garadanikki

日々のことつれづれ 駄目駄目さんのガラクタ日記

志賀直哉 『雨蛙』

 

f:id:garadanikki:20150811100906j:plain『雨蛙』は、大正13年1月、志賀直哉が41歳の時に書いたもので、翌年4月改造社より短編集『雨蛙』として出版されました。

 

 この12年後やっと『暗夜行路』が完結したんですが、『創作余談』によれば、当初この作品は『暗夜行路』を書きあげたら書こうと思っていたものらしい。

 

「ところが『暗夜行路』が、いつまでも埒があかないので、(先に)これを書いてしまった」との由。
直哉さんは、『暗夜行路』の対比として、不貞のあった妻をいくつしむ男を書きたかったのかも知れません。

作品の意図は分かったけれど、作品としては「ううん~なんだろう」という感想です。


『雨蛙』の妻は大人しい性格で、嫁いだ先の大舅 (祖母) に、なかなか子供が出来ないことを責められても気にしない人でした。不義事件に巻き込まれるキッカケも「泊っていきますか?」という誘いを拒めず、「へい」「どちらでも」と煮え切らない態度から起きる。素直にも程があるというか、目端が利かないというか、大人し過ぎる性質でした。

 

でも、夫にはそれが丁度良かったのかも知れません。

夫の方も稼業を継がなくちゃいけなくなると、すんなり大学進学をあきらめて、人生に抗うことなく生きてきた人だからです。大人しい夫婦に不可抗力に近い形で、妻の不貞事件が起っても修羅場になるわけはない。

それは、こんなシーンからでもわかります。夫が友人から、その不倫の事実を知らされた場面です。

賛次郎には話の重さが分からなかった。何でもない事のやうでもあり、何かしら非常に困った出来事のやうでもあり、見当がつかなかった。

気づかなかったのではありません。

気づいているのに《黙する》ことで、災難が頭の上を通り越していくのではないかという思考です。

だから、決着の付け方もこんなでした。

その夕べ、賛二郎は四五冊の小説集と二冊の戯曲とを本箱から抜き取ると、人知れず裏山の窪地へ持ち出し、何か悪事をする者のやうな臆病さで焼捨て、(ようや)くほっとした。

タイトルにある《雨蛙》は、夫が持つ夫婦のイメージなのでしょう。

妻を連れて帰る道すがら、ふと見つけた二匹の雨蛙が、電柱のくぼみで、寄り添うようにしている様子が、夫にとっては大変感慨深く映ったみたいです。

残念ながら、妻は、何の興味も示さないんですけれど。

 

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【あらすじ】

Hという小さな町の美濃屋という造り酒屋の一人息子、賛次郎と妻せきの話。

賛次郎は父の意向で農科大学を卒業するも、予定より早くに父が死に急に一家の若い主となるが、店には岡蔵という番頭が居、岡蔵が郷里に帰った後も、気丈者の祖母が家事、商事、総てに采配をふるってくれていた。


賛次郎の親しい友人竹野茂雄は、中学を卒業すると東京の私立大学の文科に入り、詞や歌を作り、青葉(せいよう)という号で、文学雑誌に投稿などしていた。彼は文壇の消息通で、よくそういう話を賛次郎に聴かした。最初の頃は興味もなく、本もあまり読まなかった賛次郎も、生活が幾らか単調に感じ始めると、いつか竹野の影響が現れ出した。

 

やがて竹野も賛次郎も結婚をする。

竹野の相手は、投書仲間の女で、東京の水菓子屋の娘。ところが文学をやる女という事が長兄の反対に遭い、三男であった竹野は家を飛び出し、A市で所帯を持つことにする。

 

賛次郎の相手は遠縁の農家の娘で前から好意を持っていたこともあり、祖母から言い出された時は、一も二もなく承知したのである。

せきという名のその女は無口で学問のない、然し誠に美しい田舎娘だった。

間もなくせきは妊娠するが流感で流産し、その後もう妊娠はしなかった。

気短かな祖母はよくその事を口にし、賛次郎に苦い顔をさせたが、当のせきは却って気にも留めなかった。


賛次郎の文学趣味は少しずつ高じてきて、彼はせきにもそういう方面の教養を与えたいと思った。

1人では何となく淋しかった。が、せきにはそんな事は無理だった。

 

ある日竹野から、近日、市の公会堂で劇作家のSと小説家のGとが講演をするという知らせがあった。

賛次郎はせきも連れて行きたかった。

彼は返事にそのことを書き、女連れ故一泊させて貰うかも知れぬと書いた。

だが当日になると祖母の具合が悪くなり、賛次郎は看病に残り、せき1人だけ行かすことになった。

 

「竹野君が待って居ると思うが、お前一人だけでも行く方がよくはないか。
 お前が行けば私も会の模様を聴く事が出来るし。さうしないか」
「へい」
「病人は私が居れば心配ない。案じず、ゆっくりして来なさい」
「へい」
筑摩文学大系 志賀直哉『雨蛙』p.383

 

 

翌日、祖母の具合も良くなったので賛次郎は、買い物がてらせきを迎えに行くことにした。

竹野が営む水菓子屋に行くと、竹野の細君が当惑顔で、前夜せきは迎雲館に泊ったことを告げられた。

竹野の話によると、講演会が終わり男連は市主催の歓迎会に行き、女連は講演会場の楽屋で山崎芳江という土地の女子師範の音楽教師から後援者たちに紹介され、その時の約束で、芳江の宿の迎雲館でSやGの帰りを待つことになった。

芳江は男との関係ではよく噂に上り、Sとの関係も公然の秘密で、市での評判はよくなかった。

SとGの話は、講演の時より面白かった。せきは吞まれ切っており、竹野の細君はさういふせきが気の毒でもあり、帰り支度にかかった。しかし幾らか酔ってゐた芳江が仕切りにに止めた。押し問答の末、せきだけは泊ることになった。

「お泊りになりますか?」という誘いに、せきは「どちらでも」と答えたからだった。

竹野の細君は驚愕しながらも、せきを置いて帰るしかなかった。

 

賛次郎には話の重さが分からなかった。

何でもない事のやうでもあり、何かしら非常に困った出来事のやうでもあり、見当がつかなかった。

竹野のところに戻ってきたせきは、当世風の耳隠しという髪型に結い上げられていた。

頬に紅などをさした当世風が思いがけなくせきにはひどく似合っていた。

しかしせきは浮かない様子で、会のことを聞いても横を向いたまま、意味の解らぬ微笑みを浮かべた。

 

賛次郎はどきりとした。そした思わずせきの顔を見凝めた。が、せきは二タ側になった力のない眼差しでぼんやり遠く往来の方を見てゐた。賛次郎はそれ以上訊く気がしなかつた。それは許されてない事のやうでもあり、自分としても訊くのが恐ろしかつた。訊けば直ぐ正直に答えるせきだけに恐ろしかつた。
筑摩文学大系 志賀直哉『雨蛙』p.386

 


車中でも、せきは黙っていた。

話かけても肩掛けに頬を埋めたまま返事もしない。

耳隠し、頬紅などの当世風が先刻はよく思ったが、陽なたの田舎道では醜く見えた。

 

剣道から町へ分かれる所に大きな榎がある。二人はそこで車を降り歩き出した。

「あのね」彼は息をはずませんがら、優しい声で云ひ出した。
「昨夜は一人でなく、誰か側に寝たか?」
「初めは芳江さんが寝てゐました」
「それから?」
「何時の間にか芳江さんが居なくなつてGさんが入って来ました」
「それで?」
「GさんはSさんと芳江さんに追ひ出されて来たのだといひました」
「それで?」
「……」せきは急に下を向いた。
彼は不意に其場でせきを抱きすくめたいやうな気持ちになつた。
せきが堪らなく可愛い。
そした彼は危うくその発作的な気持ちに惹き込まれかけたが、ガタンと音のするやうな感じで我に還ると、驚いて其不思議な気持から飛び退いた。そして自分の気の静まるのを待った。然し彼の胸は淡いなりにせきをいとほしむ心で一杯だった。
筑摩文学大系 志賀直哉『雨蛙』p.388