先日、NHKプレミアムで「シリーズ東京 街はこうして輝いた」という番組を見てね、
シリーズっていうからには、第何話目かだったんでしょうが、
川添梶子さんを紹介してたんです。
川添梶子さん
名前だけじゃ、ちょっとわからないという人もいるかも知れないけど、
梶子さんは六本木のイタリア料理店「キャンティ」の創設者、オーナー夫人。
戦後復興期を終え、高度成長期に向かう頃、六本木に集まった若者たちの、
とりわけ若手の芸能人たちで構成された六本木野獣会なる遊び人たちの
サロンになっていたのが、キャンティでした。
オーナー夫人の梶子さん ( 愛称タンタン ) は、そんな若者のあこがれの存在でした。
梶子さんは、駆け出しの俳優やミュージシャン、デザイナーと、
店に来る大御所 ( 三島由紀夫、丹下健三などなど ) と分け隔てなく接していて、
その橋渡しもされたそうです。
「あっちが重鎮の席、僕たち下々はこっちの席。
重鎮の話が聞えるような席に座って、話を聞きのがさないという感じでした」
当時の様子を語るムッシュかまやつ。
キャンティの一番人気、バジリコスパゲティ
実は、パセリと大葉で作られていたんだって。
「キャンティ物語」を読んでいたので、梶子さんのことは知っていたけど、
番組には 街が輝くというコンセプトの元、キャンティの周辺の話も盛り込まれてました。
その1つとても興味深かったのが、和朗フラットというアパートメント。
キャンティの脇の路地の突き当りにあるそのアパートは、現役のアパートメント。
袋小路には、どこか懐かしいような異空間が広がる。
戦前から著名人に愛され、歌手のディックミネ、俳優の細川俊雄といったスターたちが住んでいた。
あの鎌倉の、、、大佛次郎さんも住んでいたこと、あるんだって。
昭和11年築とは思えないその内部は、漆喰が綺麗に塗られて、
大切に手入れされ使われてきたことがわかる。
箪笥やベッドなど主な家具は備え付け。
トランクひとつで気軽に住むことが出来たのも、人気の理由だったそうです。
そしてもうひとつ、興味深かかったのが、インターナショナルクリニック。
残念ながら、この夏、院長が亡くなり閉鎖が決まったそうで、
後片付け中の看護婦さんに内部を見せてもらってました。
建物は大正時代のもの。
日銀ロンドン事務所の代表を務めた人の屋敷で、
100年前のイギリスの住宅にならって建てられたそうな。
何気に、ドアのステンド ( 上 ) も、鴨居のステンド ( 下 ) も見事。
待合室には、生前の院長先生のお写真が…。
流石、NHK。
院長のエフゲニー・アクショーノフさんがご存命の、16年前の映像も所蔵していた。
六本木に外国人が多いのは、江戸時代、武家屋敷の多くを外国の公館にしたのが元。
今では港区に住む10人に1人が外国人といわれているっていうじゃない。
英語で診察が受けられるクリニックは、有難かったでしょうね。
それにしても、優しそうで素敵な笑顔のおじいちゃま。
ご冥福をお祈りします。
さて、話を梶子さん戻します。
梶子さんの父親は三井物産のロンドン支店長を務め、その後独立した実業家。
東京に戻った梶子さんは、聖心女子学院の初等科に入学、外国人部に籍を置き、
授業は全て英語で受けたそうです。
戦後は彫刻に没頭、21歳、二科展で入選。
22歳、イタリアに渡って、彫刻家エミリオ・グレコに師事する。
25歳、イタリア人男性と結婚、翌年娘を出産し母となるが。。。。
27歳の時、日本舞踊の海外ツアー「アヅマカブキ」に参加、ナレーター役を務め、
舞踊団のマネージャーをしていた当時の川添浩史さんと出会い、
そしてイタリアを飛び出し、30歳で浩史さんと再婚。
凄いよね、愛の力ってやつは。
浩史さんと結婚した梶子さんがキャンティを作った理由は、
自分が食べに行きたいようなレストランがなかったから。
で、作っちゃった。
浩史さんの国の内外を問わない広い人脈で、キャンティには沢山の文化人が来店。
英語、フランス語、イタリア語が堪能な梶子さんが、店を取り仕切る。
梶子さんの愛称-タンタンというのは、イタリア語で “ おばちゃん ” という意味なんだって。
ひとまわり以上年下の若者たちも、彼女の虜になった。
そしてタンタンには、人の才能を見抜く目もあった。
作曲家、村井邦彦さん。
村井さんは25歳の時、梶子さんにパリを案内してもらったことがある。
「一緒に歩いてると、これは綺麗だとか、これは汚いとか、
僕が洋服着てると、そんな汚いもの着ないでちゃんとした物着なさいとか、
例えば、イブサンローランとかと蚤の市なんかに行くと、
骨董でも本物の骨董と、明らかに偽物がありますよね。
でも、偽物でもサンローランも梶子さんも自分の感性に訴えるものがあると、
買ってくるわけ。
普通に美しいものじゃなくて、本当に一番いいもの、彼女にとってね、
それを追求してましたね。」
作詞家 安井かずみさんもタンタンの信奉者でした。
パセリのちぎり方から、パリでの過ごし方まで意見を求めたとか…。
その人物像をつづった言葉。
「タンタン。その人は、実に天真爛漫で、ゴージャスなエゴイストであり、
美しく自分を生ききった人である。」
「あの方は、全てのことを美しいか美しくないかで全部決める人。
人の品にしても食べ物にしても、綺麗か綺麗でないかを決める人なんですね。」
舞踊家 花柳若菜さんも 梶子さんと親交があった。
若菜さんの結婚式の衣装は、梶子さんが作ったそうです。
「『大丈夫だから、明日までに間に合わせるから』って。
あたしは明日結婚式なのに、とても悩みました実は。
『あなたはとにかく白いハイヒールだけ、買っておきなさい。』
それだけ。
それでね、結婚式の朝ですよ、行く前にあたしはただ立ってるの、
ジョキジョキジョキジョキ切って、ひだを寄せて、
あたし、間に合うのかしらと思った。
でも。間に合っちゃったんですよね。」
なんて優雅で大胆なカットなんだろう。
でも、梶子さんはファッションを学んだことはなかったんだって。
街はずれの小さなレストランは、有名人が集まる伝説的な社交場として名をはせていった。
しかも、そこいらのぽっと出の有名人とはわけが違う。まさに世界のVIP。
オーナーである川添浩史さんが築いた幅広い人脈によるもの。
川添さんは大正2年の生まれ。
伯爵後藤猛太郎の庶子として生まれ、川添家の養子として育てられた。
母親は新橋芸者のおもん。祖父は大政奉還の立役者である伯爵後藤象二郎。
青春時代は、戦前のパリで過ごし、写真家ロバート・キャパをはじめ多くの文化人と交流を重ねる。
戦後はキャンティを経営するかたわら、パリでつちかった人脈を生かし、
日本と海外の様々な文化交流に関わっていく。
やがて「東京には川添の店がある」とヨーロッパでもアメリカでも知られるようになっていった。
来日の折に店を訪れ、旧交を温める友人もいた。
川添さんは、文化はたまり場から生れると信じていた。
店は、才能と才能とか出会う、文化的なサロンへと発展していく。
店の裏手にある和朗フラットには、
梶子さんの後押しで、
後のファッションシーンで注目を集めることになる若者も住んでいた。
20代の頃、梶子さんの口利きでイブサンローランと面会、その日本進出の立役者となる。
若くして父を失った柴田さんは、梶子さん無では生きていけない時代があった。
「梶子さんが『柴、大変でしょう。偉くなったら払いなさい』と、
キャンティの食べ物飲み物、『全部ツケでいいよ、出世払いにしなさい』
と言ってくれました。
で。お金がないから、毎晩キャンティにしか行けないわけです。
少しお金が出来て、キャンティに、払いに行かなければいけないなと思った時には、
700万くらい確か溜まっていたと思います。(笑)」
「それを分割で、3回か4回に分けて払わしていただいて、
でもそれがあったから、今あるんですよね。」
梶子さんがキャンティを切り盛りしていた昭和30年~40年は、都電が走ってして、
だけど店を出て左の六本木まで真っ暗で、
灯りがともってたのは、キャンティだけだったそうです。
残念ながらワタシの年代では、キャンティの全盛期は過ぎた後。
でも。
キャンティのあのテーブルに座ると、ああ、ここで才能あふれる若者たちが、
音楽やファッション、文学の話をしながら食事をしたんだなと、想像できます。
才能と才能がぶつかり合ったエネルギーで店があったまっているという感じがして。。。
どちらかというと足しげく通ったのは、六本木交差点近くのシシリアだったけど、
キャンティで二度ほど、ロンドンの演劇関係者との会食の、その末席を汚したことがあります。
半地下の薄暗い、ちょっと穴倉のような空間で飲んだワインの味、
スパゲティの美味しさと共に、その時交わされた芝居の話のひとつひとつが
懐かしく思い出されます。
あの空間には、
魔物ならぬ、文化とファッションの女神―梶子さんが棲んでいるんじゃないのかな。
壁や照明や床や椅子に、往年の若者たちの情熱や、文化の香りが浸みついている
そんな気がします。
現在では、ウマいイタリア料理を食べさせるお店は数多くあるけれど、
その辺がキャンティとの違いじゃないかしら。
テレビを見ていたら、キャンティの仔牛のカツレツミラノ風が食べたくなってきました。