も沢山あるし、

また何か面白そうな話があったら、メモしておきたいと思います。

大塚 鳴龍

腰痛の治療で通う大塚駅に、美味しい担々麺を食べさせる店があるという話は前から知っていました。

その混みようも尋常じゃないとのことも。。。

どうしようかと思っていたけれど、やはり一度行ってみることにしました。

 

ランチ終了30分前。

まだ店先には10人程並んでいて、、、通りのこちら側に10人ほどの行列。

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並び方も決まっているようです。

新参者は、先に並んでいる常連さんに教えてもらって並びます。

後ろのおにいちゃんは、マニアなのでしょう。

この位の並びなら何分とか、わかるみたいです。

「このあいだ、マツコの知らない世界に出ちゃったでしょう?

 僕らの仲間内ではもう大変ですよ、しばらくは入れないねって」

そんな話を、後ろにいる初めてらしい女性に話しています。

『僕らの仲間内』か、同好会みたいなのがあるんですね(笑)

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おにいさんのお陰で、予測した時間にピタリで入店出来ました。

お店は、コの字型のカウンターで、シックな造りです。

行列のできるラーメン屋さん、さぞかしワサワサしているかと思いきや、静かで落ち着いています。

お店も、並んでもらい方や注文の仕方といったシステムがキチンと出来上がっているからか、スムーズにお客をこなせるみたいです。

 

さて、待つこと5分、もかからず配膳されました。

麻辣担々麺

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普通の担々麺の上に、麻辣がトッピングされています。

美味しい

やはり行列が出来るのは納得。

担々麺って辛ければよいというものでもなし、

辛くてもしびれるのはいいけれど、苦みが出てしまったりするのもあります。

こちらは、適度に辛く、しびれ加減も丁度良く、ナッツも入っていて味に深みがある。

 

毎回並ぶのは、どうもだけれど、一度くらい並んででも食べてみたい、

そんな期待にちゃんと応えてくださってる味でした。

 

MOURI は仕事先の人と、何回か来たことがあるんだそうです。

ここは担々麺専門店ではなく、普通の醤油ラーメンも美味しいのだそうで、

今では担々麺食べたいお客さんで一杯で、なかなか入れないのだそうです。

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創作麺工房 鳴龍

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とても素敵なお店でした。

皆さまも一度、いらしてみてはどうでしょう。

3~40分並ぶだけの価値は十分にあると思います。

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創作麺工房 鳴龍
〒:豊島区南大塚2-34-4 SKY南大塚1F
TEL:03-6304-1811
定休日:月曜日(夜の部のみ)、火曜日
営業時間:昼の部11:30~15:00(月曜日は昼の部のみ営業)
     夜の部18:00~21:00

御穏殿坂について

先日、日暮里から根津に向かうのに偶然通った「御穏殿坂」を再来。

前回はBIKAの営業時間に間に合うようにと、急ぎ通り過ぎた場所でした。

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「坂」というほどの傾斜ではないと思っていたのですが、

なるほど、左の方はなだらかな坂道だ。

 

左 ) 御穏殿坂    右 )  根岸に渡る跨線橋

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突当りは昔、踏み切りがあったらしいです。

 

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写真の男性は見知らぬ御仁です。

跨線橋の西詰から見た先、あのオレンジのマンションの方角に「御穏殿」というのがあったようです。

 

iPhoneアプリ-東京地層地図を見てみると、、、

関東地震直前 ( 大正5~10年 ) の地図には、「御穏殿坂」が明記されています。

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ふふふ、このアプリ面白い。

現在の場所を表示して6つの年代 ( バブル期、高度成長前夜、昭和戦前期、関東地震直前、明治の終わり、文明開化期 ) の古地図に切り替えられるようになっています。

ちょっと調べるのに、いやずっと眺めているのにも飽きません。

 

例えば、同じ場所の文明開花期 ( 明治9~19年 ) はどんな感じかというと、、、

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あはは。子供のお絵かきみたいだ。

 

じゃ、明治の終わり ( 明治39~42年 ) は、、、

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これが御穏殿の敷地らしいのが一番わかるかも知れません。

 

昭和戦前期 ( 昭和3~11年 ) には、

御穏殿があった場所に京成本線が出来て、御穏殿はあとかたもない。

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でもこの地図には跨線橋と、その左に踏切を渡る道の2本がありますね。

 

高度成長前夜 ( 昭和30~35年 ) の地図では、踏切の道はなくなっています。

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これが現在の航空写真。

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ところで、御穏殿って何でしょうか。

標札によると、

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御穏殿は「東叡山 寛永寺住職の輪王寺宮法親王の別邸」と書いてあります。

 

んじゃ、輪王寺宮てだれなんじゃ?

寛永寺から別邸に行く道が作られ、名前までついているのだから、すごく偉い人なんじゃないかしら。

 

こちらのサイトに、詳しく書いてありました。

台東区文化ガイドブック「文化探訪」

 輪王寺宮一品法親王は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山官領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承されてきた。

 当地は、この輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所である。 御隠殿の創建年代は明らかでないが、幕府編纂の絵図『御符内沿革図書』には、宝暦三年(一七五三)七月に「百姓地四反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたようである。

 敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。

 

 輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用した。

 また、谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。

 慶応四年(一八六八)五月、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。

 

なるほど。

「第三世から第十五世まで、親王あるいは天皇の猶子」とは、やはりやんごとなき方々だった。

具体的には、こんな方々。

代数 (一段目)、僧侶名 (二段目)、  降誕年~薨去年(三段目)、 実父 養父 (四段目)
東叡山寛永寺開山
 慈眼大師天海大僧正
  天文5(1536)年~寛永20(1646)年
   不明

東叡山寛永寺2世
 久遠寿院准三宮公海大僧正
  慶長12(1607)年~元禄8(1695)年
   花山院忠長

東叡山寛永寺3世、輪王寺宮御門跡第世 ( 承応3・1654~、天台座主第179世
 本照院前天台座主一品守澄法親王(尊敬法親王)
  寛永11(1634)年~延宝8(1680)年
   後水尾天皇

東叡山寛永寺4世、輪王寺宮御門跡第世 ( 明暦元年・1655~?
 解脱院一品天真法親王
  寛文4(1664)年~元禄3(1690)年
   後西天皇

東叡山寛永寺5世、輪王寺宮御門跡第世 ( 元禄3・1690~?、天台座主第188世、同190世
 大明院前天台座主准三宮一品公弁(こうべん)法親王
  寛文9(1669)年~正徳6(1716)年
   後西天皇

東叡山寛永寺6世、輪王寺宮御門跡第世 ( 享保元年・1716~、天台座主第196世、同199世
 崇保院前天台座主准三宮一品公寛(こうかん)法親王
  元禄10(1697)年~元文3(1738)年
   東山天皇

東叡山寛永寺7世、輪王寺宮御門跡第世 ( 元文3・1737~、天台座主第203世
 随宜楽院前天台座主准三宮一品公遵(こうじゅん)法親王
  享保7(1722)年~天明8(1788)年
   中御門天皇

東叡山寛永寺8世、輪王寺宮御門跡第世 ( 宝暦2・1752~?、天台座主第208世
 最上乗院前天台座主一品公啓(こうけい)法親王
  享保18(1733)年~明和9(1772)年
   閑院宮直仁親王、中御門天皇

東叡山寛永寺法嗣、輪王寺宮御門跡法嗣
 清浄信院贈一品公顕法親王、(公啓法親王法嗣・公遵法親王嫡嗣)
  宝暦10(1760)年~安永5(1776)年
   慶光天皇、(閑院宮典仁親王)、中御門天皇

東叡山寛永寺9世、輪王寺宮御門跡第世 ( 明和9・1772~、天台座主206世
 随宜楽院前天台座主准三宮一品公遵(こうじゅん)法親王  (第5世と重任)
  享保7(1722)年~天明8(1788)年
   中御門天皇

東叡山寛永寺10世、輪王寺宮御門跡第世 ( 安政9・1780~?、天台座主213世
 安楽心院前天台座主一品公延(こうえん)法親王
  宝暦12(1762)年~享和3(1803)年
   慶光天皇、(閑院宮典仁親王)、中御門天皇

東叡山寛永寺11世、輪王寺宮御門跡第世 ( 寛政3・1791~、天台座主216世
 歓喜心院前天台座主一品公澄(こうちょう)法親王
  安永5(1776)年~文政11(1828)年
   伏見宮邦頼親王、桃園天皇

東叡山寛永寺12世、輪王寺宮御門跡第10世 ( 文政11・1828?~、天台座主219世同221世同226世
 自在心院前天台座主准三宮一品舜仁(しゅんにん)入道親王 (公猷入道親王)
  寛政元(1789)年~天保14(1843)年
   有栖川宮織仁親王、光格天皇

東叡山寛永寺13世、輪王寺宮御門跡第11世 ( 天保14・1843~
 普賢行院一品公紹(こうしょう)入道親王
  文化12(1815)年~弘化3(1846)年
   有栖川宮韶仁親王、光格天皇

東叡山寛永寺14世、輪王寺宮御門跡第12世 ( 弘化3・1846~
 大楽王院一品慈性(じしょう)法親王
  文化10(1813)年~慶応3(1867)年
   有栖川宮韶仁親王、光格天皇

東叡山寛永寺15世、輪王寺宮御門跡第13世 ( 慶応3・1867~
 鎮護王院一品公現入道親王==北白川宮能久 ( よしひさ) 親王
  弘化4(1847)年~明治28(1895)年
   伏見宮邦家親王、仁孝天皇

歴代の輪王寺宮の内、「御穏殿坂を通って御穏殿にお渡りになられた方」は、第6世の公啓法親王より後の13人の親王だったと思われます。御穏殿が作られたのが宝暦3年 (1753)で、慶応4年(1868)5月に彰義隊の戦いによって焼失したからです。

 

御穏殿、どんなお屋敷だったんでしょうね。

明治時代、雑誌『風俗画集』の増刊として刊行された『新撰東京名所図会』の御穏殿跡の項に、こんな記述があります。

「造営成りて壮観を極め。常に宮家の遊園なりき。

 五本松の下に茅門ありて、宮は裏傳ひに入らせたりとぞ。

 殿内の絵は狩野洞春美信 ( かのうとうしゅんよしのぶ ) にて。

 泉水島朱欄の橋などあり。

 池内には金邊連 ( ハスの一種 ) を植。月夜などには舟を浮べられ。

 音楽などをさせ給ひし由なり。徳斎の記にこの地の四時の景を叙して。月は御穏殿まへ台の下松原邊。

 尤もよし況 (いわん) や管弦の音山岳にひびく夜はまた仙界の趣あり」

 

写真なんてまだない頃、資料としてはこういったもの。

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薬師寺 (台東区根岸2-19-10) にある案内板

もうひとつ。

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http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1286677&contentNo=1&outputScale=4

国立国会図書館デジタルコレクションから「江戸切絵図、根岸谷中辺絵図」尾張屋版

 

  

前回は気がつきませんでしたが、御穏殿坂の道端に美しい花が咲いていました。

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親王もこんなお花をめでられたのかしら。

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【参考資料】 

松平壱岐守(久松家)研究サイト「伊予の葵」~輪王寺宮 歴代御門跡~より

http://www16.plala.or.jp/iyo13/index.rinnoujinomiya-gomonzeki.html

谷中・桜木・上野公園「路地裏徹底ツァー」~輪王寺宮~

http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/rinnoujiNomiya.htm

「山手線が渡る橋・くぐる橋」~御穏殿坂橋~

http://www.geocities.jp/yamanote_bridge/19nippori/4goinden/goinden-brg.htm

 

 

以下は、今読んでいる「坂の町 江戸東京を歩く」から「御穏殿」の部分を書きだしたものです。

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