歌川国芳の、例のスカルの浮世絵について、
斉魚 ( えつ ) 姉さんと「正札附現金男って何よ」っていう話になりまして。。。
調べてみました。
まずこの「国芳もよう正札附現金男」というのは、
1854年頃発行された10人の任侠(にんきょう)を描くシリーズで、野晒はその中の1枚らしい。
10人の浮世絵は下記の通り。
※ ただしNo.7の寺西関心の浮世絵がどうしても見つからず、国芳が描いた別の寺西関心の絵です。
No.1 幡随長兵衛
[狂歌] 春の屋香一
|
No.2 團七九郎兵衛
[狂歌] 宝市亭
|
No.3 五尺染五郎
[狂歌] 梅屋
|
No.4 野晒悟助
[狂歌] 柳下亭種員
|
No.5 濡髪蝶五郎
[狂歌] 老松
|
No.6 白井権八
[狂歌] 柳下亭種員
|
No.7 寺西関心
[狂歌] 五瀬乃屋
|
No.8 唐犬権兵衛
[狂歌] 宝屋升雄
|
No.9 腕喜三郎
[狂歌] 久廼屋梅喜
|
No.10 梅の由兵衛
[狂歌] 梅屋
|
「正札附現金男」について面白いお話がありました。
「かかしさんの窓」というBlogに紹介されていたんですが、
「正札附」というのは「掛け値なし」という意味合いの言葉遊びではないかとおっしゃるのです。
つまり「正札附現金男」は「掛け値なしの任侠(おとこ)」みたいな意味ではないかと。。。
以下の2件は、かかしさんが調べられた資料です。
【新商法で発展した「越後屋」】
伊勢松坂(現在の三重県松阪市)に生まれた三井家の家祖・三井高利が、延宝元年(1673)、52歳の時に江戸本町一丁目(現在の日本銀行新館辺り)に開店した呉服店「越後屋」は、現在の百貨店「三越」の始まりであり、三井の事業の礎でもある。
当初、間口9尺だった店は、新商法により発展し、天和3年(1683)に駿河町(現在の三越本店の一角)に移転の後、本店と支店からなる江戸を代表する大店に成長した
その新商法が「店前現銀(金)掛け値なし」である。
当時の呉服商は、見本を持ち得意先を訪ねて注文を取る「見世物商い」か、品物を得意先で直接売る「屋敷売り」が普通で、支払いは盆と暮れの年2回であった。
高利の発案により越後屋は店で品物を現金で売り、掛け値なしという正札販売を実施した。
また、当時反物で販売していた呉服を、切り売りして庶民に喜ばれた。
【正札附】世界大百科事典より~
・・・越後屋では商品に符丁を記した紙片を付していたが、正札によるものかどうかは定かではない。この言葉は明和(1764‐72)ごろから見られるが,やがて〈正札附〉という言葉が流行したらしく,唐来参和(とうらいさんな)作の黄表紙《正札附息質(むすこかたぎ)》(1787)や,歌舞伎舞踊の《正札附根元草摺引(こんげんくさずりびき)》(1814初演)が書かれ,後者は《正札附》と通称されて人気を集めた。
また、野晒に書かれている狂歌は、柳下亭種員という人の作で、
「仇しのの 染色めたつ 伊達ゆかた
つまくる 数珠や 露の しら玉」と書かれているようです。
【柳下亭種員】りゅうかてい たねかず
戯作者で初代柳亭種彦の門人。「白縫譚」「児雷也豪傑譚」などの合巻作者として知られ、本姓は坂倉、通称を坂本屋新七、別号を麓園といった。酒屋、小物屋、本屋などを業とし、講談師にもなっている。文化四年生まれ、安政五年八月五十二歳で没した。
国芳は向島に40歳の頃住んでいたんですってね。
先日、三囲神社で、国芳の十三回忌に弟子たちが建てたという石碑を見てきましたが、
三囲神社といえば、三井家と縁のある神社。
すごくすごーくこじつけですが、国芳と「正札附の三越」と三囲神社、、、因縁を感じたりして。
三囲神社の少し先に「すみだ郷土文化資料館」というのがありますし、
両国にある「江戸東京博物館」というのも浮世絵関係の資料があるらしい。
近々、行ってみたいと思っています。