大好きなブログお友達、けだまとりこさんが、お声をかけてくれました。
とりこさん、今度は「御茶ノ水、穂高」に出没されたらしい。
なんなんだろう。不思議でならぬ。
とりこさんがいいなぁと思い、紹介される場所は、私も大好きな場所で、
とりこさんが紹介されていたお店の隣を、私が書いていたり、
「すれ違っていたのでは」と思うことが多いのです。
なのでね「けだまとりこの備忘録」は見逃せない。
そんなとりこさんが今回行かれたのが、御茶ノ水の喫茶店、穂高だったんです。
御茶ノ水 穂高ですか。
なつかしいなぁ。ここでしょう? ⤵
おじさまたちのオアシス。
緑のビロードの椅子と、新聞を読むおじさまがとても似合う店。
私が穂高に通っていたのは、2014年5月。今から3年前です。
めまいで病院通いをしていたその帰り、フラフラしながら杖をつき、あのあたりを徘徊してました。
穂高は、つきあたりの窓席から見る景色が好きでした。そうです特等席なのです。
この席からは、フェンスごしにお堀と中央線が見えたり見えなかったり、、、(笑)
フェンスにからまっている草の加減、そうなの季節によって風景が変わるんです。
病院を終えて、穂高やあのあたりの担々麺のお店を開拓して、
ニコライ堂、山の上ホテル、神田明神、湯島聖堂も訪ねてブログに書きました。
で。
とりこさんが、穂高の喫茶店の外の壁に貼ってある古地図のことでお声をかけていただいたんで、
あのあたりの古地図に関しての記事を思い出しました。
確か、書いたはずなんだがなぁ。。
自身のブログ内を、ニコライ堂、山の上ホテル、御茶ノ水で検索しても出てこない。
古いJUGEMの方に残してきたままだとわかりました。
近々、ちゃんとアップしたいです。
「ちゃんと」ってのは、はてなの仕様にしないと、画像をクリックしても拡大にならなかったり、
レイアウトがちぐはぐだったりしちゃうから。
あの、こう見えて、A型の几帳面な性格も持ち合わせているもので。。。
見えないって、そうよね、雑と繊細が混在しているのはふたご座だからかな www
まるこの性格はどうでもよろしかった
とりあえず。下記はJUGEMからコピペしただけの内容ですが、
御茶ノ水の駅の周りに興味を持ち、でっかい写真集を借りてきたり、
古地図を見つけてきたりしていました。
あのあたりの歴史って面白いんですよね。
堀にした理由、掘り出した土地で違うところに台地を使ってお侍さんたちの住宅を完備させた話とか、いろいろあったっけ。
これまた、ブラタモリ的な要素満載なんです。
とりあえず、お気に入りの写真をピックアップしました。
とりこさんが御覧になった、穂高の古地図もニコライ堂を中心にした地図だったと思いますが、
下の写真もおそらく同時期のものかと思います。
以下は、2015年5月30日の記事です。
今回は、山の上ホテルの建っている場所についてです。
以前も、ホテルがあった場所の古地図を掲載しましたが、
明治時代にはここは、小松宮邸だったんです。
『市郡變稱東亰全圖』1891年 ( 明治24年 )
小松宮 ( こまつのみや ) は、明治初期に、伏見宮邦家親王の第8王子の彰仁 ( あきひと ) 親王によって創設された宮家。
お父さんの 伏見宮邦家親王 は子だくさんで、皇籍離脱した旧皇族11宮家は全てこの人と血がつながっているらしい。
王子17人、王女15人のお父さんだったんですと。
宮家の継承は複雑で、跡取りがいない宮家を違う宮家の男子が継承したり、
猶子という親子関係を結んだりする。
猶子は養子と違って性が変わらないんですって。
あまりに複雑で、調べている内に誰が誰の子だかわからなくなっちゃうくらいでした。
実はお父さんの小松宮彰仁親王、この人結構 面白くて脱線しそうになってます。
伏見宮邦家親王は、王子だけでも17人いるので、その分エピソードも豊富なんです。
鎌倉のある華頂宮邸も、邦家親王の第14王子-貞愛親王 ( さだなる ) の第1王子-博恭王 ( ひろやす ) の第3王子-華頂博信 ( ひろのぶ ) さんが造らせた洋館だったんですね。
話を小松宮に戻します。
小松宮彰仁 ( あきひと ) 親王 は、弘化3年1月16日(1846年2月11日)に生れ、
明治36年 (1903年)に亡くなっています。
ということは、古地図にある小松宮邸の主はこの方だったんでしょう。
しかし、彰仁親王には子供がなく、
腹違いの弟-東伏見宮依仁親王 ( お父さんの第17王子 ) を養子に迎えるが、彰仁親王とそりが合わなくて。。。
彰仁親王も継承を希望していなかったから、依仁親王は継嗣を止めて東伏見宮を創設することになった。
そして、小松宮は彰仁親王一代で断絶していたけど、彰仁親王のすぐ下の北白川宮能久親王 ( 母親は彰仁親王と同じ ) の第4王子-輝久王(てるひさおう)が明治43年(1910年)7月20日に臣籍降下し、小松輝久侯爵となって小松宮の祭祀を継承したんだそうです。
「古地図見るのは面白いけど、小松宮邸の写真はないかなあ」
ありました。ありました。
図書館で借りて来た大きな本。
『明治・大正・昭和 東京写真大集成』
あんまり重いから目方計ってみた、2.6kg ありました。(笑)
この本の中に、神田駿河台にあるニコライ堂の建設中に撮ったパノラマ写真が載ってました。
13枚ある写真の1枚に小松宮邸が写ってました。
拡大したのがこれ。
凄い洋館だなあ。
小松宮の敷地がいつ人の手 ( 明治大学とか佐藤さんとか ) に渡ったかについては、まだ調べきれませんが、
小松宮は断絶してたワケだし、昭和になって天皇家と秩父・高松・三笠の直宮家を除く傍系11宮家が皇籍を離脱したわけなので、駿河台の広大な敷地は相続されなかったのではないかと思いました。
ところが。。
『山の上ホテルの流儀』 p.121に、こんな記述を発見。
1957年といえば、 小松家の継承者 は、小松輝久 (1888~1970) さんか、その御子息-小松彰久 (1919~1990) さんの時代になっていたでしょうが、本に出て来る“小松さん”とは関係ないのかしらねえ。
ううぅ、まだまだ興味は尽きません。