吉田城から吉田橋を横切って、吉田神社に行きます。
いいねえ 吉田づくしwww
これが吉田橋。
吉田大橋記という石碑には、こんなことが書いてある。
元亀元年 酒井忠治が初めて関屋口に架け、
それを天正十九年 池田輝政が城を拡張するとき下流の船町に移し
以後三百余年その地にあった。
今下流にみる鉄橋はその名残である。

それとも 左?
そうかそうか。左方向が海だからこっちだ! たぶん
あの、白い橋が、城を拡張した時に移したっていう鉄橋じゃないかしら。
今いる所 (陸橋) の下の橋は、
「昭和34年国道改修に当り旧位置に地階ここに最新式の橋が完成し、
旧名をとり吉田大橋と名付けられた」っていう話。
あ、なんか素敵な瓦屋根。神社かしらん
まってろよ~神社
吉田神社はあそこ。
「手筒花火発祥之地」って看板がある所。
ここが国道沿いの入口みたい
金柑丸・城守護稲荷社
立て看板によると。
金柑丸稲荷社は、開運出世、金運のお稲荷さんで、歴代の城主の名がずらずら並べられてて、みんな “ 移封を命じられ出世していった ” みたいに書いてある。
移封っていうのはお国替えのこと。
この場所は、西と東の中間点で東海道の要所だったからね。
吉田城の城主は、牧野古白に始まり、戦国時代を経て、徳川の三河統一によって酒井忠次の配置、家康の関東移封による池田輝政の入場と続き、江戸幕府成立後は9家22代の譜代大名が城主となりました。
だけど、歴代城主の禄高は3万から7万石。サラリーマンのごとく転勤につぐ転勤を命じられてた人たちだから、経済的にも疲弊していたでしょう。吉田に菩提寺を作る大名も少なかったと聞きました。あてがわれた城を整備する余裕なんてなかったよねきっと。
吉田城は、池田輝政 ( 15万2千石 ) が城を拡張整備してから、以降、完全に整備されないまま明治期を迎えたのだそうです。
よく出世稲荷ってあるけど、仏教でいう在世離脱の意から転じた話で、「出世稲荷にお参りすると出世する」というのは違うんじゃなかったっけ?
看板に名を連ねるお殿様は、ここで豊かだったかというと、そうじゃない。
でもこの地を離れた諸大名は“ 栄転 ”なんだよね。うん、じゃやっぱり出世なんだ。
そして こちらが吉田神社
八岐大蛇 ( ヤマタノオロチ ) 退治で知られる 素戔嗚尊 ( スサノオノミコト ) を祀る神社です。
こちらはもっと古く、鎌倉時代から源頼朝をはじめ多くの武将が崇拝した神社だそうな。
鎌倉の、あの頼朝さん、話に出てきちゃいました。
何故この神社が、武将に人気だったか。
それはスサノオの一番の御神徳 ( ご利益 ) は、武運と言われてるからじゃないのかな。
なんたって八岐大蛇 ( ヤマタノオロチ ) 倒したんだもの、戦に勝利した側面からも、
東海道を渡る武士たちにとって、東西の分岐点でもって、武運を祈るというのは大事なことだったんじゃないかしらね。
ここは「手筒花火発祥の地」だそうな
目印にもあったように、ここは「手筒花火発祥の地」だそうな。
怨霊退散の手段として花火をあげたことが豊橋の「祇園祭」の起源と言われて、毎年7月の第3金曜日~日曜日に開催される「祇園祭」では、手筒花火が約300本、隣を流れる豊川(とよがわ)河畔で打ち上げ花火約12000本が奉納されるんだそうです。
豊橋おそるべし。
吉田神社の「祇園祭」も見たいし、安久美神戸神明社の「鬼祭」も見たい。
とよはし~、また来るど、とよはし~