桂浜の裏手に坂本龍馬記念館があると知り、やってきました。
建物の前には龍馬の大きな銅像「シェイクハンド龍馬」があります。
「心をつなごう」シェイクハンドぜよ
銅像の前まではバリアフリーになっていて、龍馬とシェイクハンド出来るようになっている。
ブロンズの右手の部分がテカテカ。
龍馬さん何人の人とシェイクハンドしたんだろう。
( 私もシェイクハンドさせてもらいましたが、自撮り嫌いなので写真はなし )
館内は、おおむね撮影可能。
これは有名な和歌
「世の人は われをなにとも ゆはゞいへ
わがなすことは われのみぞしる」
筆まめで、コミュニケーション能力が高く、誰とでも仲良くなっちゃうイメージの龍馬さんですが、
そんな人が言う「わがなすことは われのみぞしる」は 染みます。
これは龍馬さんの着物 ( レプリカ ) の説明書きです。
龍馬の着用と伝えられる紋服は、近江屋に1点残されており、
昭和15 ( 1940 ) 年に京都国立博物館へ寄贈された。
黒地羽二重の紋服。着丈149㎝、袖丈50㎝、裄丈65.5㎝。
家紋は坂本家の家紋で、組合い角に桔梗紋。
龍馬の身長については、3人の証言が残っており、
5尺7寸 ( 173㎝ ) 、5尺8寸 ( 176㎝ ) 、5尺9寸 ( 179㎝ ) と微妙に違う。
紋服の肩幅から考えると、5尺7寸が近いが、裄丈から考えると、5尺9寸が近い。
江戸時代、栄養バランスが悪かった日本人の平均身長は、男性155㎝、女性145㎝といわれます。
幕末以降、栄養状態が良くなっていったといえ、身長が飛躍的に伸びることもなかったでしょう。
そうなると
龍馬の173㎝ ( もしくは179㎝ ) というのはかなり大きい人だったと言えます。
でも。。。龍馬だけではない。
大久保利通が183㎝。西郷隆盛が178㎝。佐久間象山が186㎝。山岡鉄舟は188㎝と言われています。
幕末の志士たちに巨人が多かったんです。
しかし、長州の高杉晋作が158㎝。伊藤博文は159㎝。2人は平均身長でした。
平均身長といっても、武士階級ともっと身分の低い人とのそれでは差があったのかも知れません。
先に記した志士たちの身長も諸説あり、正確なことはわかりませんし、
藩単位に高いの低いのというのは強引です。
しかし、江戸時代は身分制度や貧富の差、土地柄や環境は食料事情に大きく影響しますから、
体格に反映することもあるでしょう。
龍馬は下士の子
坂本龍馬は名門の出ではありません。
土佐藩は他藩に比べて武士の階級制度が厳しかったそうです。
藩主を頂上に、上士 、下士、地下浪人と別れています。
上士、下士もさらに細分化されていて、
上士 ( 参政・家老・家老格・上席中老・下席馬廻・新馬廻・上席小姓組・下席留守居組・新留守居組 )、
下士 ( 白札・郷士・徒士・徒士格・下席組外・古足軽・足軽・下足軽・庄屋 ) と格付けがある。
因みに、坂本龍馬は下士の郷士という格づけの家柄。岡田以蔵も郷士。
その頃の藩主は山内容堂。上士 家老職は、吉田東洋・後藤象二郎でした。
龍馬と一緒に活躍した武市半平太は、龍馬のひとつ上、下士の白札で、
中原慎太郎は、下士の一番下の庄屋の出。
岩崎弥太郎は当初、地下浪人からのし上がっていったらしい。
参考資料:: 土佐藩の階級制度 | 坂本龍馬人物伝
下士は差別が多かった
上士 | ⇔ | 下士 |
下駄 ( 雨の日は高下駄 ) | ⇔ | 草履 ( 雨でも晴れでも下駄・足袋は禁止 ) |
絹の着物 | ⇔ | 綿の着物 |
城郭に居住をかまえる | ⇔ | 城郭外に住まなければならない |
更にこんな厳しい差別も
・下士は上士に対して頭を下げて道を譲る
・上士は下士に対して「切り捨て御免」
勿論 上士と下士同士の結婚の不可です。
こんな理不尽な時代だもの。
脱藩したくもなるだろうし、《日本を洗濯》したくなるでしょう。
通称「せんたくの手紙」
記念館にも複写が展示されていました。
これは文久3 ( 1863 ) 年6月29日に姉、乙女宛に書いたものです。
「日本 ( ニッポン ) を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべく・・・」という有名なフレーズですが、
龍馬の認識が藩ではなく、日本全体にあることが面白い。
既に彼の頭の中には、藩がどうのというレベルではなかったのです。
筆まめ
龍馬さんは筆まめで有名です。
記念館には、龍馬の手紙 ( 複製 ) が沢山展示されていました。
手紙には翻刻文と、さらに現代語訳がついていて、読み比べると面白い。
個人的には、武市半平太が妻にあてた手紙や、
奉行所の役人が書いた、寺田屋事件の報告書が興味深かったです。
何時間、いえ、何日あったも見足りない
ひとことに《記念館》といっても、その規模は様々です。
ただ同じ展示物が何年も放置されているような所もあったり、創意工夫のない記念館もある。
一度行けば「もういいや」と思わせる薄い記念館も確かにありますが、
坂本龍馬記念館は意気込みが違います。
流石、県をあげての取り組みです。
所蔵品は豊富でしょうし、時期に合わせて企画展示していくだろうから、キリなく楽しめるハズ。
図書コーナーもある
文字資料だけでなく、
見るだけで楽しい空間や遊びも豊富です。
幕末の藩士たちがボードになっていて、龍馬のコメントが書いてあったり。。。
これが圧巻⤵
「龍馬の文字で名刺を作ろう」というコーナーです。
三種類の名刺の紙があって、
龍馬の字 ( ひらがな ) がシールになっている。
レイアウトは自由。
名刺作成に枚数制限はないようです。
こんなの作ってみました ⤵
坂本龍馬記念館が建っているのは、浦戸城跡なんですって。
浦戸城は、山内一豊が土佐を与えられた時、最初に住んだ城。
手狭だということで、一豊は高知城を改築してそっちに移り、廃城となったんだそうです。
下士の身分の龍馬の記念館が、藩主-山内豊信( 15代藩主 ) 容堂公のルーツであるお城跡にあるなんて。
お殿様の城跡にですよ、凄く複雑な気分になったのは私だけでしょうか。
海のみえるギャラリー
太平洋が一望できる。
何時間いても飽きない景色です。
有名な龍馬の写真もありました。
よくわかんないけど、この隣に立って写真撮ってもいいのかな?
幕末の面白さは、写真が残っていること。
これは坂本家の家族写真ですって。
おりょうさんの写真はコチラでした。
うーん、やっぱりこれじゃ可哀そう。
だってこれは最晩年の写真でしょう?
おりょうといえば、私はこの写真だと教えられてきました。
でも近年これが「おりょうではなく別人の写真だった」と判明した。
記念館では、晩年のおばあちゃんの写真を《おりょう》として展示してましたが、
やっぱり私は、若い《おりょうと言われた》写真がいいなあ。
おりょうと龍馬が結婚期間は、なんと3年だった
晩年の写真は、坂本龍馬の妻ではなく、西村松兵衛の妻ですから、
それを、龍馬の写真と並べられても、しっくりいかないのです。
※ 坂本龍馬記念館では、今までのおりょうと言われてきたこの写真と、晩年の写真を
科警研に鑑定を依頼して、若い写真と晩年は同一人物という検査結果を得たらしい。
しかし、その後の様々な所の鑑定や実証に《やはり別人》ということになった。
色々考えさせられ、興味もわき起こされ、坂本龍馬のことをもっと調べてみたくなる、
そんなキッカケをもらえた記念館。
機会があれば、また訪れてみたいと思います。
建築もシャープで斬新で、素晴らしかったです。
とじこみは、わたしたち夫婦の「竜馬について」の内緒話 ⤵
「坂本龍馬がそんなに人気者の理由がイマイチわからないんだ」
MOURI ダメダメ、そんなことを高知県で言ったらぶっ飛ばされちゃうよ。
そういう話、するならお家でするの。
わかる、わかりますよ少しは。
明確に「坂本龍馬が人々にウケるワケ」を説明できる人は何人いるでしょう。
志半ばで倒れたヒーローというだけで、そんなにいつまでも人気者でいられるのか。
ジェームス・ディーンや赤木圭一郎みたいな、、、若くして亡くならなかったら
彼らはどんな人でいただろう。
と思う半面、若くして亡くなったから色褪せないのであって、
ずっと普通に生きていたら、ずっと凄い二枚目で、凄い役者のまま人気を博していたかはわからない。
ごめんなさい。
そんな個人的な想像と一緒くたにしたら、それこそ土佐の人ばかりか全国の竜馬ファンから叱られてしまう。
何年か前に、NHKの大河で「竜馬伝」も放送されましたし、
幕末の志士の中で一番有名で一番語られているであろうはずなのに、
やはり《もし竜馬という人が生きていたら》という気になってしまう。
竜馬のやったことって何?
薩長同盟を成功させたこと。その立役者。
勝海舟に師事して、海援隊を作って、貿易会社を作って、これからの日本を諸外国に負けないようにと頑張った人。
先見の目ありといっても、商売人としての素質が一番あった人だと思いますの。
商売人というと「イメージが違う」と言う人もいるだろうけど、
私は、商売人にとってはそろばん勘定より、人たらしであることが大事だと思う。
人間力が豊かでチャーミングじゃないと人の心は動かない。
竜馬という人は、きっとそういう人だったと思うのです。
もし竜馬が凶刀に倒れることなく生き延びたら、彼は政治家の道を選ぶというより、
岩崎弥太郎のような実業家として成功をおさめていたんじゃないかと思います。
坂本財閥。
うーん、そう言われる前に、アメリカででっかい事業をしていたかも。。。なんて。