Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

谷根千あたりをうろつく 4

上野方面から西日暮里に向かい谷中墓地のさくら通りを2/3ほど進んだところに、

天王寺の五重塔跡があります。

これが幸田露伴の「五重塔」のモデルであるとはつゆ知らず、、、、

露伴好きとは恥しくて言えない。

f:id:garadanikki:20160430040525j:plain露伴の「五重塔」は読んでいましたが (-_-;)

谷中感応寺、「谷中」って書いてあるのにねぇ。。。

 

【あらすじ】

腕はあるが愚鈍な性格から「のっそり」と呼ばれている大工の十兵衛が、谷中感応寺に五重塔を建てるという話を耳にし、是非自分に建てさせて欲しいと寺の朗円上人に会いに行く。

しかし、いままで感応寺の御用を務めていたのは川越の源太で、源太は十兵衛にとって先輩であり棟梁のような存在の人。十兵衛の立候補に何よりも怒っているのは、源太よりも女房のお吉や源太の弟子の清吉だった。

上人は十兵衛の熱意を知り、模型を見てその技術にほれ込むが、十兵衛と源太の両人を呼び、どちらが仕事をするかは2人で話し合うように諭す。

源太は上人の意向をくみ十兵衛の家に行き、一緒に作ろうと提案する。しかし十兵衛はうんと言わない。十兵衛の中には、作るなら自分ひとりでやる、そう出来ないなら降りるという選択肢しかないのである。

源太は途方に暮れ辞退をし、塔の建設は十兵衛が担うことになった。

源太は智恵や仕事仲間を貸そうとするが、それも断られて怒りは頂点に達する。

工事が開始すると、十兵衛の意気込みは凄まじく、源太の弟子清吉に襲われて片耳を失っても仕事を休もうとしない。

その意気込みが現場を動かし、五重塔は見事に完成。

落成式前夜、江戸は暴風に襲われたが、十兵衛は動かず。

「塔の倒れるときが自分の死ぬとき」と心に決めているからだ。

一夜明けると江戸じゅうは大きな被害を受けていたが、十兵衛の建てた五重塔は無傷で建っていた。

って話。

 

2人の男がプライドをかけてしのぎを削るお話なんですが、女房の描写が好きでした。

物語の第一章も、源太の女房-お吉のくだりから始まるんですよね。

鉄火肌の女房が良人 ( うちのひと ) が建てるはずの五重塔なのに、あんなに面倒を見てやった のっそりめ が、上人様に願い出たとは、まあ悔しという場面なんです。

何心なくいたづらに黒文字を舌端でなぶり躍らせなどして居し女、ぷつりと其を噛み切ってぷいと吹き飛ばし、火鉢の灰かきならし炭火体よく埋け、芋籠より小巾とり出し、銀ほど光れる長五徳を磨きおとしを拭き胴壺の蓋まで綺麗にして、さて南部霰地の大鉄瓶を正然かけし後、~」なんていう記述が流れるように続き、五重塔を請け負うのが誰になるか、イライラしながら結果を待つ女房の心情が伝わってきました。

 

一方、のっそり十兵衛の妻-お浪は、うちの人が分不相応なことを言い出して、親方にそむくなど、お上さん ( 源太の妻-お吉 ) に合わす顔がない。とさめざめ泣くんです。

そんな女房たちですが、2人とも亭主に指図はせず、ただヤキモキするという存在。

作者は男達の心情に加えて、妻たちの心情もキチンと加えることで物語に厚みを出しているように思いました。

 

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さて、そんな五重塔に関して、知らなかったことがもうひとつありました。

露伴といえば、自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵)」と呼び、幾度となく住まいを変えた人。

向島でも2~3箇所、関東大震災で向島の井戸に油が交じったことで住みにくくなり、

小石川に移ったというのは知っていましたが、ここ谷中にも2年間住んでいたのです。

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それがココ。

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現地は朝倉彫塑館の裏手にあります。

チラリと見えるのは、彫塑館の屋根に建つ彫刻(笑)

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この看板の後にあるサンゴジュ ( 珊瑚樹 ) は、露伴が居住していた頃からあったものなんですって。

露伴は、明治24年1月からほぼ2年間、ここ下谷區谷中天王寺町21番地に住んでいたそうです。

 

ここから墓地に沿った銀杏横町を歩き、左に曲がると五重塔があるんですが、

この場所から日々五重塔を眺めていたようです。

こんな眺め。

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消失していなければ、電信柱の向うに五重塔が見えていたんでしょう。

 

天王寺の五重塔は、

寛永21年 ( 1644 ) 感応寺 ( 天王寺の前身 ) の五重塔として創建され、

明和9年 ( 1772 ) 2月に焼失、

寛政3年 ( 1791 ) 棟梁八田清兵衛らにより再建されたもの。

露伴は明治24年11月に、この清兵衛をモデルとして「五重塔」を発表したんだそうです。

 

現在、五重塔はありません。

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ここが跡地

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石碑と看板、礎石や束石に写真しかない。

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思ったよりも小さい。。

でもここに建っていたのは総ヒノキ造りで高さ11丈2尺8寸 ( 34.1m )は、

当時関東で一番高い塔だったんですって。

 

これがありし日の五重塔の写真。

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現地に貼ってあったものなので、ビニールがてかってますが、、、

震災・戦災にも遭遇せず、谷中のランドマークになっていたのに、

昭和32年7月6日に放火により焼失してしまいました。

これが燃えちゃった五重塔

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「谷中五重塔放火心中事件」

火の手は7月6日午前3時45分ごろに上がり、火の粉は塔から50m離れた地点にも降り注ぎ、心柱を残してすべて焼け落ちた。

焼失後、焼け跡の心柱付近から男女の区別も付かないほど焼損した焼死体2体が発見された。わずかに残された遺留品の捜査で2人は都内の裁縫店に勤務していた48歳の男性と21歳の女性であることが判明した。

遺体から金の指抜きが見つかり、当時そうした指抜きは洋裁師しか使っておらず、そこから身元がわかったという。 現場には石油を詰めた一升ビンとマッチ、睡眠薬も残されており、捜査の結果、男女は不倫関係の清算を図るために焼身自殺を図ったことがわかった。

 

うーん何とも残念な話。

男女の心中も気の毒ですが、重要文化財を燃やしてしまうなんて。

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立て看板の下にこんな文章が。

「文化財を大切にしましょう」 むむ、何だか意味深。

この看板の文化財は、大切にされず燃やされてしまったんですものね。

 

おまけのにゃんこたち

でかっ

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ねぇ、どこ行くの? お顔みせて

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あらま、ペルシャ猫ちゃんだったのね

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裏路地のお子たち

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このお家の門の所に、いつもいるお子たちです。

もう一匹は遠くでカリカリやってました。

ひとなつっこくて良いこなんです。