井上靖著「
この小説は《捕陀落渡海》という荒行に翻弄された僧侶の物語です。
どんな短編かの前にまず、この本を読んだ経緯からお話したいと思います。
私は和歌山については、那智の滝とみかんくらいしか知りませんでした。
コロナが一段落したら是非一度訪ねてみたいと思い、観光名所を調べていたところ、
《
捕陀落渡海とは、浄土信仰の捨身行
那智の浜は「捕陀落渡海」の霊場になっていて、
ここから多くの観音信仰の行者が船出していったそうです、
こんな舟に乗って・・・。
こちらは捕陀落山寺境内にある復元された舟。
船上の屋形の前後左右を4つの鳥居が囲んでいます。
鳥居は「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」を表わしていて、
修験道の作法では、死者はこの四つの門をくぐって浄土往生するということだそうな。
舟は、行者の棺桶
行者 ( 渡海人 ) は、生きたままこの舟に乗り、屋形は外から釘付けにされ、沖まで運ばれ流されます。
屋形の中には、経文と身の周りの品、30日分の食糧と灯火のための油を備えられます。
白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱は切られて波間を漂い、
風に流され、いづれは沈んでいくとのこと。
行者 ( 渡海人 ) は舟が沈むまでの間、密閉された屋形の中でひたすら経を読み、
死後、観音浄土に生まれ変わることを願い、入水往生を遂げます。
要するに 生きながらの水葬なのです
桃山時代まで続いたこの捨身行は、江戸時代に入ると亡くなった遺体 ( 捕陀洛山寺の住職 ) を水葬するという形に変化していったそうです。
熊野那智の渡海の場合は、原則として捕陀洛山寺の住職が主体でしたが、いくつかの例外があります。
下の写真は、捕陀洛山寺境内にある石碑で、25人の渡海者の名前が刻まれています。
平安時代に5人、鎌倉時代に1人、室町時代に9人、桃山時代に3人、江戸時代の6人。
25人の中には、2人の武人と1人の出家した公家が含まれています。
残り22人の僧侶の内、ただ一人だけ「上人」という称号がない人がいます。
その人こそ、小説「補陀落渡海記」の主人公-金光坊です。
金光坊が一人だけ「上人」の称号無しなのには、わけがあります。
彼は自らの意思で補陀落渡海の行者となったのではなかった。
そして。
補陀落舟から脱出した後、役人によって海に投じられて亡くなったのです。
井上靖さんは、史実を元に金光坊が補陀落渡海に至る心理的苦悩を描いています。
史実では「此寺の住職にてもや有りけん」と不確かな形にされていますが、
作品では、熊野那智の渡海の主体の寺である捕陀洛山寺の住職であったとしています。
下図は石碑に刻まれた名前と、他の資料からわかったことをまとめたものです⤵
年 | 西暦 | 前回から | 名前 | 年齢 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
貞観10年 | 0868年 | 慶竜上人 | 最初の渡海者 | ||
延喜19年 | 0919年 | 51年後 | 祐真上人 | 2人目。奥州からの希望者 | |
1100年 | 某上人 | ( 台記に記されている ) | |||
天承元年 | 1131年 | 212年後 | 高厳上人 | 3人目。 | |
寿永03年 | 1184年 | 053年後 | 平 維盛 | ( 平家物語諸本に記されている ) | |
天永03年 |
1233年 |
049年後 | 下河辺 | 下河辺行秀という武人 ( 吾妻鏡に記されている ) | |
嘉吉03年 | 1443年 | 210年後 | 祐尊上人 | 43 | 4人目。 |
文明07年 |
1475年 |
032年後 | 弘房 | 53 | 万里小路冬房 ( 続史愚抄に記されている ) |
明応07年 | 1498年 | 022年後 | 盛祐上人 | 38 | 学徳の誉高いと聞かされる |
享禄04年 | 1531年 | 033年後 | 祐信上人 | 43 |
金光坊が儀式を教わった人。奇行の多い足駄上人 |
天文08年 | 1539年 | 08年後 | 光林上人 | 21 | |
天文10年 | 1541年 | 02年後 | 正慶上人 | 61 | 住職。金光坊の師、立派な方であった。 |
天文11年 | 1542年 | 01年後 | 善光上人 | 18 | |
天文14年 | 1545年 | 03年後 | 日誉上人 | 61 | 住職。 |
弘治02年 | 1556年 | 11年後 | 梵鶏上人 | 42 | |
永禄03年 | 1560年 | 14年後 | 清信上人 | 61 | 住職。 |
永禄08年 | 1565年 | 05年後 | 金光坊 | 61 | 61歳で渡海した3人の住職に続き、慣例に従い |
天正06年 | 1578年 | 13年後 | 清源上人 | 17 | 金光坊の弟子、ずっと師をみてきた。 |
文禄03年 | 1594年 | 16年後 | 心賢上人 | ||
寛永13年 | 1636年 | 42年後 | 清雲上人 | ||
承応元年 | 1652年 | 16年後 | 良祐上人 | 示寂 (遺体を流す) | |
寛文03年 | 1663年 | 11年後 | 清順上人 | 示寂 (遺体を流す) | |
貞享03年 | 1685年 | 22年後 | 順意上人 | 50 | 示寂 (遺体を流す) |
元禄06年 | 1693年 | 08年後 | 清真上人 | 示寂 (遺体を流す) | |
享保07年 | 1722年 | 29年後 | 宥照上人 | 53 | 示寂 (遺体を流す) |
10人目の祐真 ( 足駄 ) 上人から、金光坊の下18人目の清源上人までとの関わりが、
小説に描かれています。
※ クリーム色の背景の人たちです
補陀落渡海記あらすじ
補陀落渡海の霊場である補陀洛寺の僧侶である金光坊は、かつて7人の僧侶の渡海に立ち会ってきました。
享禄4年に渡海した祐真 ( 足駄 ) 上人からは補陀落渡海の儀式を教わり、
2人の病弱の若い僧侶 ( 光林・善光 ) の渡海を見送り、
1人の先輩僧侶 ( 梵鶏 ) と、3人の先輩住職 ( 正慶・日誉・清信 ) の渡海に立ち会っています。
補陀洛寺はその寺名が示す通り、補陀落信仰の根本道場で、補陀落往生せんと願うものが集う寺でした。
しかし寺の住職自らが渡海せねばならない掟はどこにもなかったのに、金光坊の前の住職がたまたま三代続いて61歳で渡海したことから、世間では「補陀洛寺の住職は61歳になると、その年の11月に渡海するものだ」といった見方がされるようになってしまいました。
金光坊も住職になったからには、自分もそうした心境に立ち至れば渡海上人として船出しないものでもないくらいは考えていました。
しかし三代前の正慶上人の渡海の立派さを思った時、鈍根の自分は更に何年かの修行が必要だと思っていました。
金光坊は、自分がその心境になるまで何年か先に延ばしてもらおうと理解を求めましたが、渡海を信じる者は10人や20人ではなく、彼は好むと好まざるに関わらず、渡海を余儀なくされました。
そんな金光坊の補陀落の儀式は、更に悲惨でした。
補陀落舟はかつての上人たちのそれより小さく、乗船場もなく、儀式そのものも簡便でした。
これまで渡海する舟は、綱切島で一夜を明かし、そこで同行者とも別れを惜しんで出発することになっていたのに、天候が悪化したという理由で同行者の船は、金光坊をさっさと海上に残して帰ってしまったのです。
金光坊はただ1人取り残された舟で一時過ごし、目覚めるとありったけの力をこめて屋形の板に体をぶつけました。5~6回同じことをしている内に屋形の板がはずれ海中に放り出された彼が流れ着いたのは綱切島の荒磯でした。
死んだようになっていた金光坊を発見したのは昨日別れた同行人でした。
金光坊は荒磯で食事を供され、その間 僧侶たちは顔を寄せ合い、長いこと相談していました。
やがて漁師に一艘の船を運ばせると、金光坊は再びその舟に乗せられ海上に捨て置かれました。
小説は、史実と違うところもあるやも知れません。
しかし、金光坊以降、補陀洛寺の住職が61歳で渡海することがなくなったのは事実です。
金光坊の渡海の始終が伝えられたことにより、補陀洛寺の住職の渡海に対する世間の見方を改めさせたものと思われます。そしてその代わり、補陀洛寺の住職が物故すると、その死体を補陀落渡海と称して流される習慣になりました。ただひとつの例外を除いて。
その後、生きながら渡海したのは、金光坊のお付きの僧侶 清源であった。
これが物語のラストです。
感想
捨身行という何とも残酷な史実に、暗くて重くて胸がはりさけそうな気分になりました。
しかし一番辛く感じたのは、捨身行そのものより「こうあるものだ」という民衆のヒステリックなまでの信仰心に対してでした。
作者は、金光坊の内面の苦悩を静かなタッチで描いていきます。
金光坊が立ち会った先人たちのキャラクターが見事に描き分けられていくなかで、
金光坊の苦悩がマックスに達すると、深く重く静かに物語は終わります。
ラストは、金光坊の身の周りの世話をしてきた清源という僧侶が渡海した、という記述で終わるのですが、彼がどんな想いで ( 生きながらの最後の ) 渡海者となったのかを想うと、心が引き裂かれそうになりました。
読了後、補陀洛寺の石碑をあらためて見て、
ただ1人「上人」の称号を与えられなかった金光坊の文字に胸が締め付けられました。
勝手な想像ですが、金光坊の弟子-清源が補陀落渡海の道を選んだのには、
金光坊の最後に立ち会い、師の無念を見たからではなかったのか、、、
その心中はいかばかりかと、何日もそれを考えてしまいました。
本日の朝ごはん
冷たい蕎麦を、温かいつゆにつけて・・・
本日の夜ごはん
どなたかが作っていた一品で、美味しそうなので作ってみました。
キュウリをジプロックの中に入れて叩き割り、
ツナと塩昆布を加え、少量の酢と胡麻油で和えたものです。
酢を入れる? とちょっと意外でしたがこれがいい!
サッパリとした中に、塩昆布の塩加減があいまって美味しいおかずになりました。
とじ込みは、「補陀落渡海記」と他資料からの覚え書です
祐信上人とは
金光坊より16歳年上の同郷 田辺出身の僧。
いつも足駄ばかり履いていて奇行が多く、寺でも何となく変わり者として特別扱いされていたが、突然物にでも憑かれたような恰好で捕陀落渡海を宣言して周囲を驚かせ、宣言してから三か月目に実際に渡海を実行、43歳だった。
祐信はよく金光坊に自分は捕陀落が見えるというようなことを言った。どこに見えるかと聞くと、海の果に転機のいい日ははっきり浮かんで見えると言った。自分の心を空しくして仏の心に帰依した者にはだれにも捕陀落は見えるはずだ。お前もその気になって信仰生活に徹すれば必ず自分と同じように捕陀落が見えてくるだろうと言った。
正慶上人とは
渡海する年の夏、上人の部屋にはいって行った金光坊に、正慶上人は何かの話のはずみで、広い青海原で死ぬのはいいものじゃろうよと言った。死ぬんでございますかと金光坊は聞いた。この時まで金光坊は捕陀落渡海が海上での死を意味すると考えたことはなかった。死ぬには違いなかったが、捕侘落へ渡り、永遠の生を得ることが目的であるはずであった。そりゃ、死ぬ。死んで海の広さと同じだけある広々とした海の底へ沈んでいく。色んなうろくずの友だちになる。そういって上人はいかにもそのことが楽しそうに屈託なく笑った。
正慶上人はこの時ばかりてなく、渡海の舟へ乗り込む時も、また編切島から船出して行く時も、いつもにこにこしており、平生と少しも違わなかった。
日誉上人とは
この上人は正慶上人とは異なって病弱で気難しい僧侶であった。金光坊はこの人物に仕えた四年間は、気持ちの休まる時はない思いだった。寺の人からもみなおそれられていた。だから日誉上人の渡海が発表された時、そのことの意外さは兎も角として、吻とした思いを持ったのは金光坊一人ではなかった筈である。日誉上人は生に執着の強い人で、平生でも風邪ひとつひいたら大変な騒ぎであった。それが渡海の年の正月から持病の喘息がひどくなり医者にかかっても少しも効果はなく、自分でも自分の生命がこのままで行ったら幾らもないことを悟ったのである。そして突然どうせ六十一歳で病没するくらいならいっそ捕陀落渡海をと思いいたったものらしかった。
日誉上人は渡海の前日、自分の乗る舟を浜辺まで見に行った。その時金光坊は供をして一緒に行ったが、上人は舟を見た時だけ、少し不機嫌な顔をして、正慶上人の時もこのように小さな舟だったかと言った。金光坊は前の上人の場合はもっと小さかったと答えた。
渡海の日、日誉上人は舟へ乗り移る際、水際から船べりへ渡してある板の橋を踏み外して、片足を海水に浸した。この時日誉上人は誰にもそれと判る顔色の変え方をして、何とも言えず厭な顔をした。金光坊はこの時の上人の顔ほど絶望的な顔を見たことはなかった。
平維盛の那智における入水生譚~平家物語より
維盛一行が屋島を脱出し高野山を巡り、粉河寺を巡り、熊野三山を参詣し、最後に落ち着いたのが那智の海だった。滝口入道の説教を受けて維盛は那智の海岸に入水する。
下河辺六郎行秀の渡海~吾妻鏡より
源頼朝の御家人であった下河辺六郎行秀は、建久4年 ( 1193年 ) 4月、下野国の那須野において頼朝が主催した鹿狩りの折、優秀な射手22名が選ばれた。しかし、頼朝は側にいた下河辺六郎行秀に、勢子の中に囲まれた大鹿一頭を射ることを命じた。ところが、下河辺六郎行秀が放った矢は外れてしまった。これを見ていた小山四郎左衛門慰朝政が、とっさにその鹿を射た。失態を演じた下河辺六郎行秀は、その場で髪を切り出家、逐電し行方をくらました。出家名は智定坊と号した。その後の行秀の行方が分からなかったが、天福元年 ( 1233 ) 5月、北条泰時に宛てた智定坊の書簡一通が幕府に届き、将軍の前で読み上げられた。その智定坊書簡によると、紀伊国熊野山で『法華経』を読誦して修行していたが、やがて那智の海岸から捕陀落渡海に及んだという情報だった。
武内玄龍著『熊野巡覧記』寛政6年 ( 1794 ) より
補陀洛寺…此寺の住職にてもや有りけん、今も古来の儀式とて、此寺住持僧死期に臨みて舟に乗せ海中へと水葬し、補陀落渡りと云由。中此、金光坊と云僧住職の時、例の如く生きながら入水せしむるに、此僧甚だ死をいとい命を惜しみけるを、役人是非なく海中へ押入ける。是より存命の内に入水する事止りぬ。今に金光島とて綱切島の辺に有。今は住僧入寂の後に其儀式有と申し伝ふ。
参考資料
「南方往生の企て ~補陀落渡海の諸相~」 根井 浄
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30141/kbb09-02nei.pdf