「大正・渋谷道玄坂」を読んで、
すっかり藤田佳世さんの世界に魅了されました。
明治45年生れの佳世さんは、渋谷の道玄坂の大和田横丁で
嫁ぎ先は、同じく道玄坂で陶器商を営む藤田家。
商家の娘から女将として、佳世さんは大正・昭和・平成の道玄坂を見てきたことになります。
そんな佳世さんが「大正・渋谷道玄坂」より前に、もう一冊本を出していると知り入手したのがコチラです。
昭和36年9月10日発行というから、
「大正・渋谷道玄坂」よりも17年も前に出版されたことになります。
勿論、古書。
何故かご縁がある中野書店さんから手に入れたのですが、、、
実はこの本、いわくつきでした。
残念ながら、書き込みが多い。
本に赤線を引いたり、書き込みをする人いますが、うーんどうなんだろう。
個人的には本に書き込みをする行為は理解できない。
しかし今回の書き込みはちょっと種類が違う、稀本でした。
後ろの見返しの部分に、新聞の切り抜きがベタベタ貼り付けてある。
藤田さんのことが書かれた記事でした。
もう少し綺麗に貼れんものか・・・・(;'∀')
もう一枚あった。
凄い。
写真付きだ。
佳世さんが手に持っているのは、道玄坂の地図ではないですか。
こんな形で、藤田佳世さんのお顔を知ることになるとは思いませんでした。
更に驚いたことに、
佳世さんからの手紙まで貼ってありました。
どうやら、所有者のY先生と藤田佳世さんは知り合いで、
Y先生から所望され、佳世さんが贈られた本でした。
私信ですから手紙の写真は割愛します。
Y先生、何でも本に書く人だな。
藤田さんから受領した年月日まで書いてある。
ここでちょっと時系列にしてみます。
- 昭和36年 9月10日 弥生書房より「渋谷道玄坂」発行
- 昭和51年 9月 8日 読売新聞 「見事、地図絵巻き 土地っ子おかみの苦新作」の記事
- 昭和51年10月 8日 Y先生、藤田さんから「渋谷道玄坂」受領
- 昭和53年 1月15日 青蛙房より「大正・渋谷道玄坂」発行
- 昭和53年 2月 1日 読売新聞 「お好み焼き屋の藤田さん 大正・渋谷道玄坂」の記事
佳世さんは、49才の時、弥生書房から本を出した。
それから15年後、64才で地図を完成。
さらに2年後、66才で青蛙房から「大正・渋谷道玄坂」を出す。
商家の主婦が、どんなキッカケで本を出版出来たのは、その経緯はわかりませんが、
初めの本「渋谷道玄坂」には、文学評論家の古谷綱武さんが序文を寄せられていて、
そこには「友だち」と書かれています。
山岡昇平さんともお近づきがあったようなので、その辺りから刊行に至ったのかも知れぬ。
⤴ これはまだ憶測にすぎません。
藤田佳世さんの三冊目の本も、興味深いところです。
⤵ 続きを読むには、本に貼ってあった新聞記事などを書き起こして備忘録としてあります。
【藤田佳世さんのプロフィール】
1912年(明治45年)鶴見生まれ。1914年(大正3年)渋谷に越して大和田町で育つ。1934年(昭和9年)道玄坂の藤田陶器店に嫁す。1983年(昭和58年)宇田川町にてお好焼き「こけし」経営。1987年(昭和62年)ビル建設のために閉店。長男が宝石商として開店、それを機に引退。2003年(平成15年)歿(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
『大正・渋谷道玄坂 シリーズ大正っ子』より
藤田さんと山岡昇平さんを結ぶエピソードが書かれていました⤵
http://touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku10.html
【「渋谷区道玄坂」の序として古谷綱武さんが書かれた文章】
序
古谷綱武
「渋谷道玄坂」をよんですると、この第二の都心のはげして移り変りに、思わず魅きこまれていくだけではない。ここには、その移り変りのなかを生きてきた日本の庶民だちの生活の歴史がある。多くの消えていったものがあり、多くの生れてきたものがある。人生流転の姿が、そのままの呼吸で写し出されていて、人の心にしみついてくるものがある。そしてその流転のなかを生きている人たちをみつめているのは、著者のくもりない善意と、かぎりなくあたたかい眼である。
もちろん素人の文章の当然として、その表現にはたどたどしいところも多い。もっと感興にのるのをおさえて書くべきだと思ったところもある。もう一歩掘り下げたつかみかたをしてほしいと思ったところもある。未熟さをまぬがれてはいない。しかしここでは、そのような文学的評価は、第一のことではあるまい。人人が道玄坂に生きたこの記録が貴重なのである
しかも著者藤田佳世さんは、ごく最近までは、店と住いの二軒の家を往復して、家族の多い一家の主婦としての役目も果たしながら、繁昌する商家の店先に、終日立ち働いている人でもある。姑に仕える嫁の身でもあり、夫のためにはよき妻となり、五人の子どものためにはよき母となり、また長男の妻のためにはよき姑となり、その孫のおばあちゃんでもある。そのなかで、店員たちの働きにも心をくばり、お手伝いさんたち相手に大家族の三度の食事の献立にも心をくだく。これほど忙しい主婦はいないといいたいぐらいである。
そのなかで、寸暇をしぼりだすようにして、四年あまりの歳月をかけて、幾度も書き直しながら、この「渋谷道玄坂」はできたのである。妻であることも店も家事もおろそかにしないように、家族の寝静まった時間に机に向かったりしている。それも、ほんとの机ではない。
冬なで、戸をしめた店の包装台の下の火鉢の残り火をかきおこし、湯たんぽをふろしきで背中にしばりつけて、寒さとたたかいながら書いた日もあるときいている。
商家の主婦ほどいそがしいものはないという。しかしその商家の主婦が、とにかく、これだけのものを書きあげたのである。
このことは、「渋谷道玄坂」の内容とは、直接の関係はない。しかし一商家の主婦である藤田さんが、そうした努力のなかで、この道玄坂を知っている人たちはもちろんのこと、道玄坂を知らない人たちまでを興味に魅きこむ、このような貴重な人生の姿をえがきあげてくれたことは、ぼくは藤田さんの友だちのひとりとして、どうしてもここに書きとめておきたい。その気持ちを、おさえることができなかったのである。
よんだ人たちには、かならず、なにかをあたえてくれる本である。そして心美しい人の
【昭和51年9月8日 読売新聞の記事 】
道玄坂 大正十年
見事、地図絵巻
土地っ子おかみの苦心作
憲兵分隊の裏には、与謝野鉄幹、晶子子の旧居。荷馬車が行き交い、香ばしい焼きトウモロコシ、赤いガラス玉をさげた風鈴屋の夜店が並ぶ-----。大正十年ごろの懐かしい渋谷区内の道玄坂界わいが、近くに住むお好み焼き屋「こけし」のおかみ、藤田佳世さん (64) (宇田川28の1) の手で見事に再現された。名付けて「道玄坂絵巻」。仕事の合間に、コツコツ「取材」し、布地に当時の商家や民家を実名入りで克明に記入した三年がかりの苦心の作品。いわは、生きた郷土史地図だ。きょう8日から、区立郷土文化館 (東4の9の1) で、一般公開される。藤田さんは、三歳の時、横浜市鶴見区から一家をあげて移転。それ以来、ずっと道玄坂に住みついた土地っ子である。
◇
大正十年といえば、藤田さんの十歳の時。弟を背中におぶいながら、国鉄渋谷駅から世田谷方面へ伸びる道玄坂を行き来した。道幅8m、延長300m。砂利道の両側には、木造二階建ての商家が立ち並ぶ。左手には、渋谷憲兵分隊 (現・渋谷東宝付近 ) 。いかめしい憲兵が出入りし、馬車にまたがった将官がカッポする。憲兵分隊の裏には “ 君、死に給うことなかれ ” の詩を作った与謝野晶子が夫・鉄幹と住んでいた「新詩社」の建物があった
。
目を右に移すと、中川伯爵邸 ( 現・百軒店付近 ) が見える。夏になれば、青白いアセチレンガスの灯が夜を彩っていた。古本屋、金物屋、ボタン店にまじって、綿アメやカルメ焼き、トウモロコシ、金魚売り、虫売り、風鈴屋など懐かしい夜店が並ぶ。五銭玉を握りしめて駆けつけた。そこには、林芙美子が「放浪記」で描写した “ 郷愁の世界 ” があった。
「わが街を再現しよう」。こう、藤田さんが思い立ったのは三年前。記憶の糸をたぐり寄せながら、縦1.5m、横1.2mの白い布地に、当時の商店や公衆浴場、地蔵尊などを書き込んだ。どうしても思い出せない民家や商店名などは、古老や同年配の知人を訪ね歩き、取材した。そして、この夏、郷愁をかりたてる道玄坂界わいをやっと再現させた。
「一生の仕事をやりとげたという心境です。今は街並みはすっかり変わってしまいましたが、若い方もぜひ見てください」と藤田さんは感無量だ。
このほど藤田さんから、この布製絵巻きの寄贈を受けた区教委の横川修二社会教育指導員 ( 文化財担当 ) は「道玄坂は、都内でも五指に入る坂の一つですが、明治、大正時代の資料はほとんどなく、これは生きた郷土史地図です。郷土文化館に展示し、多くの人たちに見てもらうつもりです」と、力作をたたえている。
【昭和53年2月1日 読売新聞の記事】
おかみとわが町 本になった
おかみへ ( ←ママ ) の愛情があふれ、読む人の心をさわやかにする。また、渋谷に六十年間住むお好み焼き屋のおかみさんは、大正のころの道玄坂の姿を一冊の本にまとめた。題して「大正・渋谷道玄坂」。わが町をすみずみまで知っている読書好きのおかみが、記憶にある町の歴史をひとつひとつ丹念に思い起こして書き上げた。
お好み焼き屋の藤田さん
大正・渋谷道玄坂
「大正・渋谷道玄坂」をものした ( ←ママ ) のは藤田佳世さん ( 渋谷区宇田川28の1 ) 。ことし六十六歳になったというが、その記憶力と若々しい話し振りは年を忘れさせるほど。一昨年の夏、「道玄坂、大正十年、見事、地図絵巻、土地っ子おかみの苦心作」と本紙で紹介したこともある。その藤田さんが、こんどは地図を活字に変えて一冊の本にした。
「メモ?資料?そういったものはいっさいありません。あの地図を書いた時、それにまつわる話はすべて頭の中に整理しておきましたから」。昨年二月から執筆を始めたが、十六年も続けているお好み焼き屋の仕事の合間を縫って書き上げた。正午から午後三時、夜は十一時から午前一時まで毎日机に向かったという。
「私は十歳のころを弟の守りに明けくれて、絶えずこの道を歩いた
。そらんじるまでに家々の名を覚え、 ( 中略 ) 同じ街にいまなおながく住みながら、遠い歳月の向こうにある日ばかり恋しく思うのは、あまりにもこの街の変転が激しかったせいではあるまいか」。大正への郷愁をうたった「道玄坂の地図」からこんな風に書き起こし、大正のころの道玄坂の姿を次々と活写している。「与謝野晶子のいた大和田」では、鉄幹、晶子夫妻の住居についての通説の誤りを指摘して、研究家からかなりの数の問い合わせがきているという。三百五十枚の原稿は、半年で完成、ある出版社のシリーズものとして、このほど出版された。
富士信仰の行者 戦地への兵の列 短歌にくっきり
「太平洋戦争までは大正の続きみたいなもの。戦争後が昭和と考えています」という藤田さんは「昭和の道玄坂」に近く挑戦するつもりという。藤田さんは、道玄坂の変遷を短歌にもしている。
「富士信仰の白衣の行者群なして相模に抜けしここは道玄坂」 ( 大正初期 )
「征きて遂に帰らぬ兵の幾万を旗振りて送りしここは道玄坂」 ( 昭和18年頃 )
「にげまどうわれらにおつる焼夷弾一夜に焼けしここは道玄坂」 ( 昭和20年) 。
最近の道玄坂の変遷ぶりをうたったいくつかの作品は「昭和の道玄坂」に書き込まれるかも知れない。