北村薫さんのベッキーさんシリーズを読了しました。
ベッキーさんシリーズは、写真上の三冊です。
昭和初期を舞台に、上流家庭のお嬢様・英子(えいこ)とその運転手・ベッキーさんを主人公に、殺人から素人が考えた暗号の解読など、様々な事件を扱う軽いタッチの推理小説。
第一弾 街の灯 ( 単行本:2003年1月 )
第二弾 玻璃の天 ( 単行本:2007年4月 ) ← 第137回直木賞候補にノミネート
第三弾 鷺と雪 ( 単行本:2009年4月 ) ←第141回直木賞受賞。
主人公の英子は花村家の長女。女子学習院の生徒で、街の灯の当時は14~5歳。
花村家は相模の士族の出の上流家庭。
当主である英子の父は、日本でも五本の指に入る財閥系の商社の社長。
とても進歩的な考えを持ち主で、女性の運転手 ( 別宮みつ子 ) を娘の専属運転手として採用します。
別宮みつ子は、英子の学校の送迎などを担当するのですが、英子からは、彼女が読んでいたサッカレーの「虚栄の市」の主人公に因んでベッキーさんと呼ばれるようになります。
ベッキーさんは、博学で剣技や銃の扱いにも長けていますが、彼女の素性は謎に包まれています。
物語は英子の周りで起こる事件を、英子がベッキーさんの言葉をヒントに解決してゆく形で進みます。
個人的には、推理に至る説明が多少わかりにくい、というか読みにくく感じましたが、
謎解きより、本に描かれている昭和初期のエピソードが魅力的で一気に読んでしまいました。
例えば。
「鷺と雪」の第二話「獅子と地下鉄」に出て来るライオン像のジンクス。
また上野で組織されたナントカ団なる組織の描写。
友人の悩みを解決しようと、上野駅に1人降り立った英子でしたが、不良少女に拉致されてしまいます。不良少女たちにとって世間知らずの英子を騙すことなど赤子の手をひねるくらい容易な話でした。それを救うのは勿論ベッキーさん。
ナントカ団については、川端康成の「浅草紅団」でも描かれています。
昭和初期の浅草や上野は、関東大震災からの復興がままならぬ混沌とした街だったようです。
街には浮浪者、乞食、娼婦、ポン引き、踊り子などが溢れ、未成年の少年少女もたむろし
ナントカ団なる組織を作っていました。
第三話「鷺と雪」のカメラの話も面白い。
女子学習院の修学旅行には、当時まだまだ高級で手が届かなかったカメラをほとんど全員が持ってくるという驚きのエピソードをキッカケに謎解きが始まります。
第一話「不在の父」は、明治の三十年頃に実在の【松平 斉男爵の失踪事件】がモデルになっています。
・・・。
例えに挙げたのが三冊目のものばかりでした。
一冊目も二冊目も面白かったけれど、三冊目は特に油が乗っているというか登場人物があたたまっていたように思います。
本の巻末には、その話を書くために作者が読んだ文献がズラっと紹介されています。
こういうのを見ると、全部読んでみたくなるから困る。
興味がどんどん広がって収拾つかぬことになる (;'∀')
とりあえず読みだしたのが、サッカレーの「虚栄の市」ですが、
入手したのが非常に古い版なので少々てこずっています。
こちらは私の蔵書⤵
いずれも当時を知る上で、貴重なエピソードが詰まった宝物。
昭和初期の話や、皇族・華族などの本を読むときにパラパラ読み直しているものです。
『梨本宮伊都子妃の日記』は、元皇族妃がつづった日記なんです。
伊都子妃は筆まめで明治32年 ( 1899年 ) から昭和51年 ( 1976年 ) までの77年間に渡って日記をつけ続けたそうで、本紙は抜粋されたその日記に、当時の貴重な写真が添付されたもの、当時の日本を知る上で大変貴重な資料です。
日記ですから、私たちが垣間見ることの出来ないことも書いてあります。
例えば、明治天皇が我が家 ( 鍋島家 ) に行幸された、とかお付き合いのスケールが違うんです。
1958年に巻き起こった「ミッチー・ブーム」には、香淳皇后らと共に強く反発したことも書かれているんです。
こんな風に。
午前十時半、皇太子殿下の妃となる正田美智子の発表。それから一日中、大さわぎ。テレビにラヂオにさわぎ。
朝からよい晴にてあたゝかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考えた。 ( 昭和33・11・27 )
小田部雄次著『梨本宮伊都子妃の日記』p.370より
皇太子 ( 今上天皇 ) の御成約は、当時の日本国民には明るい話題だったろうが、
立場が違うとこういう考えもあるのかと興味深い話でした。
その伊都子妃ですが、 ( ベッキーさんシリーズの ) 英子が通ったとされる女子学習院の前身、華族女学校の出身です。
さて、話をベッキーさんシリーズに戻します。
物語は1932年 ( 昭和7年 ) の東京を描いていまして、英子の家が士族であることから、
軍人さん政治家など、国の中枢となる人々とも関わりがあり、
実際に知り合った軍人さんが、二・二・六に関わっていくという話も出てきたりする。
ベッキーさんの立ち位置
何不自由なく育つ英子が、色々なことに興味を持ち、事件を解決していく中で、
ベッキーさんは、常に影の存在です。
ベッキーさんは自ら乗り出して事件を解決するのではなく、英子が抱く疑問や好奇心に対して適切なヒントやアドバイスをします。
英子はベッキーさんから聞く話をどんどん吸収して成長していきます。
ベッキーさんはイエスマンかというと、そうではない。
英子の至らぬ考えを、静かに諫めたりもします。
こんな風に。
「でもね、先生は《願えば必ずかなうものです》とおっしゃったの。随分と無責任じゃないかしら」
「・・・さようでございましょうか」
「あら、だって、願い事なんて十に一つかなうかどうかでしょう。----簡単じゃないから、わざわざ、お願いするんですもの」
ベッキーさんは、少し間を置いて、
「・・・お嬢様。お嬢様とその先生では、どちらが年上でいらっしゃいます?」
「あら、おかしなことを聞くのね」
「先生の方が上ではございませんか?」
「勿論よ、もう、おじい様の先生」
「でしたら、様々なことを見てしらっしゃいます。《この世では、あれもこれも思いのままにならぬ》と知り尽くしていらっしゃるのでは?」
わたしは、ぐっと詰まった。ベッキーさんは言う。
「お嬢様がおっしゃったのは、失礼ながら《いうまでもないこと》でございます。先生が、それをご存知ないと、お思いになりますか?」
「・・・・」
「別宮には、そのお言葉が多くの哀しみに支えられたものに思えます。----お若いうちは、そのような言葉が、うるさく、時には忌まわしくさえ感じられるかも知れません。---ですけれど、誰がいったか、その内にはどのような思いが隠れているか、---そういうことをお考えになるのも、よろしいかと存じます」
わたしは一言もなく、頷いた。
『鷺と雪』第三話「鷺と雪」p.232より
この辺りが、謎解きはディナーのあとで、の影山と違うところ ( ´艸`)
まあ、あれはあれで面白かったけれど、ベッキーさんは違う。
ベッキーさんが、本当にしたかったことは「若い人を見守り育てること」だったのです。
シリーズ完結編のラストは、とてもお洒落な終わり方でした。
ベッキーさんの出番は、ラスト11ページを残すところで終わってしまいました。
しかしそのシーンは実に印象的でした。
「ベッキーさんって、本当に何でもできるのね」と英子に言われた彼女は、こう言います。
「お嬢様、----別宮が、何でも出来るように見えたとしたら、それは、こういうためかも知れません」
「はい?」
ベッキーさんは、低い声でしっかりと続けた。
「いえ、別宮には何も出来ないのです----と」
「・・・・・」
「前を行く者は多くの場合----慙愧の念と共に、その思いを噛み締めるのかも知れません。
そして、次の昇る日の、美しからんことを望むのかも----。
どうか、こう申し上げることをお許し下さい。
何事も----お出来になるのは、お嬢様なのです。明日の日を生きるお嬢様方なのです」
あまりにも面白くて、どんどん読んでしまいましたが、
ひとつひとつの話にまつわる実際のエピソードを知ることで、もっと味わい深いものになるのでしょう。
巻末に列記された参考文献の数々。
全部は無理でも読んでみたいと思います。
そしてそれを読んだ後に、もう一度ベッキーさんシリーズを読み直してみたいと思い、
とりあえず本を置きました。
女子学習院のお話
主人公が通う女子学習院は、宮さまや伯爵令嬢、侯爵令嬢が通う学校。
学習院といえば目白と、現在の学習院をイメージして読んでいましたが、
当時の女子学習院は、北青山二丁目にあったことを知りました。
下の地図は、関東大震災直前 100年前のものです⤵
拡大してみると、、、「女子学習院」の文字があります。
女子学習院の建物は、昭和11年頃の航空写真にもハッキリ写っています。
女子学習院の敷地の上の、風船を膨らませたような建物は、野球場。
そう、神宮球場です。
女子学習院のことは今回のベッキーさんシリーズで初めて知りました。
以前は永田町の御料地に「学習院女学部本館」があったのが火災により、
青山練兵場跡地を借り入れ、大正7年に新校舎が竣工したのだそうです。
当時、東宮御所の隣のここ一体、こんな大きな敷地は青山練兵場だったのも驚きです。
皇と兵が今より深い関係にあったからなのかしら。
下は、明治の終わり ( 約110年前 ) の地図⤵
大正7年に建てられた新校舎は、学習院学制改正により学習院女学部から、
女子学習院となりました。
しかしここも、昭和20年5月に空襲により焼失。
昭和20年~25年の写真には、建物がなく更地になっているのがわかります。
女子学習院は、戦後豊島区、今の目白学習院に移転し、
青山の跡地は、昭和22年 ( 1947 ) 東京ラグビー場となりました。
※ 現在の秩父宮ラグビー場。⤵