Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

寿衛さんの待合があったころの荒木山

 

 NHKの朝ドラマ『らんまん』のモデル牧野富太郎の妻・寿衛が渋谷で商売を始めた、

という話は以前したけれど、その当時の円山町 ( 荒木山 ) のことがよくわかる資料を見つけたのでアップしました。件の「郷土渋谷の百年百話」は、編者の加藤一郎さんが自分で調べたことに加え、多くの古老のお話と郷土資料をまとめて一冊にしたもの。

この中にあった「渋谷花柳界発祥のころ」は、具体的に店名などが書かれた興味深いものだった。

 

渋谷花柳界発祥のころ

明治二十 ( 1887 ) 年頃に遊芸師匠の鑑札をもって、流し義太夫をやっていた人が、弘法湯の前に「宝塚」の看板をあげたのが、そも始まりで、次いで今の見番近くに林家と、青山七丁目の寄席二山亭の東家あづまやと三軒で組合をつくり組合金を出さなければ芸妓営業は始められないといあ掟であった処へ「千代本」がこの掟を無視して、新橋から客に不都合のあった「赤筋」を連れて営業を始めた。

道玄坂上交番の荒木山入口の右側に看板をあげて、前からの三軒に対抗して、二つ巴で争ったが、在来の芸妓は五人しかいないのに、千代本では十六人もいたので、之では太刀打ちにならない。

明治二十三年から四年に、その争いも終わり、組合もなくなり、妥協が成立、玉祝儀が定まった。玉代、大が一時間三十銭、半玉二十銭、祝儀は大五十銭、半玉三十銭と定めた。祝儀は他で三十銭出すなら当方は五十銭、先方が五十銭なら此方は一円という具合で、時には十円も十五円も出ることがあった。客が多くて呼ぶ芸者の数が少なく、客が芸妓を正座に座らせて、お客が芸妓にサービスするという場面もあったという。

 

その頃の料理屋には宮益の魚惣と恵比寿橋際のエビスビールの恵比寿館 ( これは明治四十年頃-編者 ) と二軒が開けはじめの頃の遠出のお座敷であった。それから神泉谷の弘法湯の低い処の水溜りを利用して、これを庭に取入れた新川屋という料理旅館が出来、近くに近江屋が出来て、徐々に花街地化した。

 

日清戦争の終わった明治二十九 ( 1895 ) 年頃に富士横丁が開け始めた。松風 ( 今次戦災まであった ) の隣に「文の家」というのが、この辺りの元祖で、それから「松風」の処へ菊水 ( これは高砂屋の主人が始めた ) が出来てこの方面も漸々花街地化したのである。つまり富士横丁から道玄坂上を横切って神泉谷までの両側に帯のような花街地が開け、五六十軒の芸妓屋、料理屋が出来た時に、さて次の発展地は海江田山 ( 桜ヶ丘 ) か荒木山かと問題が起こった。

 

当時の荒木山は、荒木寅太郎の所有地で小さい破れ家とあとは藪だけ、海江田山も、その名のとおり、一体藪や林があって点々と住宅があった位で、どちらにしても淋しい処であった。が荒木山の方は位置の上からも便利であったから、どうしてもこの方面に発展して行き、ポツリ、ポツリ、一軒二軒と芸妓屋が殖えてゆく。そこへ日露戦争 ( 1903~4 ) 後世田谷付近に軍隊が設置され、御用商人が来るという具合いで、花柳界にもこれが影響して、荒木山も富士横丁も繁昌して来た。

 

丁度明治四十四年から大正元年にかけて待合の許可を出願する議が起こると、荒木山か海江田にするで大問題になった時、木村次郎右衛門が大いに運動して、荒木山側が勝ち許可地となると、という忽ち待合が出来る。需要に応じ芸妓屋もこの方面に、どしどし生まれる。これにともなって料理屋も殖える。これに先立つ、明治三十一年に芸妓屋組合が出来て三十六年九月には料理屋組合も出来た。それにつれて道玄坂から坂上にかけて商家は繁昌するようになるし、三拍子も四拍子も揃っての繁栄ぶりである。

 

大正八年二月には、料理、待合、芸妓と三者一体の渋谷三業株式会社が創立されて堂々たる一花柳街となり、東京のそれに比して、いささかの遜色ないまでに進歩したものになった。その数は大正十一年に料理屋三十九軒、待合が九十七軒、芸妓屋が百四十六軒、ここに働く芸妓数は大小合わせて約三百六十人という大発展は昔の渋谷村、また幾分開けた渋谷町初期時代から考えれば全く予想外である。

加藤一郎 編著『郷土渋谷の百年百話』第54話 渋谷花柳界発祥のころ p.306より

 

寿衛さんが「待合 いまむら」を開いたのは1921年 ( 大正10年 )

ということは、ここに記述されている「待合が九十七軒」の内の一軒が「いまむら」だということ。

なんだか、こういうことでワクワクしてしまう。わたし。

 

 

明治四十四年の地図

赤丸で囲った場所677、681が弘法湯と神泉館があった場所。

 

弘法湯 明治44年の写真

下の写真のどんつきが弘法湯の入り口と思われる。

左側が神泉館があったと思われる場所

神泉館

 

 

「らんまん」の寿恵子が始めた待合茶屋の屋号「山桃(やまもも)」は、愛のメッセージ | 社会科関連徒然語り

 

 

 

 

 

 

本日の昼ごはん

二日前から味噌に漬け込んでおいた銀だらを焼きます

 

じゃーん ご飯がすすむくんたちが並んだ並んだ

美味しいからといって、ご飯を何倍もお代わりしたら大変なことになる。

白いご飯は、ちびちび食べて、一膳半に抑えました。

 

 

本日の夜ごはん

「あら?この玉子、黄身がない」と思ったら、奥に潜り込んでいました。

 

ここで、昨夜お預けにした南蛮漬け

やっぱり、温かいよりもキリっと冷やした方が美味しいと私は思う。

 

ちょっと綺麗な一品は思いついてつくったもの

はんぺんをバター焼きして明太子 ( マヨを足したもの ) を乗せた。

緑の葉っぱは、イタリアンパセリ

 

〆は、朝の残りご飯をおにぎりにしたもの。

鮭とおかかを混ぜ込んだものに、

本日と届いたラー油をかけたら、あらまあ美味し でした