Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

山の上ホテルがあった場所

 

 

山の上ホテルについて、まだまだ語りたい。

今回はホテルの建っている場所についての話です。


前にも、ホテルがあった場所の古地図を楽しみましたが、明治時代、この場所は小松宮邸でした。

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『市郡變稱東亰全圖』1891年 ( 明治24年 )


小松宮(こまつのみや)は、明治初期に、伏見宮邦家(くにいえ)親王の第8王子の彰仁(あきひと)親王によって創設された宮家です。
お父さんの 伏見宮邦家親王 は子だくさんで、皇籍離脱した旧皇族11宮家は全てこの人と血がつながっています。

王子17人、王女15人のお父さんだったんですって。


宮家の継承は複雑で、跡取りがいない宮家を違う宮家の子が継承したり、

猶子という親子関係を結んだりしました。

猶子は養子と違って性が変わらないので、誰が誰の子だかわからなくなっちゃうくらい混乱します。

でも結構好きなんです、こういう調べごと (^^♪

 


実はお父さんの伏見宮邦家さんが結構面白くて脱線しそうになってます。

王子だけでも17人いるので、その人数分 エピソードも盛りだくさんです。

鎌倉にある華頂宮邸も、邦家親王の第14王子-貞愛(さだなる)親王の第1王子-博恭(ひろやす)王の第3王子-華頂博信(ひろのぶ)さんが建てた洋館でした。⤵

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あー、ダメダメ、今日は小松宮の話でした。

f:id:garadanikki:20200430154355j:plain 小松宮彰仁(あきひと)親王 は、弘化3年1月16日(1846年2月11日)に生れて、明治36年 (1903年)に亡くなっています。

ということは、古地図の小松宮邸の当主はこの方だったと思われます。

彰仁親王には子供が無く、腹違いの弟-依仁(よりひと)親王 ( 父の第17王子 ) を養子に迎えました。

しかし、彰仁親王と依仁親王とは そりが合わず、彰仁親王が継承を希望しなかったので養子縁組は解消。

依仁親王は継嗣をやめて東伏見宮を創設しました。

これにより小松宮は彰仁親王一代で断絶していましたが、彰仁親王のすぐ下の北白川宮能久(よりひさ)親王 ( 母親は彰仁親王と同じ ) の第4王子-輝久(てるひさ)王が明治43年(1910年)7月20日に臣籍降下し、小松輝久侯爵となり、小松宮の祭祀を継承したそうです。

写真出典:wikipedia


「古地図も面白いけれど、小松宮邸の写真はないかなあ」

小松宮邸の写真はないかと探していたら、ありました!

図書館で借りて来た大きな本。

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『明治・大正・昭和 東京写真大集成』

あんまり重いから目方計ってみた、2.6kg ありました(瀑)

 

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この本に、神田駿河台のニコライ堂の建設中に撮ったパノラマ写真が載っていまして、

13枚ある写真の1枚に小松宮邸が写ってました。

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拡大したのがこれ。

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凄い洋館だなあ。

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小松宮の敷地がいつ、人の手に渡ったかについては、調べきれませんでしたが、

小松宮は断絶してましたし、

昭和になって天皇家と秩父・高松・三笠の直宮家を除く傍系11宮家が皇籍を離脱したし、

なので、駿河台の広大な敷地にはお住まいにはなかったかも知れません。

 

一方、『山の上ホテルの流儀』 p.121 に、こんな記述がありました。

昭和三十二年 (1957)、本館の目の前の土地を 小松さんという方から譲り受け、客室がわずか六室、式場、美容院というかたちで「山の上ホテル別館」として営業したのですが、昭和四十五年 (1970) にこの建物を取り壊して客室四十という新館として建設しました。


1957年といえば、 小松家の継承者 は、

小松輝久 (1888~1970) さんか、

その御子息-小松彰久 (1919~1990) さんの時代になっていたでしょうが、

本に出てくる「小松さん」とは関係あるのか、ないのかは特定できずに終わりました。

ううぅ、まだまだ興味は尽きません。

 

 

 

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