Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

幸田文『濃紺』を再読

『台所のおと』は、私がこよなく愛する本です。

それぞれの短編の素晴らしさに圧倒され感動したのですが、ずっと紹介できずにいました。

素晴らしいところを抜粋しようと何度か試みましたが、ここもあそこもと全部が捨てがたく、

全文書き写してしまいそうだからです。 

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そんな名作集の中から、

 kankeijowboneさんが「濃淡」を紹介されていました。


それを読んで、もう一度再読してみたくなりました。

初めて読んだ時は、タイトルにもなっている短編「台所のおと」の動的感動作に意識が奪われ、

影にかくれた存在でした。

しかし、今回読み直してみて、その静かな表現力に圧倒されました。

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「濃淡」は くせ(ゝゝ)のある下駄の話です

主人公のきよは6年前に夫を見送ったあと、息子 娘が心配するのを、手に和裁という職があるから自分の

身じんまくは自分でする、と一人住みを続けている。

 

十代の頃より ひいきにしてくれる呉服屋さんが、割のよい仕事をまわしてくれるから収入もある。

月曜日から土曜の正午までみっちりと働き、五日半の緊張をほぐすのに、土曜日の午後、

息子のところでくつろぐのが習慣になっている。

 

ある日栗ご飯にするからと引き留められ、きよもゆっくりするつもりで栗むきを手伝っていると

孫たちが口喧嘩をはじめた。

妹の方が「なぜ下駄屋さんを下駄店といわずに《おはきもの》と書くのか」ときいたのが

喧嘩のもとだった。

「今はもう下駄ははかないから時代に合わないさ、ぞうり店でもセンスわるいし、

 だからおはきものなんだ」という兄に、納得のいかない妹は

「じゃなんで靴屋は靴店でいいのか」と逆らっている。

喧嘩の上で孫が『今はもう下駄は履くひとはいないもの』といったひと言が不意に胸にしみ、

三十年も以前の回想のなかに引き込まれ栗をむく手を止めてしまった。

 

こんな感じの書き出しで、きよは三十年も前の回想に引き込まれていきます。

 

きよは押し入れの行李のわきに仕舞こんである濃紺のはな緒をすげて、小粋な下駄を思い出し

「出して履こう」と思った。

 

十九歳のきよは、もうすぐれたお針子で、家の支えになっていた。仕立て代はそっくり母に渡したが、

時折呉服屋のおかみさんがくれる心付けが小遣いになった。

きよはそれで下駄を買うのが楽しみだった。

隣町に品が豊富で、応対の静かな店があった。品が多いから選みがきいて、買いやすい店だ。

ある日そこに青年がいた。どこの店でも中級品以下は、主人ではなく店員が扱う。

その人は一度できよの好みを覚えてくれ、二度目に行った時には黙っていたのにはな緒の締めぐあいを

ぴたりにしてくれた。

 

物語は小気味の良いテンポで進みます。

下駄屋の青年が故郷へ帰ることになり、きよは彼からくせ(ゝゝ)のある下駄をプレゼントされます。

そのくせ(ゝゝ)というのが、凄いんです。

下駄を履きなれた人でなければわからないようなもので、作者の描く下駄の様子が細かくて大変面白い。

その部分、ちょっと読んでみてください。

なるほど、それは歯に当たるあたりに、二段のくせ(ゝゝ)があった。

おそらく根に近い、土ぎわの部分の材であり、そう木取るよりほかない材だったとしか思えぬ。

はけばそう目立たないから、そそっかしい人は、なんと贅沢なのをはいてるのかとほめる。

そうなるとどうしても一言そのあら(ゝゝ)を話さずにはいられないし、あら(ゝゝ)をあばけば下駄にもその人にもうしろめたい。

へんな感じだった。

それに正直いうと、あるく当りがあまり柔らかい下駄ではなかった。

土の上を歩くと、土も下駄も両方固いという触感があり、固いもの同士がぶつかり合って、なにか足が難儀だという気がした。

はきにくいとはいわないが、軽快でらくというのではなかった。

きよはしみじみ思った。

下駄というのは、はいた時の気持ちよさと、脱いだ時の見付きのよさと、二つながら備わることが肝心だ、と。

「履いた時の気持ち良さ、脱いだ時の見付きの良さ と二つながら備わることが肝心」

とは、、、いやはや、おそれいりました、参りました。

 

確かに、お洒落は足元からと言いますし、文中にも

「下町では化粧より髪より着物より、足を美しく、足もとをすずやかにという風俗が、

 根強く受け継がれていた。」とあります。

 

ではその風俗は今も残っているでしょうか。

私たちが行き来する道路はアルファルトの固い道、下駄では歯が一日でボロボロになってしまいます。

革靴や運動靴を修繕して履くより、安くて見栄えの良いのを短いスパンで履き替えるのが普通でしょう。

そんな日常に慣れてしまった私は、

昔の人が下駄の感触や履き心地に対してこんなにも繊細で鋭敏な感覚を持っているのに驚きました。

もしかしたらその敏感さは《昔の人》ではなく《幸田文という人》なのかも知れないけれど。

 

これは ⤵ 明治期の横浜で撮られたもので、下駄職人が歯つぎをしている写真です。

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天秤棒や道具箱も写っているので、町を歩き回って道端で仕事をしていたものと思われます。

 

下駄が廃れた今ではこんな職人さんもいなくなりました。

このように、物を大事に扱うということが日常だった昔を、しみじみ考えさせられる写真です。

 

きよの下駄は、歯が擦り減ると修理に出されました。

そのくだりがこんな様子でつづられています。

たしかに歯は減りがおそく長もちした。はき捨てるのは惜しく、近所の歯つぎへ持っていった。

するとおやじさんは見るなり、ほうと声をあげ、珍しい下駄だといった。

そして新品のように仕上げて、この歯は俺でないと継げないよ、と自慢した。

柾のつまったくせ(ゝゝ)木が継いであった。

そのつぎ禿()びた時、そのおやじはもういなくて、他の人に頼んだ。

その人も目をみはって、やりにくい仕事だがためしましょうといい、

同じように自慢じゃないがほかじゃ出来まいと笑った。

 

くせのあるひとつの下駄の良さを十分にわかって履き続ける主人公と、

歯を継ぐ職人との小気味良い話に胸がすっとなる作品でした。

「濃淡」は7ページほどの短編です。

好きな部分を抜き出して紹介したいと思ったら、あれもこれもと全文書いてしまいそうという気持ち、わかっていただけます?

本当に、

下駄だけでもこれほど表現できるとは、、、いやはや幸田文は素晴らしい。

 

台所のおと (講談社文庫)

台所のおと (講談社文庫)