今、つらつらと読み出している本がこの一冊
読書の先輩-よんばばさんが書評をお書きになっていらしたのを見て、
『草の花』の前作『俳風三麗花』を借りてきました。
hikikomoriobaba.hatenadiary.com
この本は、俳句会に集う三人の女性を通して昭和初期のようすが描かれています。
読みたくなった理由は、よんばばさんの下の文章に引き付けられたから。
「実際の歴史上のできごとや、川島芳子・甘粕正彦などの実在の人物と交流しながら話は進む。
のどかな中に、しだいにきな臭さが漂い、やがて激動の時を経て敗戦へ・・・。
その合間に俳句を挟み、句会の様子が描かれる。
特段俳句好きでなくても、興味深く楽しめる。」
俳句のことは、あまり知りません。
「プレバト」でおっちゃん ( 梅沢富美男 ) や東さん ( 東国原英夫 ) が作った句を、
夏井いつき先生が添削する、あの軽妙なやりとりを愉しむくらいで、
俳句についての知識も関心も薄いのだけれど、
この本を通して句会のルールを知り、実際その場にいるようにワクワクしています。
物語は、俳人-秋野暮愁先生宅で行われる、三人の若い女性と 四人の殿方 ( 写真館の主、古本屋の主、会社員、筆職人 ) の句会の様子を主軸に、彼女たちが生きた昭和初期の出来事がつづられています。
女医の卵-池内壽子は、両親を先の関東大震災で亡くしている。
阿藤ちゑは、物理学教授であった父を亡くしたばかり。父が亡くなった日は 五・一五事件の翌日だった。
芸者の松太郎は、お座敷で中村吉右衛門 ( ※1 ) と懇意になった。
・・・など、彼女たちの周りで起きているのは、歴史的に有名な話ばかりです。
※1 本作に登場する「中村吉右衛門」は初代。現・二代目 吉右衛門の祖父。
その他、句会のメンバーの雑談に、中村屋のカレーの話や、東京市が三十五区になった話や、煙突男の話など時世の話題がバンバン出てきます。
北村薫さんのベッキーさんシリーズや、浅田次郎さんの天切り松闇がたりに匹敵する、
私の興味のど真ん中の内容。
北村薫著 ベッキーさんシリーズを読んで - garadanikki
そんな本だから、サクサク読めるかというとそうではなく、
あっちにつまづき、こっちに道草の読書。
今は、暮愁庵がある日暮里渡辺町あたりの話でとまっています。
日暮里渡辺町とは
日暮里渡辺町は、日暮里 西口駅から右手・北に進んだところにあります。
昭和7年の新東京市の編成で、荒川区になってしまった場所ですが、
谷中に隣接していたことから、当時の住人は下谷区に属したかったエリアです。
そもそも渡辺町というのは、こんな場所だったそうです。⤵
上野から田端にいふる高台の一角、江戸開府のころに太田道灌が出城をきづいたといわれる丘陵の斜面に建てられた町である。
この地はかつて邸を持っていた秋田の殿様の名にちなんで<佐竹っ原>と呼ばれ、孟宗竹のおいしげる荒僻の地であった。菰狸がひとを化かしていたようなこの淋しい場所に、渡邊銀行を営む渡邊治右衛門が、上下水道、瓦斯、電話の完備した住宅地を拓いたのは大正五年、欧州の大戦のおかげで景気が上向きはじめたころだったと、ちゑは暮愁先生に聞いたことがある。新しいもの好きの金持ちがつぎつぎと家を建て、渡辺町に愛妾を住まわせた。どの家にも<何々寓>という表札がかけられたこの町を、もとから日暮里に住んでいたひとびとは<お妾横丁>と呼んだのだそうな。
十年ほど前に帝都を襲った大震災で、<何々寓>の多くは崩壊した。代わりに暮愁先生のような大学教授や丸の内に通う堅気の勤め人などがこの町に一家をかまえるようになり、しだいに<お妾横丁>なる別称もすたれていった。やがて、昭和の御代になった直後の不景気で渡邊銀行はあっけなく倒産したが、渡辺町という地名は残された。
三田完 著『俳風三麗花』とら、とら、とら p.9より
コロナが終息した暁には是非、この辺りをぶらりしてみたいと思います。
本日の朝ごはん
めずらしく和朝食を所望されました
おつけは、わかめと長ネギ
しらすとハンバーグと塩辛があったので、これでご飯を食べたいとのこと。
本日の夜ごはん
昨夜の前菜の残りでビールに始まり、
こうやって盛ると昨夜と別ものにみえる
鯵のたたきと、ヒレカツはMOURI が買ってきた。
トマトほうれん草卵とじ、おかひじきを添えて。
トマトとほうれん草をバターで炒めてコンソメ顆粒を加え、卵でとじた。
それだけ。
おかひじきは、茹でてマヨネーズと柚子胡椒で和えました。
デザートは、珈琲味のおいしいやつ❤
最近、ノンカロリーのペプシを箱買いしてゴクゴク飲んでます。
エクレアとペプシの相性は神です。
とじ込みは、「俳風三麗花」の文章と地図を対比させたもの。
道楽すぎます<(_ _)>
ついこのあいだの十月一日、それまで十五の区に分れていて東京市が近隣の郡部八十二を吸収し、計三十五区からなる新しい市に生まれかわった。
結果、市の人口は五百五十万人となり、東京は住民数においてニューヨークにつぐ世界第二位の巨大都市となった。
<祝大東京誕生>
三田完 著『俳風三麗花』おんな天一坊 p.80より
拡大画像|最新調査新大東京市三十五區全圖 : 新編入區界明細新市域交通明細
昭和8年の地図。
日本橋から渡辺町まで市電が通っていた路線も書き込まれています。
愁庵のある日暮里渡辺町は、いままでも目と鼻の先の谷中までが下谷区なので、なんとなく東京市の一角のような気がしていたが、厳密には北豊島郡のひとつの町であった。
だが、このたびの市制で、南千住町、尾久町、三河島町とともに新たにできた荒川区に属することになった。
三田完 著『俳風三麗花』おんな天一坊 p.81より
昭和7年作成の地図