Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

沢村貞子さんのこと

 

沢村貞子さんについて、調べてみました。

以下は、貞子さんを中心にした家系図です。

 

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貞子さんは、狂言作家・竹柴伝蔵 ( 本名・加藤伝太郎 ) の第三子・次女として浅草に生まれました。

姉・せい子は社会福祉運動家、民俗学者。

兄・友一は四代目澤村國太郎。

弟・大介は映画俳優。

( 長兄・國太郎の息子 ) の長門裕之と津川雅彦も俳優だし、その妻たちも女優。

牧野監督とも縁続きだし、黒沢監督とも同様。

とにかく凄い芸能一家なのです。

 

1915年 ( 大正4年 ) 浅草尋常小学校に入学しながら、弟の付き人をしていました。

弟の徳之助 ( 加藤大介 ) が7代目澤村宗十郎に入門して初舞台を踏んでおり、貞子さんは小学2年生の頃から弟の付き人として宮戸座に通っています。

 

当時の様子は、NHKの連続小説「おていちゃん」のアーカイブスでも観ることが出来ます。

 「おていちゃん」は、貞子さんのエッセー『私の浅草』を元にドラマ化されたもので、

貞子さんの父親役を、実の甥っ子・長門裕之さんが演じています。

 

貞子さんの着物姿 

今の方は、リアルタイムで沢村貞子を見たことはないかも知れません。

31年も前に 女優業を引退してしまいましたから。

私は貞子さんの着物の着こなしがとても好きでした。

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貞子さんといえば、細い縦縞のイメージ。

縞の着物は、野暮になったり粋になり過ぎたり難しいけれど、

それをカッコよく着こなせるのが、明治生まれの江戸っ子です。

沢村貞子さんとか、幸田文さんとかかな。

気慣れている、着物が身についている、というのがこの写真でも感じられるのではないでしょうか。

 

貞子さんの前半生は凄い!

彼女は凄い修羅場を潜り抜けてきた人でした。

高学歴で、二度の逮捕と、三度の結婚を経験しています。

 

2度の逮捕の顛末

貞子さんの前半生をWikipediaを参考にまとめてみました。

1921年 ( 大正10年 ) 高等女学校に入学。

1926年 ( 大正15年 ) 女学校の教師を志望して日本女子大学師範家政学部に入学するが、教師間の裏の世界を見て失望し、役者を志すようになる。

1929年 ( 昭和  4年 ) 築地小劇場の女優・山本安英に新劇志望の手紙を出す。

当時、築地小劇場は分裂し、中心メンバーの丸山定夫らによって新築地劇団が創立されると、貞子は大学在学のまま研究生となる。

劇団がプロレタリア演劇運動へ傾斜するようになる。

1931年 ( 昭和  6年 ) 新築地を退団して左翼劇場移動劇場部を独立させたプロレタリア演劇団に入団、日本プロレタリア演劇同盟 ( プロット ) の指令でストライキ中の工場や農村を回ってアジプロ演劇 ( ※1 ) に専念する。

同年秋、左翼劇場書記長をしていた俳優の今村重雄と結婚。

1932年 ( 昭和  7年 ) 治安維持法違反容疑 で逮捕され、築地警察署に留置される。

転向 を迫られるが拒否し、2ヶ月の拘留ののち起訴され、市ヶ谷刑務所へ未決のまま収監されて10ヶ月半の独房生活を送る。

1933年 ( 昭和  8年 ) 転向を声明し、今村との離婚も約束して釈放される。

同年、左翼劇場創立5周年記念公演の主役に起用されるが、保釈中の身であったため当局から沢村を起用すれば上演禁止との通達を受け、山本が代役に立ち舞台は上演。

6月に公判が開かれるが、プロットの指示で転向を取り消したため公判は中止、保釈取り消しの手続きの隙に地下活動にもぐり、一週間後に再逮捕される。

築地署に留置されたのち市ヶ谷刑務所へ戻され、12月の公判で転向を声明して、懲役3年、執行猶予5年の判決を受けて釈放される。 

 

※1 アジプロ演劇とは

   アジプロとはアジプロとは agitation (扇動) と propaganda (宣伝) を組合せた造語。

 

その詳細は「貝のうた」でも知ることができます。

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階級的同士愛の結婚

最初の夫、今村さんとの結婚は、恋愛結婚ではなくプロットからの要請で、でした。

プロットは、プロレタリア演劇団体を束ねていた同盟の略で、今村さんは書記長をしていました。

貞子さんは今村さんのことを同士として尊敬していましたが、恋愛結婚ではありませんでした。

移動演劇にもどうにか慣れてきたころ、突然、私は結婚しなければならないことになった。

プロットの杉本良吉さんが私を劇場の片隅へ呼び、

「君、今村君と結婚してもらいたいんだ」

まるでそれは、明日の仕事を命令するような口調だった。

私はあっけに取られた。杉本さんは「今村君が君を好きになった。

そのために仕事が手につかず、支障をきたす状態になっている」と言う。

沢村貞子著『貝のうた』赤い恋と青いりんご より

 

転向の誓約書

大正から昭和初期の文学を読んでいると、転向という言葉をよく目にします。

当時は今と違い宗教や政治に制限があり、社会主義や共産主義は《赤》と言われ弾圧されていました。

左翼思想を扇動したり宣伝活動をするものは治安維持法で逮捕されました。

文学や演劇を通して宣伝活動をすることも多く、今では御大と言われる人たちの多くが検挙されました。

文学でいえば、村山知義の『白夜』、中野重治の『村の家』、島木健作の『生活の探求』。

演劇では、村上知義、丸山定夫、薄田研二、千田是也さんが代表格でしょう。

滝沢修、小沢栄太郎、宇野重吉、細川ちか子、原 泉さんも逮捕されたと思います。

 

 

貞子さんは、最初の逮捕で、検事や特高から《転向と離婚》を迫られます。

検事にしてみれば、雑魚である新人女優を起訴することまでは考えていなかったでしょう。

それよりもさっさと罪を認め、階級的結婚を解消し、普通の女性としてやり直せばいいというくらいに。

しかし、検事たちの予想に反し、貞子さんは屈しませんでした。

「君が新築地にはいった顛末、結婚から共青加入をすすめられたこと、ぜんぶ書くんだよ。

 こういうことをしたのは悪かった。もう二度としません。と誓うんだ。

 早く書いて、離婚てつづきをして実家へかえるんだ。

 君の場合、亭主がいけないんだ、かわいそうに」

金つぼ眼が横からニヤニヤして、

「ええ、この女はもともと世話女房型だと私はにらみますね。

 こんなことには向いていませんよ」

 

私はじっと考え込んでしまった。困ったことになってしまった。

今村と離婚することは、別にかまわないと思う。

一時の方便として、おそらく彼も許してくれるだろうし、それに ⵈⵈ いまだに夫婦の愛情というものがわからない私には、「たとえ嘘でもそんなことはいや」というだけの執着もない。

困ったのは、

「 ⵈⵈ 悪うございました、けっして二度といたしません」と誓えないことだった。

「一生懸命働く人たちが、みんなしあわせになる」

そのために運動をすることは <人間としての義務だ>と、だんだん思い込むようになっていた。

だからこそ、政治運動なんでできる柄ではない、と自分でわかったいる癖に、せめて何かの役に立ちたい ⵈⵈ 、と上の人の命令どおり、一生懸命やってきた、それなのに、捕まったからといって、

「 ⵈⵈ 悪いことをしました、二度ともういたしません」と誓うことは、私にはどうも出来ない。

沢村貞子著『貝のうた』留置所というところ より

 

 

「料理には愛情が第一」とつくづく知ったのは、刑務所暮らしのせいである

貞子さんは、23歳の時の刑務所暮らしで、料理の尊さを知りました。

35年後、三度目の結婚相手の大橋恭彦さんのため彼女は毎日料理をこしらえました。

26年半、365日の献立日記は、そういう経験から生まれたものかも知れません。 

投獄の折、母が何度も刑務所に足を運び、来るたびに、

上等の差し入れ弁当代金を何日分か前払いしてくれた。

炒り卵、かまぼこ、卵焼き、えびの煮付けなど、蓋のない長方形の塗り物に、

まるで宴会の折り詰めのように無表情にならんでいる。

どれもこれもぼんやりした味で、冷えているところも似ている。

料理のなかに、手紙や刃物、毒薬などがかくされていることがないように、

厳重な検査を通ってくるのだから、乾いて冷たくなっているのはあたりまえのことだけれど。

 

はじめのうちは、母の愛情をかみしめてうれしかったこの弁当も、度重なるとあきあきして

咽を通らず、間もなく、差し入れ弁当をやめてもらうように伝えてもらった。

極端な運動不足のせいもあって、麦飯に切干しの煮付けの定食の方が美味しかった。

 

料理には愛情が第一

と、つくづく私が知ったのは、刑務所暮らしのせいである。

どんなご馳走も、毎日、機械的に同じものを出されては、胃も舌もうけつけない。

食べ物の温度がどんなに大事なものかもわかった。

暑いときは冷たいものを冷たく、寒いときは暖かいものを暖かく⸺食べる人の気持ちにあわせて料理する。

 

<もし、ここから出て、料理をするときがあったら、食べた人がほんとうに喜ぶように、おいしく料理をしよう。ビフテキも冷たい皿にもるようなことはしない。冷たいそうめんをこしらえるときは、まずガラスの器を冷たくひやして ⵈⵈ >

沢村貞子著『貝のうた』蚊がすりの壁 より

 

 

以上は、沢村貞子さんの人生の、ごくごく一部分です。

男尊女卑が当たり前の時代に生まれ、男の子を役者にすることしか頭になかったという父からは相手にされずに育ち、大学までの教育を持ちながらも、紆余曲折、様々な体験を積み重ねた沢村貞子さんは、多くの人が想像する沢村貞子像とはかけ離れたものかも知れません。

しかし、彼女が料理を作る時、演技をする時には、これらの体験が肥やしになっているのだと思います。

貞子さんは、自伝でも書いていらっしゃるように、決して巧い役者ではありませんでした。

常に、脇役としての立ち位置を見つける客観的な目を持っていました。

晩年の潔く、女優引退してしまったのも貞子さんらしいと思いました。

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晩年の、優しく微笑む写真。

 

 

貞子さんの最初の結婚あたりの話は、NHKの連続テレビ「おていちゃん」でも描いていたはずですが、

47年も前のことなので殆ど忘れてしまいました。

どこまで踏み込んで放送されていたのか、もう一度見てみたい。

 

「おていちゃん」は、マスターテープが10回分あまりしか残っていないそうで、それも叶いません。

当時のフィルムは高価だったので、NHKといえども使いまわし ( 上書き ) されていたとの由。

返すがえす残念な話です。

 

自由と平和と民主の演劇人(大正13年6月13日、築地小劇場、開設される) - 今日の馬込文学/馬込文学マラソン

 

 

本日の朝ごはん

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鶏そば 出汁に使ったどんこと昆布もどっさり乗せて

 

本日の夜ごはん

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珍しくひとりご飯だったので、レモンラーメン。

出来上がりの写真を撮りそびれ、気がついた時には半分食べてしまっていました。