火保図について、お尋ねがありました。
そういえば「火保図 火保図」と当たり前のように言っていた自分でしたが、
見たことも聞いたこともないのが普通であると気づきました。
先日、渋谷区の〇〇図書館に行った時も、
司書さんに「火保図はありますか?」と聞いて はてなな顔をされたので
「火保図とは、そういうものか」とあらためて思った次第。
そこで、今回入手した「火保図」を見ていただきながら、少し説明できればと思います。
これは渋谷西南火保図の全図です。
ゼンリンなど現在の住宅地図と違って、縮尺がページによって違ったり、
線画が正確とはいえないものもありますが、戦前・戦後の様子がわかる貴重な地図です。
「火保図」は正式には「火災保険特殊地図」といいます。
保険会社が保険料率の算定のため必要とし、昭和のはじめ頃から30年頃まで作られた地図です。
いくつかの製図会社が現地調査をして原図をつくり、それを複製して保険会社に納めていました。
特に有名なのは、沼尻長治によって昭和3年に設立された地図研究所と、その後身である都市整図社です。
一般的には1:600の縮尺で手書きです。
地番だけのものもありますが、一戸ごとの情報が記載されているものが殆どで、
細かいものは、建築物の構造、業種、住民の名前まで記入されているものもあります。
今回入手した火保図は、アパートの住人の名前まで網羅されていました⤵
これをアップするのは、個人情報にひっかかるかしら。
でも、60年以上前のものだから勘弁してもらおう。
事実 戦時中は「にっぽんこくの情報漏洩だ」と、憲兵さんに焼き捨てられることもあったようで、
社員は隠したり ( 空襲から守る為 ) 疎開先に持って逃げたり したそうです。
それでも無くなってしまった火保図があったのでしょうから、大損失です。
当時の火保図はその性質上、密集地の情報などがわかれば良いのですから、
多少 縮尺が不正確でも、多少 道が曲がっていても良かったのでしょう。
実際に今回 入手した地図を見ても、違うページを上下合わせたらピッタリ合いませんでした。
【ピッタリ合わない神山町の地図】
火保図は、不正確・雑多と言われ、低く扱われた時代もあったようですが、
昨今は、昭和期の街並み再現など、歴史研究に使われる貴重な資料となりました。
私の場合、重要な使い道とはいえません。ただ、地図が好きなのです。
昭和の文豪の家の表記や今は無き老舗の表記を見つけてウハウハしたり。
行ったことのある場所の地図は、見ているだけでワクワクします。
すさまじく大きな敷地を見つけると、表記された苗字を調べたくなります。
今でこそ、高級住宅地である大山町の公園が、昔は少年院だったなんて、驚きもある。
古い手書きの地図なので、この頁の続きがどの頁かまごまごしたり、
大きな幹線道路が当時まだ作られていなくて「私はどこ?」と地図上で迷子になったすることもあります。
そういう時 手がかりになるのが、川や寺社仏閣です。
意外と学校の敷地が小さくなったりするんです。
駅の位置も移動することがあるので、当てになりません。←渋谷駅も昔と位置が違います。
《川が手がかり》と言いましたが、今では暗渠になっていることも多いわね (;'∀')
しかし、それも面白い。
暗渠の道って蛇行しているので、地図上では妙に目立つんです。
「この道、蛇行してるけど、ひょっとして昔は川だったんじゃないか」と、
古地図で確認したら「やっぱり川だ」と、わかった時の感動はひとしおです。
ほとんどの人にドン引きされます。
こういう話になると、ほとんどの人にドン引きされます。
近いところでは、MOURI に。
『話を聞かない男、地図が読めない女』っていう本がありましたけど、
我が家は男女逆転しています。
ほんとうに一般的に女性の方が地図が苦手なんですかね。
今回「火保図」を見たいと思ったキッカケが、デヴィ夫人の鍋島邸の話でした。
先ほども掲載した【ピッタリ合わない神山町の地図】を見ると、
件の夫人の家あたり ( 赤丸 ) の下に、『麻生』と書かれた縦長の敷地 ( 黄丸 ) があります。
この場所は現在の航空地図でも凄いんだから。
今回、図書館に行くのに、この道を通りました。
ポリボックスがあって、おまわりさんにギロリと睨まれました。
要人の家らしい。
やっぱり、麻生太郎さんの家でした。
もうひとつ、興味深い表示がありました。
昭和31年作成の地図なんですが、
件の「鍋島邸」の跡地が「松濤ホテル」「USA Armed forces rest Hotel」となっています。
アメリカ軍 御用達ホテルってぇことかな?
接収されていたのかしら。
当時の状況や、写真はないかと調べてみましたが、わかりませんでした。
これはまた、都立中央図書館に出かけないとならないなぁ。