Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

徳川さん宅 ( ち ) の常識

 

図書館で何気に手にとった本『徳川さんの常識』がとても愉快だった。

この本を書かれた徳川さんは、宗家ではなく尾張徳川家の第21代当主。

堀田家から、第20代徳川義知氏の長女・三千子さんの婿養子として徳川家に入り、

名前も『堀田正祥』から『徳川義宣』と改名された人だ。

 

義宣はヨシノブと読む。

耳から聞いたり横文字で書けば、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜と同じだが、

本の中では、このことも言及されている。

昔 取材依頼の電話があり、応対した時の話。

「もしもし、お待たせしました。電話代わりました。私、徳川ですが」

「はあ? あのう、所先生に伺はうと思ったんですが……」

「ええ、所長から私が伺う様には云はれて代ったんですが、ご用件は?」

「いえ、あのう、所先生にトクガワヨシノブのことについてお尋ねしようと思ったんですが……」

 

ひとの名前を、それも電話で取材しようと云ふ相手の名前、諱をいきなり呼び捨てにするとは……私は少しむっとした。

 

「ええ、ですから代ったんです。私の何についてお尋ねになりいたんですか」

「いえ、あのう……そのう……ですからヨシノブの……」

「はい、私が徳川義宣です、お答へできることならお答へしますが」

「え? トクガワヨシノブ……さん……」

相手は絶句してしまった。

「もしもし……」

「もしもし……あのう……十五代将軍の……」

 

頭の中がシュパン!とした。相手が云ってゐるのは、“徳川慶喜”のことだった。

私は堪えても堪えても湧き上がってくるをかしさに、涙声の様になりながら答へた。

 

「わかりました、トクガワヨシノブ、十五代将軍ヨシノブのことについてお尋ねなんですね。済みませんでした。字は違いますが私もヨシノブが名前ですので……でも、私たち徳川の家の者は十五代将軍のことはみんな慶喜けいき公とか慶喜けいき様とか云ってゐて、慶喜よしのぶとかヨシノブ様とは決して呼びませんので、……いえ、もちろん本来は慶喜よしのぶが正しいんですが、慣習と云ふか恒例として慶喜けいきと呼び慣はしてゐますもので……」

電話の向かうの相手も、さぞかいビックリしてに違ひない。

 

実は私も徳川慶喜のことをずっと“トクガワケイキ”と呼び馴染んでいたので、

近年テレビドラマなどで“ヨシノブ”と呼ばれているのが馴染めずにいた。

……徳川の人間ではありませぬが。

 

この本は、徳川さん宅の常識というが、何も自分の家のことをひけらかしたりするようなことは一切書かれていない。

むしろ、困ったところやヘンテコなことがつまびらかにされていて、義宣ぎせんさんのお話が軽妙洒脱で、とても面白いのだ。

 

著者の名前を「義宣ぎせんさん」と言ったのには理由がある。

人の名前の呼び方についてもこの本で書かれていたからである。

なんとなく感覚的に使い分けていたことが、この本で明瞭になったのが諱についてだった。

 

諱について

日本人の男の名前には、通称形といみな形と云ふ代表的な二つのタイプがある。

慎太郎とか裕次郎とかは通称形で、康弘やすひろとか護熙もりひろとかは諱形である。

面倒な古事来歴には触れないことにして原則だけ紹介しておかう。

「通称は本来は“音よみ”である。但し時代が新しくなればなるほど彦三郎とか染五郎と云ふ様な“湯桶よみ”の例外が増えた。

諱は“訓よみ”と決まってゐる。

これも近年では角川書店創業者の角川源義げんよし氏の様な“重箱よみ”の例外も現はれてゐる。もっとも、諱の方はどうよんだらよいのか難しい名前が昔から多いので、わからないときは音でよんでおけばよいことになってゐる。しかも訓よみがわかってゐても「源頼光みなもとのらいくわう」とか「藤原定家ふじわらのていか」とか音よみの方が通例になってしまってゐる例も多い。

 

諱を音よみにするのは、べつだん昔の人や故人に限られてゐるわけではなく、現代人や生存中の人でも構はない。当て推量の訓よみでよみ間違えられるぐらゐなら、音よみにした方が失礼に当たらないと云ふ礼法もある。
諱はよんで字の通り“忌む名”であるから、目上の人が目下の人の諱を呼ぶことは許されても、少しでも敬意を示す要のある人を直接諱で呼んではいけない。だから同輩でも諱をそのまま訓で呼ぶことは失礼になるが、音で呼ぶなら許される範囲も広くなると云った礼法だが慣習だかもある。

 

例えば還暦を過ぎた今の私を“ヨシノブ”と呼び捨てにする人は誰もゐなくなってしまったし、“ヨシノブさん”と“さんづけ”で呼ぶ人も叔父伯母や近い親戚だけで二十人もゐないだらうが、“ギセンさん”と呼ぶ人は何百人かゐるだらう。

また第三者同志が私を話題にするときも、音よみならただ“ギセン”だけど“さん”もついてないだらうと思ふ。

どうやら訓よみだとまさにその人をストレートに指すことになるから非礼、音よみなら本来のよみ方ではないのだから間接的に指したことになって非礼にはならないと云った“ボヤカシの礼法”の一種らしい。

 

 

この他、第十九代義親さんの話も面白かった。

義理の祖父にあたられる義親さんは、とにかく面白い方だったらしい。

その下りは、そうね、また日を改めて少しだけお話したいと思います。

 

 

 

本日の昼ごはん

味噌煮込みうどん

 

本日の夜ごはん

この日は鶏つくねの鍋だったようだが、何故か写真はこの一枚しか撮っていない。

よほど腹っぺらしだったのか知らん

 

 

 

参考文献

keibatsugaku.com

 

酒井美意子さんの談

酒井美意子 前田利為侯爵の娘・酒井忠元伯爵の妻

あの前田邸の二階の西側の部屋に住まわれていた長女が美意子さん

garadanikki.hatenablog.com

私どもは敗戦後〈コスモポリタンクラブ〉と名づけた社交クラブを作った。 ある日 夫の先輩だった白根精一氏から、 「小佐野とかいうやり手のおっさんが何が何でも華族の美女と結婚したいと親父に泣きついてるんだ。どこかにいないもんかね」と夫が相談を受けた。 精一氏の父君は宮内庁次長白根松介氏である。 小佐野賢治なる人物は山梨県出身。 戦後のどさくさに乗じて巨万の富を蓄えた由。 「英子ちゃんはどうかしら?」と私が言えば、「そいつは名案だ!」と夫も叫び、さっそくその旨を関係者に伝えた。 伯爵令嬢堀田英子は我が夫のマタイトコで絶世の美女と謳われた。 英子は学習院女子高等科生で学校の帰りに我が家に寄りコスモポリタンクラブで一踊りしていた。 我がクラブでも彼女は人気ナンバーワン。 当時お嬢さんたちは「私は輸出向きよ」と外人との結婚を宣言する人が多く、敗戦で打ちひしがれた日本男児受難の時期であった。 英子はグラマーで社交家で華麗で誰の目にも外人向きであった。 夫も私も揺れ動く英子の気持ちがわかっており、むりやり説得もせず白根夫妻に一任して成り行きを見守った。 銀座の中華第一楼で見合いの結果、小佐野氏は一目ぼれ、直ちに求婚。 戦後の窮乏期に悪戦苦闘しておられた堀田家でも日の出の勢いの小佐野氏との縁談を望み、昭和25年1月華燭の典は挙げられた。 当時どこへ行ってもこのニュースでもちきり。 結納金は400万円(現在のお金にすれば1億円)だと取り沙汰された。

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