昨日は、那須のご自宅で執り行われたSさんの葬儀に参列した。
私は、喪主と葬儀社のあまりに非道な態度に、気持ちの整理がつかないでいる。
Sさんは私たち夫婦がとても仲良くさせていただいた方で、
私たちは毎年 正月とGWに、Sさん宅に寄り合い、楽しい時間を御一緒できる仲だった。
寄合いの通称は《酔狂倶楽部》という。
参加条件はただひとつ《楽しくお酒を飲める人》、あとは仕事も年齢もバラバラだった。
Sさん宅は、6~7人は問題なく泊まれる広さで、酔狂倶楽部のメンバーは
2~3日連泊し、昼は那須観光、夜は宴会と楽しい時間を過ごさせてもらった。
Sさんと再婚した彼女とは、共通の友人である酔狂倶楽部の恒吉さんが引き合わせた仲だった。私も2人が知り合う前は、Sさんと私、彼女と私と別々に交流を結んでいた。だから2人が結婚すると聞き驚いたが《似合いのカップル誕生》だと思った。
Sさんには、先妻との間に三人の娘さんがいる。
Sさんは、娘たちが成人し独立したタイミングで、彼女にプロポーズし那須に居を構えた。
義理の娘たちと彼女は、Sさんが元気の内には仲良く交流していた。
だが、Sさんが痴ほうを発症したあたりから娘の態度が変わった。
《彼女が、針のむしろ状態だった》と、私が知ったのは、ずっとあとのことだった。
Sさんの症状がすすむと同時に、彼女の方も介護疲れでうつ病を発症。
Sさんは、介護型高級老人ホームに入所することになった。
それが娘たちの逆鱗に触れたらしい。
「散々いい思いをしたのに、パパが病気になった途端に放り出した」
長女は父親に無断で、彼女に離婚届をつきつけた。
「これを書いてくれたら、あとは私が役所に届けます」
離婚届の話を聞いたSさんは、流石に娘をどなりつけたらしい。
彼女は那須の家を追われるように ( 娘たちが売却をするというので ) 東京に移転。
月に2~3度、Sさんがいる那須の施設を見舞う生活が始まった。
痴ほうとはいえ、まだまだ認知度も判断力があるSさんは、彼女の来訪を心待ちにした。
一方で娘たちの見舞いも心待ちにした。
そんなSさんが最期の時を迎えたのが4月4日。
危篤の知らせで駆けつけたが、彼女はSさんの最期に間に合わなかった。
そして葬儀。
娘たちは葬儀は自分たちがあげると言い張り、長女が喪主をすることになった。
そんないわくつきの葬儀だが、酔狂倶楽部のメンバーは10人参列。
( 倶楽部の主軸だった恒吉さんとマダムが存命なら勿論一番に駆けつけただろう )
娘さんは私たちにはにこやかに応対するも、彼女を終始無視しつづけた。
焼香の順番も彼女は親族の一番最後。
彼女は、位牌も写真も持たせてもらえず、一般参列者と同じように扱われた。
私の怒りが爆発したのは、火葬場でのこと
10人以上泊まれるほどの邸宅だから敷地も広い。
駐車スペースは十分あるのはわかっていたが、
娘たちは「霊柩車が通るので、親戚以外の車はどこか別の所に停めてくれ」と言う。
「停めるられるのにね、まだここあたりに何台も・・・」
彼女と酔狂メンバーは、家から5分離れた場所に駐車して参列したのだが、
いざ火葬場に向かう段に、それが原因で遅れをとった。
火葬場への到着が間に合わなかったのだ。
火葬場に着いたのが、火葬時刻の1分後。
Sさんの棺は火葬炉にいれられた後だった。
私たちは構わない。
だが正式な妻である彼女を待たずして火葬を初めたことに、私は激怒した。
娘には娘の言い分や感情があるだろう。葬儀屋も、後妻と娘との複雑な関係に困り、
最終的には喪主である長女に従わなければならなかったのだろう。
だが。
最後のお別れを彼女にさせないというのは、人間としてどうなのか?
私は担当者に詰め寄った。
「たった一分ですよ、どうして待てないんですか?
奥様を待たないで火葬をしてしまうなんて、それでもあなたはプロですか?」
担当者は、火葬場の都合だと開き直った。
娘が鬼になったのには、彼女らなりの事情があるのだろう。
だが、娘がやったことは
《大好きなお父さんが、愛する妻と最後の別れが出来なかった》ということ。
人ひとりが亡くなると、修羅場もあると聞くが、
こんな恐ろしい悲しい情景を目にするとは思わなかった。
穏やかで明るくて包容力のあった素敵な紳士-Sさんの最期がこんなになるとは。
長距離運転で気の重い葬式は疲れるものだが、
さらに負のオーラに満ちた体験に疲れが倍増された一日だった。
葬儀のあとに食べたカレー