弘法湯のことをネットで検索すると、まず最初にこんな内容があがる。
弘法湯のお話
弘法湯」は、江戸時代の文献にも出てくる古い共同浴場で、明治18年に佐藤豊蔵という人が経営権を譲りうけ、本格的なお風呂屋として機能し始めました。佐藤家は、のちに弘法湯の近隣地に神泉館という料理旅館を開業しました。料亭ができることによって芸妓屋が開業し、それから円山の花街が広く世間に知られるようになりました。神泉館は空襲で消失し、廃業。その後は銭湯としての「弘法湯」の営業となりました。
更に調べると、この谷戸が昔火葬場があったと判明。
〇穏亡谷戸
穏亡は《火葬人夫》のこと、谷戸は《谷間にある人の住う家》道玄坂をあがって円山町に入り、その先き弘法湯付近の低地を大正初期まで《穏亡谷戸》と称した。
昔此処に火葬場があったので、その地名の名残である。 ( 町誌考 ) 近くの「大向」が「おむかい」と呼ばれていたことなどから一連の《うなずき》を覚える唱えてある。
加藤一郎:編著『郷土渋谷百年百話』p.252より
『郷土渋谷百年百話』は、古老の話や、文献を含めて加藤一郎さんが編纂している本なので、上記の記述者が誰なのかはハッキリしない。
ネットなどにも、「郷土渋谷百年百話」や中沢新一著「アースダイバー」を引用して火葬場のことが書かれているものもあるが、話の出どころはなかなかつかめなかった。
そんな中『渋谷風土記』に以下のような記載を見つけた。
隠亡谷戸
神泉町の低地元の神泉谷に里俗隠亡谷戸と唱ふる所があつた、昔此の邊に火葬場があつたと傳ふ。地獄橋といふ橋もあつたといふ、川はない故用水にかけた小橋であつたのである。古老高橋長吉の語れるに、豊澤稲荷社の邊を開く時夥しく人骨を堀り出したと。昭和七八年道玄坂通改修の前坂上の三ツ股の頂點に交番があり、その傍に地蔵尊あり今は之を渋谷激情の横町高橋長吉の地内に移したが、此の地蔵尊は火葬場の供養に建てたものであるといふ。地蔵尊の背に寛永三年 ( 二三七二 ) と彫るを以て火葬場のありしは其の頃か。
有田肇:著作兼発行人『渋谷風土記 旧史編』p.199より
ひとつ繋がった
あの口紅が引かれた道玄坂地蔵は、元々 火葬場の供養のために建てられたものだという。
上記記述はとても重要なもので「古老 高橋長吉」と書かれている方は、料亭 三長の創立者だ。
先日アップした道玄坂地蔵の記事の時に紹介させていただいた「Oka Laboratory」さんの記事を引用させていただくと、道玄坂地蔵の背後の古い由緒書にはこう記されている。
道玄坂地蔵尊 道玄坂を中心とした一帯に現存する史䟢には 徳川时代の物多く この地蔵尊は宝永三年(紀元二三六六年)の作で その頃道玄坂を起奌とした多摩川畔三十三地蔵㐧一番札所であつた 以前は豊澤地蔵尊と称し●●●●●●中渋谷豊澤の三叉路肩に立つるが 大正四年道玄坂改修工事で撤去路傍に放棄ありしを 高橋三枝殿が努力あれ在地に遷座 道玄坂地蔵尊と改称●● 昭和廾年五月廾五日戦災に並ひ 慈●●究 省に刻れたその三年後の冬季に焼失 [以下略]
昭和廾五年十一月
由緒書にある「高橋三枝殿」と高橋長吉さんは夫婦だった
「料亭 三長」は、三枝さんの《三》と長吉さんの《長》から命名したと、
現当主 三代目の高橋千善さんは下のインタビューで語られている。
インタビュー記事には、祖母・高橋三枝さんが経営されていた『豊澤亭』という立派な芝居小屋の写真も掲載されている。
それは鮮明で立派な写真なので是非見てください!
明治45年に道玄坂の通りにあったその『豊澤亭』が、大正末期に『渋谷劇場』という芝居小屋兼映画館になり、その隣に三長い料理店を作って、その流れで今の料亭になったそうだ。
地図をお借りしました⤵
左が北 ( 神泉・円山町方向 ) 、上が道玄坂下 ( 渋谷駅方向 )
都電の道玄坂上と書かれている位置の右側に、「渋谷劇場」と「三長料理店」が並んでいる。
交番の位置の今昔
上の古地図から、昔の交番は今とは違う場所にあったことが判明。
現在の道玄坂上の交番は、渋谷駅から坂を上がり、裏渋谷通 ( 滝坂通り ) の右手前角にあるが、昔の交番は反対側の角にあった。
滝坂道の標柱
昔の交番の写真
左の大通りが道玄坂で、左奥に はためいている幟は「豊澤亭」ではないか。
※ 右下の写真が「豊澤亭」⤵
もうひとつ興味深かったのが、
交番の写真の提供者が、『渋谷風土記』を編纂した有田肇さんだったこと。
今日、わかったことをまとめるとこんなこと
- 「渋谷百年百話」は、「渋谷風土記」を参考にしている
- 「渋谷風土記」著書、有田氏は「渋谷町誌」を出版し更に二十年に渡り渋谷の文献を収集している
- 有田氏は、高橋長吉さんから直接、道玄坂地蔵や穏亡谷の話を聞いている
- 高橋長吉・三枝夫婦が、道玄坂地蔵の移築に多大な貢献をしている
- 道玄坂地蔵 ( 旧名 滝坂地蔵尊 ) は、穏亡谷の火葬場の供養として建てられたものだった
神泉の町に昔 火葬場であったことや、そこに住んでいた人が火葬を生業とする人が多かったことなどは、今ではあまり語りたくない話なのかも知れない。
だが、弘法湯が富士講や淡島の灸の帰り客で賑わった歴史と同様、神泉・円山町を知る上で大事な話で、私にとって歴史の重みを感じる話になった。
本日の昼ごはん
明太子パスタ
本日の夜ごはん
少しだけ唐揚げ
普通のお宅ならこれが普通の量なのだと思う。いや、これでも多いかな。
初物の栗は、二回唐揚げにしたが、歯がたたないほど硬かった。
残った栗は甘露煮にしてみたがやはり堅い。
堅いのは揚げ方が悪かったのかと思ったが、栗が早生だったのかも。
デザートは桃
参考にさせていただいたサイト
tokyowater2005remaster.blogspot.com
【論考】坂の途中・渋谷の「性なる場」の変遷 ―「連れ込み旅館」から「ラブホテル街」の形成へ―:性社会・文化史研究者・三橋順子のアーカイブ:SSブログ
https://touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-txt/sibuyaku06.html