先の小説にある「こんぱるいろ」から、色の名の由来を調べてみた。
金春色とは
金春色とは、正式には「新橋色」という日本の伝統色。
明治時代中期に、化学染料の輸入にともないできた新しい色で、当時それまであった植物や動物由来の天然染料とは一線を画す鮮やかな発色の色だった。
その色をいち早く着物に取り入れたのが、新橋の新しいもの好きな芸者さんたちで、以来この鮮やかな青緑は「新橋色」と呼ばれるようになったそうだ。
では何故「新橋色」のことを別名「金春色」というかというと、
芸者さんたちが住んでいた地域は、元々は能の金春流の屋敷があった場所だったから。
「金春色」と呼ばれるようになった経緯
江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があった。
金春大夫が拝領したのが新橋、現在の地番でいうと中央区銀座8丁目6~8番地あたり。
能役者は幕府ご用達の町人として一般の町人とは別格の扱いを受けていて、
元禄六年 ( 1693 ) 頃の江戸市内の状況を記した「
件のページ⤵
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018778/686?ln=ja
寛永江戸図『
1624~1643年 ( 寛永年間 ) 地図
上の地図は、右が北。
中央、ほぼ左を拡大すると「新橋」から「京橋」がある⤵
「新橋」の少し右に「金春七郎」とあります。
※ ごめんなさい、字を間違いました「今春」ではなく「金春」です m(__)m
金春屋敷が安政9年 ( 1870 ) 頃、麹町善国寺谷 ( 現在の千代田区麹町 ) に移転後、
能役者の貸長屋に町人が住むようになった。
当時武士は、拝領地に町人を住まわせてはいけなかったが、能役者は武士ではないので、若年寄の直接支配を受けなかったらしい。
次第にそこに住むようになったのが芸者で、彼女たちはおもてなしの才能にも長けていたことから、江戸時代の草分けの「金春芸者」として生業をはじめ彼女たちが住んだあたりの筋を「金春通り」というようになった。
「金春通り」は昭和40年代まで多くの芸者の集まる花街としてにぎわった。
その「金春芸者」の間で流行した色が「金春色」である。
金春屋敷跡にある案内板
金春屋敷跡 所在地 中央区銀座8丁目6~8番地域江戸時代、幕府直属の能役者として
知行 ・配当米 ・扶持 を与えられていた家柄に、金春 ・観世 ・宝生 ・金剛 の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受け大いに興隆しました。
特に金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。
江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる
式楽 と決めました。
元禄六年 ( 1693 ) 頃の江戸市内の状況を記した「
国花万葉記 」によると、金春大夫は山王町 ( 現在の銀座8丁目 )・観世大夫は弓町 ( 現在の銀座2丁目 ) 。宝生大夫は大鋸町 ( 現在の京橋1丁目 )・金剛大夫は滝山町 ( 現在の銀座6丁目 ) に屋敷を拝領していたとあります。
金春家は、寛永四年 ( 1627 ) に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図『
武州豊嶋郡江戸庄図 』には「金春七郎」の名が確認でき、現在の銀座8丁目6・7・8番辺りに図示されています。
後に屋敷は
麹町 善國寺寺谷 ( 千代田区麹町3・4丁目 ) に移りましたが、跡地には芸者が集まり花街として発展しました。金春の名は、「金春湯」「金春通り」などと、今もこの地に残っています。
平成15年3月中央区教育委員会
本日の昼ごはん
美登利寿司のちらし
本日の夜ごはん
京都森和のごまいわし
スープと厚揚げを追加
食後にキスチョコでジン