Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

郡司伯父さんと幸田文

 

言問団子の店の前に、こんな立て看板がありました。

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「郡司大尉千嶋占守嶋遠征隅田川出艇之實況」歌川小国政画と書いてあります。

 

まあ嬉しい。

また興味のあるものと興味のある場所が繋がりました。

「そうか、幸田文の伯父さんは、ここから千島に出航したのか」と。

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ちょっとその話をする前に、説明をしておきますと、、、、

幸田露伴は、兄弟姉妹も有名人なんです。

長兄の成常 ( しげつね ) は実業方面で活躍した方。相模紡績の社長さん。

二番目の兄、郡司成忠 ( しげただ ) が写真の人。冒険家で北方領土の問題に憂いていた軍人さんでした。

すぐ下の-と末妹-は、音楽の道に進み、ヴァイオリンとピアノで身をたてます。姉妹は洋楽教育の先駆者だったそうで、延は兄-露伴とともに芸術院会員に、幸に至っては、女性初の文化功労者になった人物でした。

また、弟の成友 ( しげとも ) は近世経済史と日欧通交史関連の大家と、これまた凄い文学博士だったんですって。

 

そんなすっごい兄弟の中で、何故 成忠さんだけ「郡司」を名乗っているかというと、

父である幸田成延 ( しげのぶ ) は、江戸城の表坊主 ( 士族 ) で、同僚の軍事家の当主が急逝し、家名断絶の危機に瀕した時に自分の息子を養子にやったんですって。ところが明治維新で養子が無意味になり、成忠は「郡司姓」のまま幸田家の戻ったというのです。

 

郡司 ( 成忠 ) 露伴 ( 幸田成行 ) は七歳違いだが、弟の成友も含めて兄弟仲は非常に良かったそうです。

そもそも露伴が向島に居を構えたのも、郡司兄が住んでいたから。

ただ同じ兄弟でも生活様式は全然違ったそうです。

幸田文の娘-青木玉さんは、こう語っています。

郡司の伯父さんの家はすごく開放的で、活気があって、大まかで家族も他人もみんな一緒みたいなところがあった。大きな食堂で皆で気楽にご飯を食べる。露伴先生の家はひとりひとりのお膳で決まった形で食べる。厳しい父がいて、義理の母親がいて、母と一郎 ( 成豊 ) さんが座っている。

それぞれ個が座っているという感じね。だから母の目から見ると、郡司の伯父さんの家は大家族の賑やかさがあって、羨ましかったようですよ。『北愁』に出てくるのは郡司の家なんです。

「東京人」 1996年1月号「記憶のなかの幸田一族」より

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青木玉さんは、郡司家と幸田露伴家の子供たちのことでこんなことも語っています。

郡司の伯父は、うちの母--女の子のくせに無茶苦茶に強い文子というのを面白がるのね。そして祖父 ( 露伴 ) は郡司の二番目の息子で千早さんという人をとても愛していたんです。千早さんという方は、人柄は穏やかでまことに細かくものをよく理解する人だったそうです。

 千早さんは伯父のあとをついで魚とりになって、鮭を追っかける。そういうことにおよそ不向きな男が荒れた海で鮭をとって父親を助けるわけです。家の祖父はその男をとても愛して肩入れをする。伯父さんのほうは、千早さんは性格はいいんだけれども体もあまり丈夫でないし気質も穏やかで、そこのところうちの母は強いでしょう、だから、文子の強さが千早にあればと、無いものねだり。祖父のほうは、千早のああいうものがうちの子にあればと(笑)。親類ってそういうものですよね。よその子どもはよく見える。

「東京人」 1996年1月号「記憶のなかの幸田一族」より

 

郡司伯父が幸田文を可愛がったという話は、文が書いた「夕日と鮭」というエッセーでも伺えます。著作権の問題があるから全文は書けないけど、面白いところを抜粋します。

伯父のことは一葉さんの日記には書かれている。(中略) 明治二十六年のことなのである。いまはなおのこと、郡司を知る人は少なくなっている。伯父は当時、外国の密漁船が占守島付近に出没して漁場を荒らすのを憤慨し、防備と資源開発を志し、百何十人の同士とともに千島永住を企て、隅田川から端艇で出発した人なのである。

 

なるほど、その時の絵が、「郡司大尉千嶋占守嶋遠征隅田川出艇之實況」だったワケですね。

「千島探檢の事朕深く其必要を認め曩に侍從を派して其略を得大いに思ふ所ありき今や汝等奮起して移住拓植の擧あるを聞き朕深く其志を嘉みし其資を與ふ汝等能く朕が意を體して堪志勉勵せよ 宮内大臣從二位勲一等子爵土方 久元」って、

明治天皇の詔勅が発せられたんですもの。

隅田川の河岸は人波で埋まり、空には花火、歓呼と喝采の響きがこだまする大変な騒ぎの中の出発だったわけです。

 

 たしか私は九つか十だった。そのころ私たちは向島に住んでいたが、伯父が父を訪ねて来た。あいにく父はしごとで、それを待つ間伯父は一ト風呂浴び、父の格子のゆかたに着替えた。たけがちと短く足が出ていて、その姿で私と弟を連れて近所へ散歩に行った。向島は植木屋が多い土地で、植木屋は大抵前庭をきれいに植えこんで、石など上手に配している。

     (中略)

 私はそれが好きだった。それで植木屋の前へ来たとき、大好きだと言った。伯父が「植木屋へ嫁にやるぞ」と言う。私は、植木屋は好きでもお嫁はいやだと返すと、伯父は足をとめて私をしみじみのように覗いて、「植木屋は好きでもお嫁はいやか。お前は大きくなっても、そういうようにはっきりしていればいいんだが――」と言った。

  

ちょっと脱線しますが「言問だんご」の創業者-外山佐吉さんも植木屋で、手製の団子を振る舞う「植佐」という団子屋を開いたんですって。それが花見客や渡船客の間で人気になった。

 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都鳥 我想ふ人は ありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は「植佐」を「言問団子」と変え、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。それがルーツで、現在の言問橋や言問通りの名称になったんだそうです。

 

文の回想は続きます。

 それから植木屋を過ぎて、大川端へ出、言問の艇庫の桟橋の、水のひたひたするところへ降りた。子供には固く禁じられている場所だから、伯父のいることが嬉しかった。川の低さから見ると、土手も桜の木も川波も、大船小舟、舟の上の人、みな夕陽できらきらと光ったり、まっ黒に見えたりする。そして伯父は白いゆかたで、まっ赤な人に見えた。顔も胸も手足も陽に赤く染まって、川下へ向いてじいっと立っていた。

 

 私はつまらなくなった。川も舟も伯父といっしょに不機嫌になったみたいだからである。でも、それから伯父はさかんに話しだして、白夜のこと、氷やあらしのこと、鮭・鱈・蟹のこと、とうとう向島名物の蚊が出て来た。

「お前は船乗りへ嫁に行かないか」と言う。私は随分たのしい話を聴かされたあとだから「行く」と言うと、あっはっはと笑われた。

  

世に名を残すのに一番手っ取り早いのは書いた物が残るということ。

そういう意味では露伴が記録に残る人なわけです。

残念ながら音楽家であった延さんと幸さんは音源が残らなければ分が悪い。

郡司さんの場合、作品という形で残らなくても、エピソードや業績の面で人々の記憶に残る大人物です。

 

「夕日と鮭」の中にもありましたが、紅鮭の別名をグンジベニというそうですが、これは郡司伯父さんの名が被せてあって郡司紅というのだそうでございます。