旧友との再開を果たした広島の夜から一夜明け、
そろそろ東に向かって移動する日となりました。
しかし。
広島から東京まで運転するのはきつい。
途中どこかでもう一泊して帰ることにします。
本日は雨模様。
高速をひた走るにしてもドシャ降りの中、ゆっくり運転する必要があるので、早めに移動するしことにして、
広島は、広島平和記念資料館だけは見学することにしました。
まずは朝食
REIホテルの朝食は、松山よりはシンプルな品揃えでした。
ずっと日本食のメニューにしましたが、珍しく洋食バージョンにしました⤵
たらふく食べた昨日までを考えたら丁度良い。
スクランブルエッグは、松山のREIホテル同様その場で作ってくださったもの。
広島平和記念資料館は中学の修学旅行で訪れたことがあります。
40何年前は多感な時期でしたので、凄惨な写真や遺品の前で声もなく佇んだ記憶しかありません。
当時受け止めきれなかった想いが、大人になってどのように感じられるのか。
MOURI は初めての来館とのこと、どのような感想をいだくのか・・・。
資料館は、ホテルから車で5分の距離にありました。
近隣のコインパーキングに車を停めて向かいます。
↑ 中央に見えるのが本館です。
現在改装中で、展示は右隣の東館で開催されているとのこと。
リニューアルオープンは来年の予定とのことですけれど、
なんでも建物の下から遺跡がみつかりオープンが遅れているのだそうな。
東館の3階が常設展示室の入り口
「失われた人々の暮らし」と書かれた入口の手前には、
原爆が投下される前の広島の街や、学校の子供たちの写真がありました。
1945年8月6日 8時15分
アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した時刻です。
市内のホワイトパノラマ
まず目を引いたのは、直径5mのホワイトパノラマ。
そこにはCGで再現された被爆前後の街の様子が映し出されます⤵
従来も被爆地域を中心にしたパノラマの投下前と投下後の写真がありましたが、
一瞬にして広島が崩壊したという状況は表現しきれていなかったといいます。
今回、東館にあったホワイトパノラマでは、原爆が《一瞬》だったことがわかります。
原爆ドームの模型 投下前と投下後
資料館の情報は厚くて深い
こちらが通常のパネル形式の資料です。
こちらはメディアテーブル ( 大型検索装置 ) です。
パネルで解説された情報をモニターで検索し、
それぞれのモニターでゆっくり閲覧できる仕組みになっています。
こちらも「広島の歩み」のブースにあるメディアテーブル ( 大型情報検索装置 )
パネル表示に手をあてるだけで、項目が開いたり閉じたり、自分のテンポで自分の見たい順番に内容を見ていくことが出来ます。
メディアテーブルは、パネルと違って車いすの方にも見やすく操作しやすい高さになっています。
展示室は3階から回廊を周りながら降りる形になっていました。
これは一階の展示室にあった三輪車です。
三輪車は、被爆後40年経って掘り出し、ご両親が保管していたものが
昭和60年に広島平和記念資料館に寄贈されたものだそうです。
伸ちゃんの三輪車
被爆したところ:東白島
爆心地から約1,500m
銕谷信男さん寄贈
銕谷信男さんの長男 ( 伸一ちゃん-当時3歳11ヶ月 ) は、東白島町の自宅前で、三輪車に乗って遊んでいるときに被爆しました。全身にやけどを負い、その夜死亡しました。
翌日自宅焼け跡で長女路子ちゃん ( 当時7歳 ) 、次女洋子ちゃん ( 当時1歳 ) の遺骨を見つけた信男さんは、伸一ちゃんの遺体を焼く気になれず、一緒に遊んで死んだ近所の女の子と手をつながせ、焼け焦げた三輪車と共に庭に埋葬しました。
その後、被爆40年目に墓所に移す決心をして掘り起こし、葬式をしました。
一階の資料室には、この他にも数多くの遺品や写真が展示されていました。
千切れた洋服や黒こげの弁当箱、飴のようにひしゃげたガラス瓶など、どれを見ても原爆の熱風のすさまじさがわかりました。
そして、品物のひとつひとつに所有者がいて、
そのひとりひとりに生活があったこともあらためて認識できました。
それが一瞬のうちに無くなり苦しみに変わったのです。
広島平和記念資料館では今も資料寄贈の呼びかけをしているとのことです。
戦争を忘れないという気持ちは、私たち一人ひとりが受け止め、持ち続けなければいけないこということを、あらためて思いました。
そして。
広島に来て、厳島神社や原爆資料館で欧米人が大変多いことに気がつきました。
アジア人の観光客がとても少ないのに比べて。
デイリー新潮さんのサイトによると、
広島に来る外国人観光客はあきらかに他の都道府県と異なるようです。
以下がその内訳です⤵
2014年の訪日外国人客は1341万人。
地域別のシェアは中国、韓国などのアジア地域が81%、次いで米国・カナダなどの米州が9%、欧州が8%、オセアニアが3%。
ところが、同年の広島市への外国人観光客は約66万人。
地域別でトップだったアジアの28%が、2位の米州26%、3位の欧州も25%と肩を並べる。
国別のトップは米国の13万人で、広島は圧倒的に「欧米人が来る街」
出典元:デイリー新潮 ⤵
雨にけむる原爆ドーム
昨日までの好天からうって代わり肌寒い広島でした。
原爆慰霊碑から見える原爆ドーム
ここでも傘を手にした欧米人が祈りをささげていました。
アメリカ人の多くは、原子爆弾の投下を「戦争を終わらせるために必要な手段」という意識を持っていると聞きました。
しかし。
戦争を終わらせるため日本に原爆を落としたことを正当化するアメリカ人に対して、
たった3日後に長崎にまで二つ目の原爆を落とす必要があったのか、と問えば、「そこはおかしい」と思う人はいるらしい。
原爆に対する意識改革は、被爆国からの訴えで変わるものではありません。
《戦争》という論点でいえば双方に言い分があり、核の問題はないまぜになってしまいます。
どちらが先とかどちらが悪いではなく、、、竹槍ならOKで核はNGではなく、
お互いが考える必要があるのではないでしょうか。
「自分がこうしなければ戦いは起こらなかった」と。
太平洋戦争についても日本人は、
「戦争そのものが悪かった、もう二度と戦争はしない」という語り口をよくします、
かくいう私も似たり寄ったりのそのひとりです。
そんな私ですが広島に来て、原爆死没者慰霊碑の碑文を見て、ある違和感を感じました。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
違和感の理由は、そこに主語がなかったからです。
原爆に限っていえば、誤解を恐れずに言えば「過ちは繰り返しません」の主語はトルーマンなのかしらと思います。
しかしこの碑の前に立てば《全ての人が過ちを犯さない》という祈りを込めているから主語がない。
それが正解なのだと想います。
主語をはぶくのは日本の文化でしょうが、外国では違います。
まして戦争について考える時には、自分がどう考えるか、何が出来るかをハッキリ示す必要があるように思います。
以前テレビで、ドイツ人がこんな風に言っていることを知りました。
・ドイツのランメルト議長は、
「ヒトラーは、偶然権力を取ったのではない。彼を選んだドイツ国民にも、責任がある」と訴えた。
・ドイツ人の多くは、ナチスの問題を《国の負の遺産》として受け止めている。
そしてナチスのことを「私の国の罪」と認識している。
と。
ドイツ人が《私の国》と、ハッキリと自分を主語にしているのに比べ、
日本人が自分をあいまいにしたままで「戦争はしませんから」という違いを感じました。
広島平和記念館を見学して、
自分自身を脇において《平和》や《戦争》を語ることだけはせずに生きていこうと思いました。
まだまだ自分自身で何か出来るかはわかりませんけれど。