『ひょっとこ』は、大川端を舞台にした小説として『大川の水』『老年』に次ぐ三作目になります。この3つは《大川端3部作》と呼ばれているそうで、なるほどテイストは同じかも知れません。
【物語の序盤】
流石、生まれ育った土地を舞台にしているだけあって、ディテールの行き届いた描写が光ります。
物語は、吾妻橋の欄干に人垣が出来ていて、橋の下を通る花見の船を見物しているところから始まります。
このシチュエーション、よく考えたら面白い。
橋の上の人たち、桜の花の見物客かと思いきや、桜の花を見物している船の上の人を見物しているのですから。兎に角、その臨場感には驚きです。
ひょっとこの面を被った男が、船の上で亡くなる場面まで、一気に読ませます。
どこにも淀みがありません。
もしかしたら芥川さんは、頭の中に既にこの情景が出来上がっていて、目をつぶると音が聞こえ、風景が現れ、ただそれをどんどん原稿用紙に落としていくような作業だったのではないかと想像してしまいました。
モーツァルトが、頭の中に完成しているメロディーを譜面に起こすのに、ペンが追い付かなくてもどかしさを感じた、というのと芥川さんも同じだったのではないかと。
今回この短編を読んで、私は大好きな里見弴の『俄あれ』を読んだ時と同じ感動を覚えました。
芥川さんは、里見さんの描写力に加えて《江戸文化を満遍なく盛り込める引き出し持った作家》だと思いました。
恥ずかしいほど月並みな言い方ですが、やはり天才です。
序盤には、意外な表現が散りばめられていました。
例えば、船上の音曲を表わすのに…
音曲が軽妙に変わる様を…
チャンカ、チャンカ、チンチンという、ちゃんぎりの音が本当に聞こえてきそうです。
酔が回ってきた男の様子を…
メトロノームとは、いいえて妙!
【物語の中盤】
船の上で亡くなった男のことが語られていきます。
男は山村平吉。彼がどのような酒飲みか、しらふの彼はどんな人物かが紐解かれていきます。
ここで殆ど脱線に近い話になりますが、ある言葉に個人的に大ウケをしてしまいました。 平吉がひょっとこ踊りをするようになった経緯が描かれている部分に、次のような文章がありました。
この『喜撰』という言葉で、若かりし頃のエピソードが思い出したのです。
【喜撰でも踊られるより…】
子供の頃、日本舞踊を習っていたのですが、3人目のお師匠さんは、それは上品な踊りを舞う人でした。
ある年の発表会で、その師匠が『喜撰』を踊りました。
それを見に来た、我が家の遠縁のババアが、観客席でいきなり呟いたのです。
「気取った踊りをする師匠だね。あたしゃ嫌いだね。」
母はババアを招待したことを深く後悔したといいます。
愛すべき かのババアは、かつては向島、その時分は伊東で芸者をしていた人でした。
年は50もとうに過ぎた大年増。歯に絹きせずに物を言う人でした。
ババアには私も相当しごかれました。ババアにおそわったお茶の煎れ方、銭湯の入り方、洗髪の仕方などなどは、今でも沁みついています。
さて。
ババアが「好かん」と言った『喜撰』には「踊り手によっては、嫌味なほど、きざになりかねない難しい演目なのだ」と、のちに母から聞かされました。
踊りの善し悪しではなく、芸者好みではないということもあったらしい。
そんな強烈な思い出のある『喜撰』という演目が、思いがけず作品に出てきたのでウケてしまったのです。
今回は、まとまりもなく、個人的な話になりましたが、
この作品には、私など到底わからない粋な風習やエピソードが、沢山散りばめられているのだと思います。それを20代の青年が書いたわけですから、重ねて言いますが、芥川という人は、本当に驚くべき作家です。