Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

『流れる』 を読んで

 

「このうちに相違ないが、どこからはひつていゝか、勝手口がなかつた。」

幸田文「流れる」の冒頭の文章です。

物語は、夫と離別し子供を亡くした梨花という女が、女中の口を求めて芸者屋にやって来るところから始まるのですが。。。。

 

スミマセン。

いつものことですが、大好きな作品ゆえ、「ここもいい」「あの場面もいい」と割愛できず、テンコ盛りの引用で長文になってしまいました。

 

備忘録にお付き合いいただくのは申し訳ない。

これから読もうという方、興味のない方にはこれほど迷惑なものはなし。

じゃかじゃかぶっ飛ばしていただければと思います。

恐らく、引用を飛ばしてもわかる、、ハズ。。。。

お時間が許せば、お付き合いいただければ幸甚でございます、はい。

 

このうちに相違ないが、どこからはひつていゝか、勝手口がなかつた。

   (中略)

すぐそこが部屋らしい。

云ひあひでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子を張つたいろんな聲 ( こえ ) が筒抜けてくる。

待つてもとめどがなかつた。

いきなりなかを見ない用心のために身を斜によけておいて、一尺ばかり格子を引いた。

 

と、うちぢゆうがぴたつとみごとに鎮まつた。

どぶのみぢんこ、と聯想 ( れんそう ) が來た。

もつとも自分もいつしよにみぢんこにされてすくんでゐると、

「どちら?」と、案外奥のはうから あどけなく舌つたるく云ひかけられた。

目見えの女中だと紹介者の名を云つて答へ、ちらちら窺ふと、ま、きたないのなんの、これが藝者家の玄關か!

 

「え? お勝手口? いゝのよ、そこからでいゝからおはひんなさいな。」

同じその聲が糖衣を脱いだ地聲になつてゐた。

 「流れる」新潮社 p.3より

 

訪ねて来たのが客でないとわかると、途端に地声になる。

裏表の世界、玄人の、いや女性特有のといってもいい、こんなところをよく摑んでいる冒頭です。 

 

「しろうとさんね?」――だめか、とかんぐつた。

「しろうとの人でもいゝのよ。しろうとも くろうとも、たべて働いて寢て、

 ・・・つまり家事雜用はどこでもおんなじだもの。」

 

つまり家事雜用が珍しい聲で聞えて、

すこし氣樂なものがこちらの堅くなつたしろと臭さへ緩く浸みてきた。

 

「まあ、ゐてみたら?

 どつちかつて云ふと、若いのよりあんたみたいな としよりのはうがいゝのよ、

 ものを知つてるからね。」

「おかあちやん何云ふのよ。わるいわ としより だなんて。

 しろとさん驚いちやふぢやないの。」

 

火鉢の向うにゐる紅い羽織がさう云つた。さつき覗いた首の一ツだ。

「いゝぢやないの。あんた氣に障つたらごめんなさい。

 この土地ぢやもう三十になると誰でもみんなばゞあつて云はれるんでね。」

 

若い人は惜しげなく使へるが とんま だ、としよりは一應できるから任せておけるが使ひにくい、

用事は煮炊きに洗濯だ、つまり家事雜用だから、重勞働だの特殊勤務ぢやないと云ふ。

 

「お使ひづらいと存じますが、どうかひとつ、

 ・・・どちらさまでも方々で齢とりすぎてゐるとおつしやられまして。」

「おねえさん、このひと口利けるわよ、ことばちやんとしてるもの。」

 「流れる」新潮社 p.4より

 

梨花が女中奉公にやってきた置屋「蔦の家」の女主人には、勝代という娘がいます。

勝代は母とは違って不器量です。

美貌と藝 ( げい ) でしのぎを削る置屋の家で、とりえもなく生きがいも見出せずに暮らしていますが、通いの妓たちには威圧的な態度で主人風をふかします。

「蔦の家」から看板を出しているのは、年増の染香と 美人芸妓  なゝ子。

2人は通いの芸妓です。

 

梨花が来るちょっと前まで、なみ江という妓もいたのですが、悶着を起こして出奔。

梨花の荷物の為に、押入れのなみ江の荷物を足でぐいっと奥に突っ込んだのは米子という女でした。

 

米子は女主人の姪で、二枚目の板前にいれあげて所帯を持ったものの捨てられて、娘の不二子と共にこの家に転がり込んでいました。女中が居つかない「蔦の家」の家事をやらされていますが、嫌々しぶしぶの働き様、家中はちらかり放題。

米子の娘というのが、これまた高慢ちきな嫌な子供です。

 

女主人を始め、いわくありげなアクの強い女たちの中で働くことになった梨花、

次から次へと面倒が起こります。

 

かういふところは新しい女中に新しさゆゑの遠慮などもたないやうだつた。

そのつまり家事雜用が會釋もなくどさどさとかぶせられてきた。

炭を出せ、たばこを買つて來い、急須を洗へ、晩のおしたくは肴屋へ行つて、

あゝそれよりさきへ洗濯物を取りこんで、雨戸を締めて、さうだ、猫にごはんをやつて、

といつたぐあひである。

 

遠慮がないと云へば、なゝ子さんも犬もたちまち友だちづきあひだし、

米子は中古細君みたいに平氣で不機嫌を見せつける。

女中など目見おでも古くでも使ふだけ得といつたやうすである。

          (中略)

「ちよいと、あの、なんていつたつけね、梨花か、

 ・・・どうもじれつたい名だね、女中はかうすらつとした名のはうがいゝんだが。

 春さん!」

 

けはしく呼びたてられて行つてみると、笑顔がゆつたりと優しいから不思議だ。

とつさに氣がかはるのは、あゝいふじれつたい物云ひにかういふのどかな顔が飾つてあるのか、

一時間二時間にしかならない くろうと 衆の世界だ、わかるはずはない。

と思ふものゝ、はや梨花の性癖が頭をもちあげてゐた。

――わからないはずはない、と挑んでいくやうな氣になつてゐるのである。

相かはらずどこへ置いても自分は強いと、ひそかな得意があつた。

 「流れる」新潮社 p.10より

 

目下この家では、ちょっとしたゆすりたかりの事件が起きています。

つい先日までここから出ていた なみ江という芸妓の叔父が、人権蹂躙だ売春強要だ不法取扱だと、金を要求してきているのですが、最初にちょっと金を払ったのがいけなかった。

三ヶ月もすると男はまた訪れて、ゆすりたかりを繰り返しているのです。

近所の手前もあり、また清廉潔白とは言い切れない弱味もあるんでしょう、主人は、金貸しの姉 ( 鬼子母神 ) や元先輩芸者で今は料亭をやっている女主人 ( なんどり ) などと相談を重ねあたふたする毎日でした。

でも、その対処がお粗末なんです。

 

しばらくみんなで相談し、けふのところはとにかく話をうやむやにひきのばすはうずいゝと云ふので、盛りつぶすことになつた。

              (中略)

酒を出すのだから臺處 ( だいどころ ) が忙しいかと云へば、ちつとも忙しくない。

酒も酒屋へ買ひに行くのではない、いつさいは鮨屋へ云ひつければ濟むのである。

「お酒二本、なにかお摘み見繕つて、お猪口も五ツ揃へて」と誂へる。

持つて來たのはみごとだつた。

平皿の大きいのへ溫室きうりを筏 ( いかだ ) に、こはだの細引、そぎ獨活 ( うど ) に大はしら、

生海苔にあなごのしら焼、鯛の皮にゆがき三つ葉、とり貝に芽紫蘇、

みなほんの一ト口一ト摘みづゞである。

いつたい一人がどれだけの割當になるのだか、もしこれが自分に出されたのなら遠慮で箸ものばせず、味は涎だけで賞翫するよりほかはないと梨花はおもふ。

さういふ美しさ利口さは、さすがに花街である、しろうとの町にはないものである。

お酒二本のけちくさい註文もそれが適量であるなら、なにも酒屋から金嵩の張る一升壜を買はなくてもいゝのだし、お猪口も貸してくれる便宜があるなら、なまでひうちに揃へておいて割つたの缺いたのといふ面倒くさゝも省ける。

なんと都合のよう習慣にできてゐる土地だらう。

だが叉、なんとこのお摘みの大皿の繊細に美しいことか、あはれにはかなく腹の足しにならない美しさである。

考へれば、女たちの働く土地である、臺處のしごとがかういふやうに都合よく省かれてゐるのはあたりまへかもしれない。

 「流れる」新潮社 p.47より

 

幸田文の目は流石鋭いですね。

酒やつまみの仕度の描写も見事です。

そして、こんなところにも、玄人と素人の違いを見出すとは。

また作者の目利きは着物のことにも転じます、こんな感じに。。。

 

男の聲が、「えゝ、おひろめです」と云つた。

出て見ると、目がぱちつとする色彩がかさなつて立つてゐた。

盛装も盛装、第一公式の高島田に黑り褄をとつた人と色紋附のとしまさん、男衆、

それに何やら女中さんらしいのもゐて、玄關そとはいつぱいである。

 

先頭の色紋附が梨花を見るなり命令した。

「とにかくその犬つかまへてゝください、

 飛びつかれちゃたまんないからしつかり押さへてゝ頂戴。」

内からは なゝ子と染香が口々に、「おめでたうございます」と一ト調子張つて云ふ。

「おねえさんは?」

「あいにくねえ、さきほどちよつと出かけましたんですよ。」

染香はさすがに年輩だけに、主人不在だと不在だけを云ひつぱなしにはしない。

「折角いらしてくださつたのにねえ。

 ほんとにりつぱにできましたこと、なんていゝおしたくなんでしよ」

と感に迫つた聲をあげて、おほつぴらにじろじろ見る。

 

見られる對手 ( あいて ) はさう若くない。

こんな古風な顔がまだあつたのかと思はずにはゐられないやうな、

気象がまるであらはれてゐない、瓜ざねがたの一トかは眼の、意志のない顔である。

しかし美人である。

花笄 ( はなこうがい ) が眼につく。

島田はむろん鬘 ( かつら ) だが、笄は一見セルロイドでなく本甲で、

とろつと油のやうに重い黄色が鬘をひきたてゝゐる。 

 

f:id:garadanikki:20160131153713j:plain

帯あげの一ト粒鹿の子が胸もとを豊かにしてゐて、

f:id:garadanikki:20160131153712j:plain

梨花は生まれてはじめて左褄を三尺の近さで見てゐた。

「**屋の*子です、おねえさんにくれぐれもよろしく。

 どうかお引廻しをね。」

 「流れる」新潮社 p.61より

 

花街のお披露目という習慣も、そしてお披露目を受ける先の対応も面白く描かれます。

じろじろ見るのは当たり前。

「いいおしたくで」と言っておきながら、早速に値踏みが始まるんですね。

「相当なしたくだね、いゝ衣裳だ。三十萬ってものかね。」と染香がいえば、

「そんなにかかってないわよ。襦袢ただの緋縮緬だもの、それに帯だって糸錦よ、つづれじゃなかったわよ染香さん。鬘だってあれ伊賀屋さんの型じゃないもの、第一級っていうんじゃないわ。」となゝ子。

 

む・・・手厳しい。

 

かけ聲 ( こえ ) 三十萬の實地 ( じっち ) 十五萬なら倍である。

染香のさういふ値のふみかたを聽 ( き ) いてゐると、

梨花にはこの一郭の金の價 ( か ) 値 がいきいきしたものに映るのである。

かけひきが強いとか、あざとい吹っかけとかには思へない、

かう堂々と二段構へ三段構への定價 ( か ) がつけられてゐるのは、

金銭の尊さ強さをしつかりと示してゐることだ。

 

しろうとの金は ばか で、退屈で、死にかゝつてゐる金であるし、

くろうとの金は切ればさつと血の出るいきいきした金、

打てばぴんと響く利口な金だとおもう。同じ金銭でも魅力の度が違ふ。

 「流れる」新潮社 p.62より

なるほど。

幸田露伴の娘に生まれ、固い家で育ってきた幸田文にとっては、こういう風に映るのですね。

 

梨花 ( 作者 ) は、唄の良しあしについても鋭い目を持っています。

主人が土地の芸妓総出で劇場を借りて大がかりに催す舞踊の興行の稽古をしているのですが、

心中色々のごたごたがあって、稽古に身が入らない。

そんな主人の稽古を聞くともなしに台所で聞いている梨花は、

どうも気に入らない部分がある、というのが下の場面です。

 

ぴいんと弦 ( いと ) をはじいて調子合わせがはじまつた。

主人の正式な稽古ははじめて聞く。

不愉快な気もちが殘つてゐるのか、撥 ( ばち ) はびんびんするし、節廻しも聲もおしろくない。

音樂を知らないのに何をよりどころにさう思ふのか、

神繼 ( 神経 ) に突き刺さつて來るやうないやな音だつた。

梨花はまどふ、これは勝代の云ひぶんがあたつてゐはしないかと。

 

大袈裟に云へば、耳から押し込んで來た音が胃のなかを掻きまはして、

もう一度げろつと外へ押し出して來さうな氣もちの惡さである。

それも主人はかなり氣負つてやつてゐる。

その氣負ひがまた氣障に聞こえてたまらない。

 「流れる」新潮社 p.219より

演藝會 ( 演芸会 ) の競ひにいつか梨花も巻きこまれてゐた。

      (中略)

主人も叉これも意地のやうに、くりかへしくりかへし浚ふ。

うまくないから浚ふのだらうが、まづい。いやらしい聲だ。

唄はすらつと落ちて來ない。ざらつく刺激がある。

いけないところがどこなのかわかりはしないが、くりかへされるごとに、まだいけない、

まだまづい、それでもだめだと、ひとかに梨花は氣合をかけてゐる。

ことに男ことばのところが鳥肌が立つ未熟さだつた。

すこし敏感すぎると自ら控へても、唄がはじまれば節を追ふし、

その部分へ來かゝると聽かないさきに、

なつてゐなさを豫期して生理的ににげぶつと突つ返す思ひである。

それほど我慢ならないいやな調子なのだつた。

 

ホントに凄い洞察力。

どこが悪いかという技術的なことはわからなくても、

本質を見抜く力、さらにそれを表現する筆の凄さに脱帽です。

 

梨花の観察は続きます。

總浚 ( 総ざらえ ) へにあと幾日もないといふ朝だつた。

けふだめなら所詮もうだめなやうな氣がして聽いてゐた。

味噌汁の大根を刻みながら、聽くと云ふよりむしろ堪へてゐた。

もつともいやなそこへ來かゝる。節はこちらももうそらんじてゐる。

いやな聲、へたを期待してゐるへんな感じだつた。

それがさらつと何事もなく流れて行つた。できた! と思つた。

 「流れる」新潮社 p.236より

 

そんな梨花と主人の間で思いもよらぬ衝突が起こります。

気にかかっていた部分がウマく浚えたことを気持ちよく思っているのは当人も当たり前のこと。

 

主人は稽古を濟ませるといつも嗽ひ ( うがい ) をして手を洗ふ。

自分でも到達を承認してゐるのだらう、弾み聲だつた。

おめでたうと云ひたいほどこちらも弾んだ氣もちながら、藝事だけに女中の分際では控へるほかない。

 

あかの古風な金盥 ( 金盆 ) へ湯を取つてゐるすぐそこに待ちながら、

主人は兩て ( 両手 ) をぼんのくぼに當 ( 当 ) てゝ、うゝんと思ひきり伸びをする。

「あゝいゝ氣もちだ。けさはほんとにさつぱりといゝ氣もちだわ。」

藝者といふ職業も、母親といふ絆も離れてゐて、

さつぱりといゝ氣もちだけの女といふふうに見える。

高貴でも艶麗でもなく、たゞ親しく平安な眼つきなのだ。

「ほんたうに、

 ・・・實はさきほどからわたくしも、いゝお氣もちのお裾分けをいたゞいてました。

 ほんたいにけさは結構でよろしうございました。きのふまでとはぐつと違つてをりました。」

「あらあんた、・・・」

「は? お稽古のことでございましよ?」

「――えゝ、だけど、・・・」

からになつた薬缶といつしよに廊下へ後ずさりに出るところを、

「ちよいと、あんた、あのう、・・・・」

 

たつたいま見せてゐた表情はひつこんで、用心したやうな顔になつてゐる。

やはり云ふべきではなかつた。

この人の藝の自尊心には女中の鑑賞が不愉快なのだらう。

無言に小腰をかゞめてさきの出やうを待つと、「あんた清元するの?」

「いえ、ラヂオよりほか。

 ・・・それも清元も長唄もたゞ三味線の音樂だといつしよくたにしてゐるやうなもんで。」

「だつてをかしいわ。

 そんなになぜ、あたしの氣もちのいゝのがすぐ稽古のことだと思ふんだらう。

 知つてるものでなけりやわかるはずないけど。

 ・・・これは自慢ぢやないのよ。清元をやるひとはいくらもゐるわ。

 あたしもへたではあるけど、へたなりに、いはゞ上の部のしつぽは食ひさがつてるつて、

 まあお師匠さんもさう云ふし、これが稼業の表看板よ。」

    (中略)

「そりや、學校のオルガンでうたふ唱歌みたいな清元は、いきなり三味線の弦へ乗つたとでもいふの

 なら、しろうとのあんたにわかるのも合點が行くけど、あたしの唄のできたできないは、

 くろうとにもわからないほんのかすかなものだのに、どうしてあんたにわかるのかしら。

 あんた一對どういふ素性なの?」

完全にいけなくなつて行つた。

「どういふつて、・・・たゞのしろうとの後家といふだけですが。」

「變だわねぇ。それがどうして、きのふとけふの違ひがわかるんだらう。

 あたしにはどうしてもあんたが、なにかだと思へるわ。なんかこの社會に繋がつてるんでしよ。

 それにそれ、ことに知られたくない痛いところなんぢやない?

 なんにも知らないなんてはずないわ。もしさうなら、一しよう懸命やつてるくろうとは、

 ばかみたいなもんだつてことになつちやうぢやないの。」

「いえ、それ、知らないからかへつてわかつたんぢやないかと思ひますが。」

それが又ますますいけないもとになつた。

 

 「流れる」新潮社 p.240より

スリリングでしょう? 生き生きといているでしょう?

引用を多用したのには、ワケがあります。

置屋の女中になった素人の梨花でしたが、花柳界というのはよそ者、特に素人の目というのを執拗に意識するところがあります。

「しろとでもくろとでもいい」と梨花を雇った女主人でしたが、家事一切落ち度のない梨花の働き様に満足しつつも、その目端の利き様に用心し出していたのです。

 

 

そもそも幸田文が、どうして芸者の世界を題材に小説を書いたかのか、ずっと不思議に思っていました。

幸田文が  ( ご本人は物書きではなく自分のやっていることを「作文」という言い方をされます ) 「作文」をし始めたのは、父幸田露伴が亡くなってからのことです。

生前の露伴がどんな人物だったのか、それを書いて欲しいという関係各位からの依頼で筆をとったのがキッカケで、幸田文の才能が開花します。

ところがある日、彼女は文学界から忽然と姿を消したのです。

当時の様子を記すこんな資料がありました。

 

「想ひ出屋」だなどとは、むろん誰かがやっかみ半分の皮肉として言ったのであろう。そんな雑音に惑わされることはなかったのである。実際、その「想ひ出」が他に類のない特質を持ち、価値があり、そして何しろ面白いのだから。更に言えば、ある事を書いてそれが思い出になるか小説になるかは、要するに書き方の問題だということもある。過去の体験を書いたものが全て思い出であるものならば、いわゆる私小説作家は全て「想ひ出屋」だという事にもなりかねない。そんな風に覚悟を決めてしまえば、幸田文これまでの半生涯にはまだまだ幾らでも小説になるべき素材はあったはずである。

 

 ところが、恐らくは彼女生来の勝ち気がそれを妙な方向に走らせた。自嘲しながらも拘 ( こだわ ) ったのであろう。それとまた、そろそろ「材料が尽きた」 ( 「くさ笛」 ) という焦燥もあったかもしれない。彼女は俄然ジャーナリズムから姿をくらましてしまう。

昭和二十六年、名を伏せて柳橋の芸者屋に女中奉公にいった事件だが、こうして、あの「流れる」 ( 昭和30年1月~12月 ) が生まれた。

 

新潮日本文学アルバム 「幸田文」新潮社 p.58 ( 筆:勝又浩 ) より

 

たった4ヵ月のことだといいます。

書く材料を求めての潜入では決してなかったはずですが、鋭い洞察力を持つ作家-幸田文の手によって、花柳界の様子がつまびらかにされてしまいます。

幸田文は、この作品によって芸術祭文部大臣賞まで受賞することになり、この作品はラジオドラマ、舞台、映画にもなったのでした。

 

モデルにされた置屋の人々と幸田文の関係はどうなったのか気になるところです。

小説が全て実際にあったことではないでしょうが、ディティールを公開された女たちの心境は複雑だったと思います。

 

ただ、これが発表されたその時期がよかったのかも知れません。

昭和31年、売春防止法、いわゆる赤線廃止令が出た頃でした。

物語は、落剥の臭いが立ち込める置屋「蔦の家」という設定ですが、時代は柳橋全体、更には花柳界全体が斜陽をたどっていました。世間には花柳界の衰退を惜しむ声もあり、モデルとなった女たちも多少慰められたのではないでしょうか。

 

 

幸田文の的確で緻密な観察力は、男性目線の好奇な目とも、素人女性の意地悪な目線とも一線を画す、

中立で暖かいものであると私は思います。

以下は、私が最も好きなシーンで、

これこそ幸田文が花街の女性たちに対する最大のリスペクトではないかと思います。

 

実はこのエピソードがないと、物語の最後に なんどりが梨花に目をかけたのかがわからない重要な部分と思うのですが。。。。

残念ながら、映画では何故か割愛されていました。

 

とにかく長くなりますが、ぞくっとするようないい文章。

作品のテーマともいえる部分です。

是非、全文ご堪能いただければ嬉しいです。

 

「ごめんくださいまし」と朝の火を持って行くと、なんどりは醒めてゐて、いきなり、「あんた色が白いねえ」と云ふ。

    (中略)

横になったまゝ細い手を出して紅い友禅の掛布團を一枚一枚はねておいて、片手を力にすっと半身を起すと同時に膝が縮んできて、それなり横坐りに起きかへる。

蒲團からからだを引きぬくやうに、あとの蒲團に寢皺も殘らないしっとりとした起きあがりかたをする。

藤色に白くしだれ櫻と青く柳とを置いた長襦袢に銀ねずの襟がかゝって、ふところが少し崩れ、青竹に白の一本獨鈷の伊達じめをゆるく卷いてゐる。

紅い色はどこにもないのに花やかである。

若くつくつてゐてももう老婆といふはずのひとの夜を考へさせられるのである。

なんと云ってもひとといっしょにゐる夜、ゐたい夜ではなからうと思ふが、それはしろうとの推察である。

この紅より色の深い紫の襦袢を著なした本體といふものには、およそ燃えるだけのものはすでに盡きてゐると見るのである。

過去の燃えた記憶しかあるまいけれど、いまもかうした風情のある寝起きなのである。

自分から迸 ( ほとばし ) る色氣ではなく、長年浸みてもう取れることのない技巧のなごりだとすれば、一生を通してこの附き味とはまたみごとなものだつた。

 

なんどりはすうつと蒲團のあひだへ手を入れると、二ツ折りの古風な懐中鏡をひらいてほつれ毛をなでつける。高速度寫眞のやうにスロー・モーションでなよやかに起きあがって、少しも急いた氣もちなどなく手鏡に髪を揃へる、――遠く薄れた記憶のなかに梨花にもさうした朝のあったことが思ひだされはするが、随分久しく美しく起きた朝がないまゝに過ぎたことか。

 

なんだってあんなにびっくりと飛び起きて竃 ( へっつい ) の下へかゞんだのか、なんだってあんなに澁々と起きて齒磨きもそこそこに食事を急いだのか。

 

ひきかへてこのとしよりは、おそらくこれまでいつの朝、どこで起きても誰がゐなくてもかうしてそこにもう一人人がゐるやうに、そしてその人を好いてでもゐるやうなしぐさで、ふたりの床からしなやかにからだを引抜き、音もなくまづ第一に髪を揃へて來つづけたのだらう、その違ひ。

 

「何をそんなに見てるの?」

「いえ、わたくし、今ひょいっとかう、・・・いつもあんまり自分がざっぱくない起きかたをしてゐるやうに思ったもんですから、羞しい氣がして、・・・むく起に起きたりのっけに憚 ( はばか ) りへ行ったり、ほんとに女らしいこなしなんてなかったんで、いまさら大變な損をしたやうな氣がしまして。」

 

 なんどりはふゝゝとをかしがった。

「さういふことを思ふのは、かはいさうにあんたもつまらなかったといふ証拠だし、もう一ツには、だからその埋合せにまだまだこれからおもしろいことが出て來る証拠でしょ。

なあに、赤いものがなくなってからまた一ト盛りがあるものなのよ。若いときはすることが夢中だから、半分以上は心にのこるものがなんにもないけれど、そこへ行くと中年からのおもしろさは、なにしろこちらが利口になつてるもの、心のかぎりに行き届いちまふから、みんな胸にのこるやうなことができるってわけね。

大っぴらで云ふのも變だけれど、寝起きなんかも柄がきまるのは中どしまでいゝ男に會へたかどうかがめとになるんだと、あたしは思ってるのさ。

・・・いっしょに旅行でもして見るとよくわかる。

大ねえさんと云はれるひとでも、いまあんたが云ふやうに見たくでもないざまでずっぽりと起きるひともあるし、しなはよくてもうまみのないひともゐるし、まあとにかくあたしは、惚れぼれさせて起きるもんだと聞かされてきたんだけど。

・・・でもあんたはほんとのまるだしのしろうとさんだね。

そ云っちゃ なんだけれど、眼のいゝしろうとさんだ。眼が新しいからこんなこと思ふにきまってゐるもの。」

 

 「流れる」新潮社 p.195より