マイケル・カニンガム箸
『THE HOURS めぐりあう時間たち』 を読みました。
この本はヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』をモチーフにした作品です。
主人公は以下の女性です。
●1923年ロンドン郊外でダロウェイ夫人を書こうとしているヴァージニア・ウルフ。
●1951年ロサンゼルスでダロウェイ夫人を愛読するミセス・ブラウン。
●2001年ニューヨーク在住の編集者クラリッサ・ヴォーン。
物語は、時代も場所も違う3人の、ある1日が同時進行の形で紡がれていきます。
「ダロウェイ夫人をモチーフに」といいましたが、本書は『ダロウェイ夫人』のオマージュ的作品、
或いは 合わせ鏡的存在といっても良いかと思います。
何故なら、本書の2001年ニューヨークのクラリッサのセクションには『ダロウェイ夫人』の登場人物の名前や行動が散りばめられているからです。
この点を、本書『THE HOURS』を《T》、『ダウェイ夫人』を《D》として説明していきます。
★ 同一の名前としては、
《T》編集者クラリッサ・ヴォーン ⇔《D》主人公クラリッサ・ダロウェイ
《T》クラリッサの元恋人で詩人のリチャード ⇔《D》クラリッサの夫リチャード
《T》クラリッサの現恋人サリー ⇔《D》ダロウェイ夫人のかつての親友サリー
★ 似たような行動を取るキャラクターはちょっと複雑で、
自殺をする 《D》副主人公セプティマス ⇔《T》詩人のリチャード
パーティーを開く 《D》クラリッサ・ダロウェイ ⇔《T》クラリッサ・ヴォーン
クラリッサをおいて昼食会に行く《D》クラリッサの夫リチャード ⇔《T》クラリッサの現恋人サリー
パーティーの準備中訪ねてくる 《D》クラリッサの元恋人ピーター⇔《T》リチャードの元恋人ルイス
また、本書の1923年ロンドン郊外のヴァージニア・ウルフのセクションに書かれた内容は、ウルフの実人生を忠実に書いたものだそうです。
登場する夫のレナード、姉のヴァネッサとその子供たち、屋敷で働く人々もすべて実在の人物であり、
神経症のウルフの静養にと夫が郊外に居を移したことや、ウルフがロンドンに帰りたがったことなども実在のエピソードなのだそうです。
・・・と、ここまで書いて、この説明がわかりやすいかどうか、甚だ不安です。
自分自身とっちらかっていた事柄をまとめたのですから、未読の方にそれを伝えるのは難しい。
もし興味のある方は ( もちろん本書を読んでいただくに越したことはありませんが ) 翻訳者の高橋和久さんかあとがきがわかりやすいと思います。
少し抜粋します⤵
それでは、この作品の「ダロウェイ夫人」の部分を見ることで、人物関係を中心に、両作品がいかに響きあっているかを簡単に確認してみよう。
本の編集者であるクラリッサ・ヴォーンが開こうとしているパーティーは、今は友人づきあいをしている かつての恋人で、エイズに冒されているリチャードが文学賞を受賞したのを祝うためである。
彼女の周りには、彼女自身と同様に『ダロウェイ夫人』に登場する人物たちが微妙にひねりを加えられて配置されている。
ここでのクラリッサの娘⸺作者が意識したかどうか、ウルフの母親と同じジュリアという名前が与えられている⸺は、若いときこそおしゃれができるというのに「ドレスを着ない」で、母親を嘆かせるが、これは『ダロウェイ夫人』における娘のエリザベスが服飾品に無関心であることに対応している。しかもこうした娘たちの態度は、それぞれの母親に多少とも屈折した感情を巻き起こす。母親はそうした娘の価値観を保守的である自分に対する批判であると受け止めるからである。娘たちはいずれも自分以外の女性に心を開き、その女性の価値観を吸収しているように見える。母親はその女性に恐怖と嫉妬のないまぜになった敵愾心を抱かずにはいられない。
リチャードは本書に登場する男性のなかでは圧倒的な存在感を示しているだけに、その名前が『ダロウェイ夫人』でヒロインの夫のものであることを思い出さずにはいられない。
~中略~
そしてここでのリチャードが重要な意味を持つのは、彼が後で触れる『ダロウェイ夫人』の副主人公であるセプティマスと重なってくるからである。
~中略~
クラリッサ・ダロウェイの夫、リチャードの行動を本作品でなぞっているのは、当然かも知れないが、クラリッサ・ヴォーンと共同生活を営んでいるサリーである。
『ダロウェイ夫人』のクラリッサは、夫だけが昼食会に呼ばれたことで少なからず動揺するが、ここでもサリーだけが食事に呼ばれてクラリッサの心にさざなみを立てる。
さて、1923年ロンドン郊外のウルフと、2001年ニューヨークのクラリッサのことは述べましたが、本書に於いて1951年ロサンゼルスのミセス・ブラウンの位置する役割が複雑です。
これを説明するには、ネタバレになってしまいますが、よろしかったらこの先を・・・。一応核心のネタバレ部分は薄い色にします。
1923年ウルフは、ダロウェイ夫人を書いた実在のウルフの話。
2001年クラリッサは、ダロウェイ夫人の物語のオマージュのような物語ですが、
1951年ミセス・ブラウンは『ダロウェイ夫人』の愛読者の主婦の物語でして、この本を最後まで読むと、2001年クラリッサのセクションに関係する人物であることがわかってきます。
ミセス・ブラウンの息子リッチーは、2001年の詩人リチャードであり、
ラストシーンでクラリッサの家に訪ねてくる老女は、1951年のミセス・ブラウンだったのです。
本書が、3つの違う時代、3つの違う場所、3人の女性の1日を交錯させて書かれているのに、意外と混乱せずに読めるのは、もちろん作者の力量でしょう。
1人1人の女性が置かれた立場や、心の動きが実に生き生きと描かれています。
それでもやはり混乱を生じさせる内容ではありました
私はこの本を読む前に、まず映画化されたものを観、『ダロウェイ夫人』を読みました。
その順番が良かったかも知れません。まず映像で見極め、元となった『ダロウェイ夫人』を読んでからだったので、理解しやすかったと思います。
そうした上で「THE HORES」が好みのものだったかというと、実は複雑。
そうでもあり、そうでもなかったです。
作者が意図する《流れる時間へのこだわり》は、交錯した仕組みの効果で理解できました。
しかし、一読してわかったかというと、やはり複雑すぎます。
ドラマや小説に《人間の感情の機微がうまく描かれていること》を求めがちな私にとって、
1923年ウルフは教科書的に、2001年クラリッサは技巧的に感じました。
一番感情移入できたのは ミセス・ブラウン、そしてリチャード
『ダロウェイ夫人』と程よく距離をとった1951年ミセス・ブラウンの置かれた世界や、
彼女の葛藤に一番共感を覚えたのです。
ローラ・ブラウンはこんな人
ローラ・ブラウンは、優しい夫と可愛い息子に囲まれ、第2子を妊娠しています。
世間から見たら申し分なく幸せにみえる彼女ですが、理想の妻・理想の母親でいることに疲れています。
読書好きの彼女は「ダロウェイ夫人」のヒロインに満たされない自分を重ねます。
息子のリッチーは傷つきやすい性分で、いつも母親を目で追うような子どもです。
その目つきが重い、彼女の心は崩壊寸前です。
死の誘惑に取りつかれた彼女は息子を隣人に預け、大量の薬瓶を持ってホテルへ向かいます。
寸でのところで自殺を思いとどまった彼女は、息子を迎えにもどり、何ごともなかったかのように夫の誕生日を祝います。
1951年ミセス・ブラウンのセクションでは、ローラが日常生活に戻っていくところで終わりますが、その後のローラの人生は2001年クラリッサのセクションで明らかになります。
ローラ・ブラウンのその後
ローラは 夫と息子、産まれてきた娘を捨てて出て行きます。
カナダに渡ったローラは、図書館の司書の仕事につき一人で暮らしていきます。
ローラの息子リッチーのその後
母親に捨てられ、父親のダンを癌で亡くし、妹を交通事故で亡くしたリチャードはやがて詩人となり、クラリッサ・ヴォーンと出会います。
リチャードは恋するクラリッサを「ミセス・ダロウェイ」と呼び愛しますが、
2人の恋は、リチャードの新しい恋人 ( 男性 ) の登場で終わります。
やがて再会した2人ですが、リチャードはエイズに冒され、クラリッサは彼の介護人となります。
リチャードが執筆した小説には、クラリッサと母親と思われる人物が出てきます。
リチャードは小説の中で母親をさっさと殺してしまいます。
そんなリチャードは、自分の受賞を祝うパーティー当日、クラリッサの前で投身自殺してしまいます。
以上が、母親ローラ・ブラウンと、息子リチャードの概要です。
ここで私は2人の死というものに注目しました。
母親ローラは、リチャードが小さい時に自殺をしようとしました。
ホテルに向かう時、リチャードは隣人に預けられる時、大泣きして嫌がります。←これは映画。
結局、母親は自殺をしないで戻ってきますが、幼いリチャードは《母親が死にたいと思っていたこと》を察知していたのではないかと思うのです。
大人になり、自分がエイズとなったリチャードも《死》を望んだでしょう。
翻訳者-高橋さんのあとがきの中にこんな文章がありました。
「人はおそらく現在にだけ生きられるほど幸せではない」
この文章を読んで、私はハッとしました。
リチャードがいつ小説を書いたかは明らかではないけれど、
もし執筆がエイズ発症後だとしたら、母親を小説の中で殺したのは《憎しみ》ではなく、《同情の念》からではなかったかと。
この本の中には、現代にだけ生きられるほど幸せでない人たちが沢山登場します。
ウルフもそうだし、リチャードも、ローラ・ブラウンもしかり。
そんな人間たちの複雑な機微は、一度より二度、三度と読みかえした時に見つかるかも知れません。
小説『ダロウェイ夫人』⇔映画『めぐりあう時間たち』⇔小説『THE HOURS』のループ。
グルグルと読んでは観、見ては読みをくりかえすのも一興か。。。
そんなことをしたくなるような本でした。
本日の朝ごはん マルちゃん正麺醤油味 いろいろのせ
キャベツ、にんじん、おくらのスプラウト、豚肉、きくらげを入れました。
コリコリきくらげ、さいこーーーっ
本日の夜ごはん こんなところからスタート
ポテトサラダ ( 市販 ) ときゅうりの醤油漬け、おくらとトマトの冷出し
「ポテトサラダがだぶってる」と、どかしてくれようとした手。
これなかなかでした。
おくらとトマトを白だしで煮て、冷やしたもの。
キュウリの醤油漬けは、コウケンテツさんのもの。
癖になっとります。
いんげんの肉みそ和え
無性に肉みそが食べたくて自作。
凄く美味しくできたので、明日レシピをアップします。
全部そろった図
これが記念日の夕餉。
8月8日 ( 平成8年 ) 結婚記念日でしたわ、隣のしとに言われて気づいたけど。
追加のお話
集英社刊の『THEHOURS めぐりあう時間たち~三人のダロウェイ夫人』の装画に見覚えがあると思ったら「オフェリア」でした。
これが原画 ジョン・エヴァレット・ミレイ画
この手の部分 を使ったわけね、
因みに、「オフェリア」といえば、樹木希林さんがこんな絵を作られていた
樹木希林さんを起用した2016年の企業広告 だったんですが、
希林さんの忌明けカードがコレだったとか。。。
とじ込みは本の抜粋、好きな箇所、備忘録です。
読み飛ばしのほどを
苦虫をかみつぶしたような彼の顔。レイフの顔がいっそうそれと分かるほどくっきり赤くなる。無理もない、と彼女は思う。活字をセットしたのはレイフで、彼はそれをおざなりにやったのだから。真実は、彼女は思う。上品な女性のようにグレーの服をもとって、このふたりの男のあいだに静かにふくよかな姿で立っているのだ。それはレイフ⸺文学の味わいを愛するけれども、同時に、それと同じかそれ以上の熱意をもって、一日の仕事が終わったあとのブランデーとビスケットの味わいを愛する歩兵⸺とともにあるのではない。気立てがよくて、人とどこか違ったところにあるわけでもない彼が自分に与えられた時間のなかで、当たり前の世界の当たり前の仕事に不滅性を与えることなどまず期待できない。
ミセス・ウルフ p.94 11ℓ
「あらら」彼の母が言う。
彼はおびえた表情で母親を見る。目には涙があふれている。
ローラは溜息をつく。どうしてこの子はこんなに傷つきやすいのだろう、どうしてすぐにわけのわからない激しい自責の念に取り憑かれてしまうのだろう。なんでわたしはこの子にそんなに気を使わなくてはいけないのか?一瞬⸺ほんの一瞬⸺リッチーの姿が微妙に変化する。もっと大きく、もっと輝く存在になる。~中略~
一瞬、彼女は立ち去りたくなる。彼を傷つけるためではない、そんなことはけっしてしない。自由になるために、非難されず、弁明の責任を負わずにすむように。
ミセス・ブラウン p.100 7ℓ
彼女は落胆し、少なからずほっとする。実際ここにあるのは彼女の家、彼女の集めた陶製のポット、彼女の連れ、彼女の暮らし。ほかのものは欲しくない。高揚するでも落胆するでもないふだんの感覚で、ただクラリッサ・ヴォーンとして⸺仕事の上で高い評価を受けている幸運なひとりの女性、不治の病に侵された著名な芸術家のためにパーティーを開こうとしている女性として⸺ここにいるのだと感じながら、彼女はリビングルームに戻って、留守番電話の伝言をチェックする。
パーティーは成功するかもしれないし、失敗に終わるかもしれない。いずれにしても彼女とサリーはそのあとで食事をするだろう。ふたりで床に就くだろう。
ローラはリッチーに言う、「あなたも願い事した?」
彼は頷く。そんなことは考えもしなかったけれど。彼はいつだって、そのときそのときで、願い事ばかりしているのではないか。そして、彼の願い事は父親の願い事と同じで、だいたいがこのままでありたいという思いに繋がっているのではないか。父親と同様に、彼がもっとも強く欲するのは、すでに手に入れているものがさらに多くなること ( もっとも、もしどんな願い事をしたの、と尋ねられれば、彼はたちどころに欲しいおもちゃの名前を、現実のものと想像のものを取り混ぜて、次から次へと列挙するだろうが )。彼は父親と同様に、自分たちふたりに手に入りそうもないのは、まさしく今以上のものであることに気づいている。
p.250 16ℓ