「川崎に君の好きそうな施設があるらしいけど行く?」
電車の中刷広告で「日本民家園50周年」を見たというMOURI の誘いで出かけることにしました。
最寄りの駅は小田急線の向ヶ丘遊園駅。
向ヶ丘といえば同名の遊園地があり、小さい頃よく両親に連れていってもらった場所です。
遊園地は2002年に閉園し、今はバラ園だけがバラの季節だけ一般公開されているらしく、遊園地は廃墟になっているそうです。
短大が向ヶ丘遊園の通り道だったので、下車したことがありましたが、
今まで「日本民家園」なんて施設があることすら知りませんでした。
もう50年もやっていたなんて。
「君が好きそうな・・・」って
建物好きなら民家も好きなんだろうという思っているようですけど、
どちらかといえばわたし、明治から昭和初期にかけての普通の家が好きなんです。
ホントハ
でも、誘ってもらったのが嬉しいので行きます、行きますとも ♬
一軒目が見えてきた
その前に、見学コースを見てみよう。
凄い。
広大な敷地 ( 山の中 ) に20軒近い民家が移設されている。
そんなに民家があって、違うものなんだろうか。。。
最初の家がこちら。
「原家」川崎市中原区小杉陣屋町に明治44年に建てられたお宅だそうです。
各民家には、その家がどんな仕事を生業にしていたとか、いつ建てられた家であるとか、また図面などが展示されていました。
上を文字起こししてみました。
原家の家業
【肥料問屋】
初代文次郎が天明4年 (1784) にはじめ、資産の基礎を築きました。
当時の詳細は不明ですが、明治期に商売を引き継いだ分家では、野田 ( 千葉県 ) の醤油粕や北海道のニシンの〆粕を扱っていました。
【土地経営】
小杉周辺のほか、丸子、井田、木月、用賀などに土地がありました。数人の差配を置き、地代の管理を任せていました。
【銀行】
明治33年(1900)、9代目文次郎は叔父の小林三左衛門と銀行を創業し、初代頭取となりした。行名を「玉川銀行」といいます。西明寺近くに本店を置き、馬込、洗足、用賀など、数か所に支店を開いていました。
【料亭】
昭和24年(1949)から数年間、料亭を開いていました。
店の名を「陣屋荘」といいます。通いの板前のほか女中を置き、主に一階南側の座敷を使って営業していました。時には結婚式や披露宴も行われたそうです。
なるほど。
ここいらの名士だったんですね。
黒光りする一枚板の上がり框の凄いこと。
日本間にシャンデリアっちゅうのも妙なものだが、料亭をしていた時の名残なんでしょうかね。
奥の部屋に家族と関係者 ( 使用人さん ) たちの写真がありました。
中央は家族なんでしょう、裕福そうで幸せな顔をしています。
先ほどの説明書きに「原家の暮し」というのがありました。
それによると、、、
原家は3世代の暮らす大家族で、そのほかに男女の使用人が住み込みでいました。
女中は多いときで7~8人、子供に1人ずつ付いていた時代もありました。
女中が結婚して辞めるときは、原家で嫁入り支度を整えたそうです。
また、広大な屋敷を維持するのに、大工、とび職、瓦職、植木屋など、さまざまな職人たちが毎日のように出入りしていました。原家では職人たちの食事の支度をし、盆暮れには屋号の入った半纏を配りました。職人たちは暮れの餅つきのほか、葬式など原家に何かあった折りはこの半纏を着て集まり、さまざまな役割をこなしました。
このほか、原家では県会議員も努めたこともあり、陳情等に早朝から人が訪れました。近所の子供たちもまた、原家の庭を公園のようにして遊びました。原家は待ちの中心として地域を支え、また支えられてもきたのです。
一番左の人が着ているのがその半纏かも知れません。
北側の鴨居の上にこんな箱がありました。
何に利用する箱かはわかりませんが、ここに書かれているのが「原家」の家紋かと思います。
北側の居間から南側を見渡した写真です。
縁側の先の景色には緑しか見えません。
いい場所に移築されたものですね。
凄い、図面をこんな上等な木材に印刷するなんて。
一軒目から、その豪華さに圧倒されます。
原家の居間では「移築される時の映像」を見ることが出来ました。
でも、この調子で見ていったのでは半日かけても見回れないかも、、、でも大丈夫。
原家は上がり込んで隅々まで見られましたが、ほとんどの家は土間から見るような簡単のものでした。
藤が綺麗。
4.三澤家は大規模な改修工事中でした。
一階建ての家の下がそっくり掘り起こされてます。
一軒建てるよりお金も手間もかかりそう。
三澤家は、長野県伊那市西町に19世紀中期に建てられたものだそうです。
伊那街道の伊那部宿にあった薬屋で、屋根き石置きの板葺き。江戸時代には組頭役を代々努めていた家柄だったので、門構えと前庭月の式台が許されたのだそうです。
なるほど、民家と一口に言っても、
当時の役職によって造りに差があるんですか。
そういうことを知った上で再訪したらもっと楽しめるのでしょう。
実は、
わたくしとしたことがカメラの電池を充電しそびれて出かけてきました。
ほぼエンプティーのカメラを切ったり入れたり、だましだましして撮った写真が数枚。
その分、心に焼き付けて見学をしたものの、
あとから見返すことが出来ずに、ほとんどんの家がごっちゃになってしまった。
1.鈴木家 福島県福島市松川町本町 19世紀初期
順番が前後しますが、奥州街道にあった馬宿だそうです。市に向かう馬方と馬が泊まる宿屋で、土間に内馬屋を設け、そこに十数頭の馬がつながれていたそうです。
5.水車小屋 長野県長野市上ヶ屋 19世紀中期
車輪の直系3.6mの水車小屋。
これで蕎麦を打っていたんですね。
6.佐々木家住宅 長野県南佐久郡佐久穂町 享保16年 (1731)
千曲川沿いの明主の家。
降雪量の少ない地方のため、柱や梁は比較的細い材を使用している。いわゆる「兜造り」
7.江向家 富山県南砺市上平細島 18世紀初期
あら、一昨年行った白川郷と同じ合掌造りです。
確か富山県の建物のはずなのに、、、
説明書がありました。
上の説明書きを起こしてみました。
富山県の五箇山地方は、岐阜県の白川地方とともに合掌造りで知られています。しかし、それぞれ特徴があり、五箇山でも庄川本流と支流の利賀谷 ( とがだん )とでは違いがみられます。
この建物は庄川本流系で、「妻入り」「正面に茅葺の久を付けた入母屋造り風」「田の字型の四間取り」といった特徴を持っています。
床上には、下手に囲炉裏のあるデイとオエ、上手にオマエとヘヤが並んでいます。
デイは接客用、オエは日常生活の場、ヘヤは寝室、オマエは正式な座敷です。
このオマエは畳敷きで、浄土真宗が盛んな地域のため仏間が設けられています。
8.山田家 富山県南砺市桂 18世紀
江向家と同じ富山県南砺市から移築されたこのお宅も合掌造りで、立派な仏間がありました。
仏間からの眺めは素晴らしい。
川崎市の山々を背中にした長野県南佐久郡の佐々木さんちを眺めるこの家は、富山県南砺市の山田さんち。
9.野原家 富山県南砺市利賀村利賀 18世紀後期
野原家の合掌造り、
昨年行った白川郷と同様囲炉裏の上には半畳ほどの板がぶら下がっていて、熱い空気が上に逃げないようになっていました。
「なんさか、結構同じ地域から移築されてない?
よく見れば違いがあるんだろうけど、、、なんか 飽きてきたよね」
そんなこと言ってたら、心を見透かされたようにいきなりの沖縄か?
12.沖永良部の高倉 鹿児島県和泊内城 19世紀後期
いえいえ、沖永良部嶋でした ww
ソテツなんかも植わっていて、ここだけ南国になっていたのが可笑しい。
13.広瀬家 山梨県甲州市塩山上萩原 17世紀末期
切妻屋根で、軒が低く壁が多い閉鎖的な作りです。
それにしてもこの位多くの民家が集まっていたら、
茅葺も頻繁なんでしょうか。
どの萱も綺麗です。
15. 北村家 神奈川家秦野氏堀山下 貞享4年 (1687)
前の13.広瀬家に似ていますが、よく見ると違うのです。
この他と違って建物は建築年代がはっきりしています。
柱の先端に墨書が残っていて、理兵衛という大工の棟梁の名も記されていたそうです。
室内も明るく綺麗です。
囲炉裏が切られたヒロマは、竹簾の子と板の間があり、竹簀の子には筵も敷かれていました。
奥に見えるヘヤ ( 寝室 ) は畳敷き。
用途によって床が色々になっているのが興味深い建物でした。
16.清宮家 神奈川県川崎多摩区登戸 17世紀
前の15.北村家とは対照的に、この家は三方土壁で塞がれた閉鎖的な造りです。
南側も腰まで壁があり格子窓も小さいので、内部もかなり暗いです。
これが江戸時代の民家の特徴なんだそうです。
18.蚕影山祠堂 神奈川県川崎市麻生区岡上 文久3年 (1863)
養蚕の豊作を祈るためにお堂だそうです。
萱の切り方が特徴的で、上の部分に雑草が生えていました。
民家園の素晴らしいところは、建物の後ろに電線やビルがないことです。
どの家の山を切り崩した傾斜に移築されていて、自然の樹木に囲まれています。
散策をしていると裏山から鳥の鳴き声が聞こえて来る。
なんとも贅沢なBGMでした。
訪れたのは、4月23日。
桜の花の絨毯も美しかった。
寒くも暑くもなく、陽も長いので
見学には一番良い季節だったと思います。
山を切り開いた場所を上っていくようなコースなので、
足腰の丈夫なうちに、是非またひとりで来訪してみたいと思います。
民家園の隣は、岡本太郎美術館。
残念ながら、16:30を回っていたので今回は入れませんでした。
杉林を抜けて帰る道。
生田緑地は奥深いものがある。
かなりくたびれたけど、面白かった。
また来ます。