森鴎外著『堺事件』を読了。
トップクラスの作家の手にかかると、歴史小説も凄みが出ます。
冷静に淡々と描けば描くほど、真に迫るものがありました。
この作品は実際に起こった事件を、詳細に作品化した歴史短篇小説です。
堺事件は、 1868年 ( 慶應4年 ) 3月8日に和泉国堺の堺港で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷事件と、その事後処理に関する話です。
事件の概要
攘夷論のいまだおさまらぬ慶應4年、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事と臨時支那日本艦隊司令官を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。
この間、士官以下数十名のフランス水兵が無断で上陸し、市内を遊びまわる。
夕刻、近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長箕浦元章、八番隊警備隊長西村氏同らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとした。
仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪った挙句、逃亡しようとしたため、土佐藩兵側は咄嗟に発砲。
和泉国堺一帯で銃撃戦となり、土佐藩兵側が仏水兵を射殺または、海に落として溺死させ、あるいは傷を負わせた。
遺体は16日に引き渡しを終えた。
詳細な原因は話者ごとに食い違っており、フランス側は何もせぬのに突如銃撃を受けたと主張している。
死亡した仏水兵は11名。いずれも20代の若者であった。
事件は国際問題に発展し、フランス公使レオン・ロッシュは以下のような抗議文を日本に提示した。
- 下手人たる土佐藩隊長以下隊員を、暴行の場所に於て、日仏両国の検使立会の上、斬刑に処すること。
- 賠償として、土佐藩主 ( 山内豊範 ) は15万ドルを支払うこと。
- 外国事務に対応可能な親王がフランス軍監に出向いて、謝罪の意思を表すこと。
- 土佐藩主も自らフランス側に出向いて謝罪すること。
- 土佐藩主が兵器を携えて開港場に出入りすることを厳禁すること
一方的ともいえる5箇条に対して、日本は英国使パークスに調停をもとめたが失敗。
結局はフランス側の要求をほぼ飲む形で、土佐藩士は処罰されることになった。
フランス側の要求は隊員全員の処罰であったが、日本側の代表 (外国事務局輔東久世通禧、外国事務局掛小松帯刀、外国事務局判事五代友厚ら ) の交渉の結果、隊長以下二十人を処罰することとなった。
まず、隊長の箕浦、西村ら4名の指揮官は責任を取って死刑が決定。
残る隊士16名を事件に関わった者として選ぶこととなり、土佐稲荷神社で籤を引いて決めた。
※ 藩士25人の内、9名はくじ引きによって刑から除外となった。
死刑執行
3月16日、摂津国堺材木寺町の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。
切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵を大喝した。
その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、
11人が切腹したところで五代才助に中止を要請し、結果として9人が助命された。
事件を経て
宝珠院に置かれた11人の墓標には多くの市民が詰めかけ「ご残念様」と参詣し、生き残った9人には「ご命運様」として死体を入れるはずであった大甕に入って幸運にあやかる者が絶えなかった。
森鴎外は、事件を淡々としたタッチで作品化。
鴎外の短編に対して、栗坪良樹さんは「日本の短篇」にこのような解題を書かれています。
鴎外の筆は、切腹の実際を
これまでか といったリアリズムで活写する。恐らく、大正初期の日本は、世界に冠たる日本人の勇敢さを要求していたのであろう。
鴎外は暗に国威発揚に答えたのであろうか。
日本人はこの事件により、武士の勇敢さを称えました。
当時こんな流行歌もあったようです →「唐人見物、ビックリシャックリ」
事件の記事をネットで検索すると、現代の人も
「トゥアール艦長もさすがにショックが大きかったようで」とか
「間近で見ていたフランス政府、軍の関係者の顔は一様に青ざめ」とか、
「切腹があまりにも凄惨でフランス人で気分が 悪くなるもの多数」
といった表現を加えられている方が目立ちます。
でも私は、ちょっと抵抗を感じます。
当時の、市井の人々がそう思いたい気持ちはわかる。
しかし死刑を中止した理由を《フランス人が怖れをなしたから》と片付けるのは安易なように思います。
大佛次郎さんは自著『天皇の世紀』の中で、30頁にわたり事件を扱っています。
森鴎外「堺事件」も引用しながら、更に多くの資料を引用しまとめあげているんですが、
それによるとやはり《フランス人が怖れをなしたから》とはちょっと違うようです。
朝日新聞社刊 文庫版「天皇の世紀」14 江戸攻め
以下は、ちょっと長いですが要約すると、こんな感じです。
ロッシュ公使も前任地でアラビア人の殺伐な習俗を見慣れていた。
フランス艦隊隊長も軍人だから切腹の凄まじさを怖れたのではなく、夜になったので兵員の帰還を案じたからと言っている。
第十一人目の切腹で中止したことも、冷静にそのタイミングを見極めた結果であると思われ、残りの九名を助命 ( 恩赦 ) とすることにより、政治的に有利な転換を図ったのだろう。と。⤵ 以下原文は、p.45
立て続けに血まみれになって行われた切腹がフランス人の見るのに堪えぬものだったのは疑いのない事実であろう。しかし、ロッシュ公使も前任地が未開のチュニスで、アラビア人の殺伐な習俗を見慣れていたろうし、同国人十一名の死に対し、二十名の処刑を自分から要求して出たものであった。
執行の中止が、見るに忍びざるものとして言い出された、としたのは日本人側の解釈で、デュプレクス号の艦長デュ・トゥワール大佐は現場で手をあげて執行の中止を求めた人物だが、時間が遅れて都合悪かったせいだと説明している。
「処刑は始り、おのおのの受刑者は、われわれの正面の地上で処刑された。
最初の二人の隊長の処刑の間は非常に騒々しかったが、それも次第に静まり、
ついにすべてがまったく沈黙するようになった。
日本政府がその約束を遂行しようと決していることは、やがて私には明らかになった。
この状態にあって、時は進み、明らかに具合の悪い時間となった。
私は夜前に兵員の帰還を確保するため、ボートに帰るのが大切であると判断した。
処刑の完了を明日まで伸ばすのを求めることは、私にはとてもできそうもないので、
第十一番目の首が落ちたとき、私は五代氏につぎのようにいうことを決心した。
約束を遂行する様子をみて、フランス公使の指示を得んがため、処刑中止をお願いする、公使は、
残りの受刑者を減刑に浴させるため、日本政府の意向に任せることに喜んで同意するであろう
という希望を私はもっていると。」
( 石井孝「増訂明治維新の国際的環境」所収 )
日本側の記載と違って、当日、ロッシュがその場に来て居なかったとも解せられるような文章である。デュ・プティ・トゥワールは自分の責任で、処刑を中止させるよう五代才助に話して「五代やすべての補助者、そしてとくにこの悲しい儀式を主宰した日本の役人は、それにいたく感動したようであった」としている。
日本人がひとしく考えたように、切腹の凄まじさに、フランス人が、人並みの生理的嫌悪を感じて怖れたのではなく、際限ないようにそれが続き、遂に夜ともなったので、中止を考えたものとも言い得る。五代がデュ・プティ・トゥワールにその話を聞いたのは不意に退出した彼らを幕の外に追って行ってからであろう。
彼等は軍人だし、血を怖れては居なかった。
ただ残酷な性質の切腹が順を追って長時間にわたって行われ、血を流して終わるところがないのに倦厭たるものがあったろう。艦長の申し出を、ロッシュも直ちに承認し、処刑中止を伊達宗城に申し入れ、次いで直接天皇に書簡を送って、九人の助命を請願した。
これは外交的なゼスチャーで、政治的に有利な転換を、この不利な事件の後に求めたものと知れる。
やはり事件の背景には、政治的かけひきが沢山あったのです。
「天皇の世紀」を読むと、歴史はひとつの歯車だけで動いたワケでないことがよくわかります。
歴史に《もし》は禁物ですが、堺事件もその前に起こった神戸事件も、
色々な要因が重なったことにより起きてしまった不幸な事件です。
《もしも》はダメといいながら言ってしまえば、
徳川慶喜が江戸に逃げ帰ってなければ、神戸も堺も備前・土佐藩が警備しなくて済んだでしょうし。→備前・土佐とフランス水兵のもめ事もなかったか。
日本国内のゴタゴタがおさまってたら、外国のいいなりにならず突っ張ることも出来たでしょうし。→ 滝善三郎も11人の土佐藩士も極刑もなかったか。
神戸事件で、フランス公使ロッシュの主張が通ってたら、堺事件であそこまで強引にならずに済んだかも知れないし。→ロッシュ、振り上げた拳のおろしようがなくなったか。
そんなこんなが重なっていることが、「天皇の世紀」でわかりました。
明治維新あたりの話にもし、興味がわきましたら、「天皇の世紀」 おススメです。
長いので、第13巻終わりから第14巻はじめだけ読めば、この事件の事情はつかめます。
私もそんな感じで「天皇の世紀」拾い読みしておりますの、ほほ。
本日の朝ごはん
釜玉うどんにトッピングしたのは、昨夜のひじきとアボカドとささみ和え。
納豆も足しました。
日々、どんどんトッピングが増えるのも恐ろしいことでございます。
本日の夜ごはん
少しずつ残ったものをかたづけようと思ったらこんなことになりました。(;^_^A
〆は、焼きそば
にんにくをつぶしてから切ったことと、
もやしのヒゲを丁寧に取ったことが、正解だったかな。
ひと手間違うと、風味も違うのが面白い。