「原田マハさん、次は何を読もうかな」と思っていたら、
テレビ 『博士ちゃん~幻の葛飾北斎 大捜査スペシャル』 で
芦田愛菜ちゃんがこんな話をしていた。
「林忠正さんは、浮世絵を海外に大量に売りさばいたことから、日本ではずっと国賊扱いされていたみたいなんですけれど、『たゆたえども沈まず』という本を読んで林さんのイメージが変わりました」
『たゆたえども沈まず』は原田マハさんが、パリに渡り画商として奮闘する林忠正を描いた作品らしいことがわかった。
早速、読了
誰も知らない、ゴッホの真実。
天才画家フィンセント・ファン・ゴッホと、商才溢れる日本人画商・林忠正。
二人の出会いが〈世界を変える一枚〉を生んだ。
1886年、栄華を極めたパリの美術界に、流暢なフランス語で浮世絵を売りさばく一人の日本人がいた。彼の名は、林忠正。
その頃、売れない画家のフィンセント・ファン・ゴッホは、放浪の末、パリにいる画商の弟・テオの家に転がり込んでいた。兄の才能を信じ献身的に支え続けるテオ。そんな二人の前に忠正が現れ、大きく運命が動き出す。
引用元:たゆたえども沈まず 幻冬舎
ゴッホの生前に売れた絵は1枚だけである。孤独との闘いに光を射し込んだのは日本の浮世絵だった。浮世絵を19世紀のパリでジャポニスムとして価値を高めた林忠正。彼ほど浮世絵の卓越した芸術性を知り、200年にわたる日本版画のすべてを守った者はいない。
たゆたえども沈まずとは、激流に身を委ね、決して沈まず、やがて立ち上がる、パリ市の市標である。
日本で国賊を言われていた林忠正
先に触れた「博士ちゃん~幻の葛飾北斎 大捜索」では、葛飾北斎をこよなく愛す14歳の少年・目黒隆一郎君がオランダとイギリスを訪ねている。
隆一郎君は北斎画において大人顔負けの知識を有し、情熱を傾けている。その真摯な態度により、オランダ人の北斎研究家の自宅に招待され、世界に一枚しかないという北斎の原画を見せてもらっている。
また、イギリスの大英博物館では、一般公開されていない ( しかも日本にない ) 北斎の浮世絵を見せてもらっている。
この流れで《林 忠正》の名が出てきたのだが、スタジオのサンドさんたちが「林忠正ってのは悪い奴だなあ、日本の宝をどんどん持ち出して金稼いだんだぜ」と口火を切り、隆一郎君と愛菜ちゃんがこう補足説明した。
「確かに林忠正は、日本でずっと悪者と言われていましたけど、林忠正が日本からヨーロッパに浮世絵を持ち出したことで、大切に保存してもらえたんですよ」
そう言われると、林忠正への評価も変わる。
本書にも、こんな文章が
日本では、浮世絵といえば読物の挿絵だったり、瓦版や新聞記事だったり、店先に宣伝用に貼ってあったりして、べつだん珍しいものではない。歌舞伎役者の似顔絵や皇族のやんごとなき方々の肖像なども作られている。人気の役者絵などは、小さく折って帯に入れている婦女子もいるらしいが、とにかく、浮世絵を美術品として後生大事にしている者に会ったことなどない。その代わり、茶碗屋で器を包むのに使っているのを見たことがあるが……。
p.95
林忠正は、日本で雑に扱われていた《浮世絵を救い出した人》ともいえる。
「ジャポニズム人気」のヨーロッパに浮世絵を持ち込み、美術品としての価値をつけたのだから、見方をかえれば《功労者》だ。
「招魂たくましく売りさばいた」と言われれば、確かにそうかも知れない。
しかし忠正がいなければ、浮世絵はこれほどまで後世に残らなかったかも知れない。
『たゆたえども沈まず』には、そんな林忠正がいかにしてパリで浮世絵を扱ったかが、部下である加納重吉 ( 架空の人物 ) の目を通して描かれている。
彼はパリのブルジョワジーに舐められないために、言葉や立ち居振る舞いにも配慮して仕事をしている。重吉に対しても「客の前で日本語を使うな」「身だしなみには注意しろ」と叱咤する。
強くなってください
この本で面白いのは、そんな林忠正をゴッホの弟・テオの良き理解者として仕立て上げていることだ。史実では、林忠正とゴッホ兄弟の接点はない。
マハさんは、テオのイメージ ( 揺るぎない経済的・精神的支援により終生兄を助けた頼もしいイメージ ) を、少し変えている。
本書のテオは人間味豊かで、兄の自堕落さに怒りや失望を覚えるシーンもあり、愛妻や子供との生活を考え、兄を疎ましく思う心の揺れ動きも書かれている。
そんなストレスを抱えているテオを力づけたのが忠正の言葉だったのだ。
本書の帯にある「画家・ゴッホを世界に認めさせるために⸻強くなってください」という言葉は、心が折れそうになるテオに対して、忠正がかけた言葉だった。
タイトル「たゆまずとも沈まず」も、忠正からテオへの応援メッセージに感じた。
「たゆたえども沈まず」 ( Fluctuat nec mergitur:ラテン語 ) は、ローマ時代からセーヌ河の舟運で交易を行っていた船乗り組合の標語で「どんなに強い風が吹いても、揺れるだけで沈みはしない」という意味。パリ市票にもなっている。
パリ5区区役所の市章 ( パンテオン広場 )
このシーンも意味深
テオの死に際し、妻のヨーが重吉に、ゴッホの絵を形見分けとして渡そうとするのを、忠正が断るシーンがあった。
「どうかあなたがお持ちになって……日本へ持ち帰っていただけませんか」
重吉は、戸惑いの浮かんだ目を忠正に向けた。忠正もまたカンヴァスをみつめていたが、
「……いまではないのです」
一言、言った。はっきりと。
「日本は、西洋画の面白さにようやく目覚めたばかりです。西洋画といっても、画壇のお偉方が描く古典絵画の手本のような枝。フィンセントのような、まったく新しい絵画を理解するには、もうしばらく時間がかかるでしょう」
自分で価値を見出すことはせず、むしろ他人が認めたものを容認する、それが日本人の特性だ。だから、フランスなりイギリスなりアメリカなり、日本以外の国で認められた芸術を、彼らは歓迎するのだ。
「なぜそんなことがわかるのかと、あなたは問うかもしれません。しかし、私は、よくわかっているのです。なぜなら……浮世絵がそうだったから」
忠正は、静かに言った。悟り得た表情で。
「ついこのまえまでは、日本人にとって浮世絵は茶碗を包む紙に過ぎなかったのです。それがどうだ、パリで認められたとわかったとたん、彼らは私を責めるようになった。⸻日本の貴重な美術品を海外で売りさばく、お前は……『国賊』だと」
p.404
このシーンで忠正は、ハッキリと浮世絵についての、日本とヨーロッパの価値観を述べている。
そして、ゴッホの遺品を貰えない事情もある。
先に述べたように、ゴッホと忠正との間に交流があったという史実はないのだから、遺品を貰い日本に持ち帰れるないのだ。
フィクションと史実のはざまを愉しむ
その他にも、本書にはこんなエピソードがある。
- テオが重吉を介して忠正から浮世絵を譲り受け、その浮世絵をゴッホに見せる
- 本物の浮世絵を見たゴッホはいたく感動し、忠正に「日本に連れていってほしい」と言う
- ゴッホが描いた「タンギー爺さん」の二枚の背景の浮世絵は、林忠正から譲り受け ( 借用? ) たものをモデルの後ろに飾って描いた
いずれもフィクションである。
マハさんが想像するように、同じ時期にパリにいてお互いに美術にかかわる世界にいたわけだから、浮世絵を通してこのような交流があったとしても不思議ではない。
が、ゴッホと林の関係についてはフィクションであるとハッキリ意識した上で読む必要もあり、そうやって読むと、細かいところに多少の無理というかほころびのようなものを発見する楽しみもある。
例えば、先ほどのゴッホの遺品を貰う貰わないもしかりだが、商才たくましく審美眼のある忠正なのだから、テオが兄の絵をなかなか売りだせないのを見たら、もっと積極的に力を貸すこともできるはずだ。しかし史実ではないので、忠正がゴッホを売り出したり、作品を買い取ったりするわけにはいかない。
この物語を読んで、もしゴッホと忠正が知り合いだったら、ゴッホの晩年も変わっていたかもしれないし、生存中にもっと評価されたりしたかも知れない、など想像をふくらませてしまう。もしかしたら読者にそう思わせるのもマハさんの狙いだったりかるのか知らん。
余談だが、本を読んだのがパリオリンピック開催中で、テレビにはマリーアントワネットが幽閉されていたコンシェルジュリーも映し出された。
作中にもコンシェルジュリーの前の橋を、忠正と重吉が散歩し語らう場面があった。
マリーアントワネットが生きた 1750年代も、
重吉たちがパリを歩いた1880年代も、
パリオリンピックが開催された2024年も、あの場所には同じ建物が存在し、
時代を超えてみんなが同じ景色を眺めているのだと思い当たり、
日本建物の変貌を残念に思ってしまった。
(注)弊記事の表記を《ゴッホ》《テオ》としたが、正確には2人ともゴッホ。
本来は兄をフィンセント、弟をテオドルスと呼ばなければおかしいけれど、
今回はあえで画家の兄を《ゴッホ》、画商の弟を《テオ》とした。
本日の朝ごはん
金ちゃんヌードル
本日の昼ごはん
揚げなすの味噌汁に長ネギを粗めに刻んで
本日の夜食