Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

徳川慶喜の墓

御穏殿坂の再訪につづき、先日は時間がなくて行けなかったもうひとつの場所に行きます。

澁澤榮一さんに深く関係のある方のお墓。

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徳川慶喜の墓。

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徳川慶喜、最後の征夷大将軍です。

徳川慶喜 (1837~1913 ) は、水戸藩主 徳川斉昭の第七子で、はじめは一橋徳川家を継いで、後見職として将軍家茂を補佐しました。慶応2年 (1866 )正月に鳥羽伏見の戦いを起こして破れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。

 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年 ( 1898 ) には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇に謁見しています。明治35年 ( 1902 ) には公爵を受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年 ( 1913 ) 11月22日に77歳で没しました。

 お墓は、間口3.6m、奥行き4.9mの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1.7mの玉石畳の基壇を築き、その上は葺石円墳状を成しています。

 

徳川慶喜の墓だけがなぜここにあるのか。。。

そしてこのお墓の形もかなり変わっているので気になります。

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凄い。

徳川将軍の中で唯一、お墓が見られるなんて。

柵の間からのぞいてみる。

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しっかし、この石板、随分邪魔なところにあるわ。

墓の正面に立つと、右手の、奥方の墓石が隠れてしまう。

どうしたものなのか(笑)

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柵から投げ込まれているのはお榊です。

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慶喜さんは、徳川家で唯一の神道なんですって。

※ 徳川家康が東照宮というのは神道でもちょっと意味が違います。

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慶喜さんが宗旨替えをして「神道」になったことは、ボランティアのおじさまから聞きました。

「ちょっと前にね、門の前で30分もお経をあげている人がいたんですよ。

 困ってね~、で、教えてやりましたよ、ここは神道なんだよって」

おじさま、いつもここで説明されているようです。

 

でも、なんで慶喜さんだけ神道なんだろう。。。

おじさまに聞いてみたけど、そこらへんはスルーされちゃった。

どうやら興味の外みたい。

m(__)m 

何でも人に聞いて安直に済まそうとした私が悪かった。

はい。自分で調べます。

 

 

もうひとつ、おじさまから教えていただいた話。

徳川家の本当の字は「徳」ではなく「德」なんだそうです。

四の下に字が一本多い「德」の字。

墓石の字も「德」です。

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次から次へと、説明は続きます。

いいですね、おじさま、楽しそう。

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後記 )

徳川家の墓問題について、とてもわかりやすく解説されている方がいらっしゃいました。

アタシったら図書館や本で調べるんじゃなく、結局 人 (サイト) を頼ってしまいました。

たりきほんがーん m(__)m

ゴウさんのお陰で、慶喜さんが神道だったワケも、

他の将軍さんたちのお墓が増上寺だったり、寛永寺だったりするワケもわかりました。

 

 

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ゴウさんの記事にも出てきたお坊さん、天海さんというんですが、

この天台宗の高僧が徳川家の墓問題のキーマンになってることがわかりました。

 

先にお話した「御穏殿坂」に出てきた歴代の輪王寺宮にも、

この人が関わっとった。

輪王寺宮に親王や天皇の猶子をお迎えして継承してもらおうと

構想したのも、実はこの人だったのです。

凄くないですか? 徳川の菩提寺の住職を親王 ( 天皇の子供 ) にさせちまおうと言うんだから。

 

そもそも。

徳川家の菩提寺は浄土宗の増上寺だったんです。

それを、家康の側近として幕府にも深く関ってきた天海さん、この上の茶色い人ね。

この人が、家康、秀忠、家光を天台宗に宗旨替えさせちゃった。

 

家康の墓は、神格化させる目的で日光東照宮に神道として作りましたが、

それ以外の徳川家の殿様達の墓が、増上寺と寛永寺と、ごちゃごちゃになっちゃったのは、

天海さんのせい お陰?です。

以上の話の経緯は、ゴウさんの記事がとても分かりやすいので是非ご参照を⤵

歴代将軍の墓ってどこにある?徳川家の信仰と埋葬の謎を調べてたら夜が明けた。 | 調べてみた

本当にわかりやすくて、サクサク読めちゃいますから。

 

とにかくやり手の天海さんは、

なんだかんだで 寛永寺を上野に作って、その住職に親王を迎えてハクをつけて、

将軍の霊廟の半分を寛永寺に引っ張っちゃったんですから。

 

ああ、歴史のエピソードって、

学校で習う歴史は覚えにくいのに、なんだかこうやって紐解いてくと結構面白いです。

この時代って日本全体がガラっと様変わりしてしまった時代だから、

色々な人たちの考えが交錯していて興味深いです。

100年と経たない頃だから、資料も写真も豊富だし、こうして現存する場所を歩いたりしながら想像していくと、どんどんとのめりこんでしまいます。

 

今回は複雑な人間関係や、政治的かけひきに翻弄された慶喜が面白い。

御穏殿の最後の主 第十五世輪王寺宮 北白川宮能久親王も波乱の人生だったようですし。。。

どちらも調べたらもっと興味深いエピソードがどんどん出てきそうです。

 

こんなおもろい話もありました

例えば、鶯谷の名前の由来。

輪王寺宮 第3世の公弁法親王が、江戸の鶯が元気ないので、京都から美声で早鳴きの鶯を3,500羽取り寄せ、根岸の里に放鳥したことから鶯谷という地名になったとか。

 

能久親王はドイツに留学してた頃、ドイツ貴族の未亡人と婚約したけれど、日本政府の反対にあって ( 叱られて ) 破断になったとか。

 

最近になって澁澤榮一さんの遺品の中に、徳川慶喜公にあてた手紙が見つかった。

そこには、慶喜公が幕府軍主力部隊を大阪に残したまま軍艦開陽丸に乗って江戸へ帰還してしまったことに対して非難する内容が書かれてあったとか。

 

ここら辺、まだ100年かそこら前の話なので、資料も沢山あるし、

また何か面白そうな話があったら、メモしておきたいと思います。