本を読んでいて、またまた些少なことに興味を持ち、ほじくり返しています。
蒲原有明著『夢は呼び交す』に出てくる、西岡未亡人のことです。
この本は、蒲原有明氏のほぼほぼ自伝ですが、作者は自分を第三者として描いています。
客観視したかったのかな?
作中では自分を《鶴見》という名前で書いていまして、
出てくる人物の方は何故か、仮名だったり、実名だったり不思議な形。
しかし《鶴見》としたことは効を成したと思います。
静かに淡々と読めて、生々しくなく感じたからです。
鶴見の父親は、佐賀県出身の官僚でかなり高い地位まで昇った人物。
母親は、父の三番目の妻らしい。
鶴見が小さい時はよく芝居に連れて行ってくれた母ですが、
鶴見が6歳の時に、父が離縁したので離れ離れになります。
そんな鶴見がずっと慕っていた女性が、西岡未亡人でした。
鶴見と西岡未亡人との出会いは、彼が中学に入るちょっと前から始まります。
そのくだりが「宿命的孤独と自由」p.130という章に書かれているので、そこからかいつまんでみます。
彼が、
麻疹 に感染して全身吹き出物で苦しんでいたところ、西岡という若い未亡人が来て、自分のやらせている塩湯はどうだろうと勧めてくれたという。塩湯は京橋-木挽町河岸にあり、幼少の鶴見は西岡未亡人に連れられてそこに寝泊まりすることになった。
未亡人の夫は鶴見の父と同国の出身で、早くから病気療養に対するその効用を認めて海水温浴を主唱し、世に知らせた医師だった。
不幸にも志も達せずに没したが生前の主張が実を結び、それが未亡人の手に残されていた。
芝浦の塩湯と呼ばれて、その後も幾多の変遷を経て、ずっとその偉業は続けられた。
芝浦館といえば東京で知らぬ人はまずいなかったといって良かろう。
西岡の未亡人はカトリックの尼さんたちと懇意にしていたが、このころ発展の気運に向っていた女子教養のためにミッションスクールが麹町四谷見附に開設せられ、西岡未亡人がその学校の校長に推されているといようなことなども段々知らされた。
~中略~
西岡未亡人は、すでに他界したが、鶴見には夫人は第三者としてではなくて、もっと身近にいつまでもいてくれる。鶴見はふと気がついてそんな風な考にはまり込む時がある。夫人の生涯を鶴見は自個の生涯の上にも見たのである。
西岡未亡人は、著者にとって母親のような存在だったのかも知れません。
因みに、著者の妻と引き合わせてくれたのも西岡未亡人だったとか。
その《西岡未亡人》は、誰か?
それが今回のミッション←なんじゃそれ
「芝浦の塩湯」「四谷のミッションスクール」というキーワードをもとに、
この人物のことを調べてみました。
しょーもないと笑ってくださってかまいませんことよ ( ´艸`)
で、です。
早い話が私は要らぬ遠回りをしてしまっていました。
実は巻末の註に、その人物の実名、ミッションスクールの名前などぜーんぶ書いてあったのに、
それを読み飛ばして、ひとりで調べ始めたのです。
学校法人 雙葉学園のHPから「学園の歩み」を見てみたが、麹町に新校舎が建設されたのも1910 ( 明治43 ) 年だし、日本人初の校長さんも1941 ( 昭和16年 ) と年が合いません。じゃ双葉の前身-修道会「幼きイエス会」と、「ニコラ・バレ神父」とかの線も調べたがヒットせず。
それでは「芝浦の塩湯」「佐賀県 医師」などの線からようやくつながりました。
鐘ヶ江録子 ・・・雙葉学園の創設に寄与1852 ( 嘉永5 ) 年~1940 ( 昭和15 ) 年
夫 鐘ヶ江晴朝は佐賀出身の医者。
こんなご本を見つけました!
以下は、佐賀偉人伝 p.68
因みに下記にある地図、写真等は私が探して貼り付けました。
鐘ヶ江晴朝の出生年月日及び出生地は定かではないが、東京都公文書館に残る、明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」の申請者は、現住所 第一大区九小区宗十郎町 ( 現銀座七丁目 ) 五番地の長崎県士族 鐘ヶ江晴朝で原籍は長崎県四捨大区弐小区佐賀郡点屋町五拾番地となっている。明治11年5月24日付の読売新聞によると、その広さは11,800坪ほどとある。
この申請は受理され、明治11年9月15日、芝新濱町弐番地 ( 現東京都港区芝浦1丁目 ) に日本初の海水浴場である芝浦海水浴場が開業した。
当時の海水浴は海水温浴の「塩湯治」「塩場」である、特にリウマチ治療として医学的効果を期待されていた。ポンぺに師事し、後に初代陸軍軍医総監となった松本順が明治18年に開設した大磯照ヶ崎海岸海水浴場 ( 神奈川県 ) が日本初の海水浴場といわれることがあるが、芝浦海水浴場の開業はそれより早い。
また、鐘ヶ江晴朝は、明治13年発行の「東京商人録」で、神田區神田佐久間町にも診療所を持っていたことが確認できる。
墓碑文には、明治2年に東京で医術を学び、明治7年に宗十郎町で開業。貧困にあえぐ患者の治療に当たっていたが、明治14年2月14日に志半ばで世を去ったとある。選と書は友人の相良頼善とある。
一方、佐賀での足跡を辿ると、明治5年に大木文部卿あてに提出された「県立病院好生館」の「医学校生徒正則其外御届案」には小教諭鐘ヶ江晴朝、月給13円50銭とある。また県立病院好生館が月給500円で雇入れたアメリカ人医師ヨングハンスが明治6年赴任満了となった時、後任にカナダ人医師スローンを見つけ出し、スローンの「医学校外国教師雇入願」を提出したのも鐘ヶ江晴朝である。
佐賀藩の医学校「好生館」の教導方を務めた松隈元南の碑 ( 明治11年6月建立、佐賀市中の館町光圓寺 ) にも東京寄留者として相良知安などと並んで鐘ヶ江晴朝の名が刻まれている。これらにより、鐘ヶ江晴朝は、少なくとも明治4年から6年まで好生館の医師として活躍していたことがわかる。『医学免札姓名簿』で幕末の佐賀藩には須古鍋島家に仕える鐘ヶ江文益 ( 59歳 ) と鐘ヶ江良甫 ( 27歳 ) がいるが晴朝との関係は今のところ不明である。
芝浦海水浴場は、妻の鐘ヶ江禄子に引き継がれ、繁盛した。明治20年1月21日付の佐賀新聞には、寡婦にして富有の佐賀県士族鐘ヶ江禄子が東京麹町区下六番町に仏語女学校を設立したとの記事がある。この学校はカトリック系のサン・モール修道会が開いたミッションスクール、仏語女学校のことで、現在の学校法人雙葉学園の前身である。東京府丁に提出された解説願の名義人は、校長鐘ヶ江禄子で、費用のいっさいを禄子が負担したようだ。また、詩人の蒲原有明は幼少の頃、病に苦しんでいたところ、鐘ヶ江禄子が経営する塩場で養生し、禄子自らの親切な介護を受けて良くなったことを自伝的小説『夢は呼び交す』の中に書いている。
明治時代には房総半島を見渡せる風光明媚な海岸であった芝浦一帯は、今は埋め立て地と運河が交錯し、保養地としての面影はないが、現在、この地に鐘ヶ江晴朝が開いた海水浴場があったことを知らせる港区の説明板が設置されている。
鐘ヶ江晴朝と鐘ヶ江禄子夫妻の墓は東京の青山霊園に並んで建っている。
【参考】
鈴木伸治「日本初の海水浴場は芝浦海岸で開設」 ( 『医譚』、2012 )
『佐賀新聞にみる佐賀近代史年表 明治編』( 2012)
『東京商人録』 ( 1880 )
『信仰と教育と サン・モール修道会 東京百年の歩み』 ( 1981 ) 他
末岡暁美
以上のように末岡暁美さんが詳細に調査し、わかりやすく文章にしてくださっていました。
特に妻の禄子 ( 西岡夫人 ) まで言及してくださっていることに感動しました。
そしてもうひとつ。
とても貴重な資料がありました。
野田宇太郎さんが、故蒲原有明氏についてどのように貢献されていたかがわかる資料です。
以下の冊子には、蒲原さんのご家族 ( 養女の静子さん、妻の喜美子さん、孫の一正さん ) の写真もありました。
※ 下記が閲覧できない場合は、こちらのAddressから
https://www.town.arita.lg.jp/site_files/file/2014/download/sarayama/sarayama-0042.pdf
本日の昼ごはん
MOURI 作 金ちゃんラーメン
本日の夜ごはん
わたしの⤵
鬼 ( ? ) の居ぬ間のミートグラタン
MOURI はミートグラタンが好きではないのです (;^_^A
MOURI の夜食
お稲荷さんといぶりがっことクリームチーズ
ポテトも食べたいそうです。
最近とても気に入ってるのコレ
とじ込みは、備忘録。
蒲原有明の略歴と、西岡夫人の参考資料です
彼は日本の近代詩にはじめて象徴詩を完成した詩人である。
しかしながら氏の活動時期は短い。
22歳の時「大慈悲」という短編小説を書き、『読売新聞』が尾崎紅葉を選者として毎年正月元旦号に募集する短篇小説に応募すると、それが見事に一等当選して大きく発表される。それを機に巌谷小波が編集していた当時の文学雑誌として最も権威のあった『文藝倶楽部』に小説寄稿を求められ、小説第二作「南蛮鉄」が掲載され、先ず新人作家として文壇に名を知られるようになった。
普通ならこのまま小説家として世に出るのが常識であろうが、本人は「南蛮鉄」を苦労して書いたあと、やはり自分の生涯の使命は小説家になることではなく、西洋詩の影響を受けて発展途上にある近代詩を書くことだと自覚し、はやなかな文壇作家の道を自ら捨てて、近代詩、それも難解とされる元はフランスに興ったサンポリズム、つまり主知的な象徴詩を如何に日本語で書くかに専念するようになった。
27歳で第一詩集「草わかば」、28歳で「独絃哀歌」を発表し、与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』の寄稿家としても活躍し、関西で活躍する薄田泣菫などとともに詩壇注目の詩人となっている。
岩村透が麻布新竜土町のフランス料理竜土軒で洋画家のサロンは開いたのは日露戦争の直前で、一方若い文学者たちは牛込の柳田國男の家をサロンとして定期的な雑談の会を開き、やがてこれも竜土軒に移って、無名会と合流する形でいわゆる竜土会がはじまったのは明治37年頃である。
彼もその一員となって、島崎藤村や正宗白鳥、徳田秋声、近松秋江など、当時の文壇で活躍していた多くの作家も加わり、彼の文壇的交流もしだいにひろくなった。
しかし30歳に父が亡くなり、有明は蒲原家の当主となり、結婚もし、次第に詩壇からも遠ざかっていく。
時代はすでに自然主義の流れに向っていて、彼の作品は文壇から厳しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。
大正以後は文壇を離れ、詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や散文詩の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。
【参考資料】
https://www.town.arita.lg.jp/site_files/file/2014/download/sarayama/sarayama-0042.pdf
ttps://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2018/201802/p1c77rfk281v009s817frhrs1n3l5.pdf
https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2021/02/MATSUTANI_Shozo_0882-08641.pdf