一昨日、百花文庫の志賀直哉「友への手紙」のお話をしたところ、
smoky (id:beatle001) さんから以下のコメントをいただきました。
追伸。里見弴宛の書簡はどんな内容のものだったでしょうか。わたしが読むとなると志賀直哉全集の書簡集からになるとおもいますので、もし手紙を書いた年月と簡単な内容を教えていただけたら、さがしてみたいとおもいます。お手間をかけてすみません。
年月と簡単な内容を抜き出して、と思いましたが、
年月日不明なものもあるので、全文と解説を投稿することにしました。
本ブログの中でも、さらにとりわけマニアックな内容です。
興味のわかない方は飛ばしてくださいましな。ほほっ (;^ω^)
志賀直哉から里見弴宛の手紙は、7通収録されていました。
とりあえず、1から順番に転載し、どういう状況で書かれたものか、
わかる範囲でまとめてみました。
1.明治四十五年七月十二日
麻布區三河台町⸺麹町區下六番町
病気や気候で具合の悪い所を手紙で一層気分を弱らしたのは承知でした事で今は矢張りお気の毒に思っている。
( 註、承知で下事でも、に傍線を引き、それへ結び付けて、欄外へ、悪意は少しもなかった、とあり。)
君と僕との関係は方法を講じてすぐどうか出来はしない。何度も繰り返すが、君自身の内に起こった力がいつも間にか解決してくれる、それを待つのだと思う。その力を養う努力以外にはない。持って生れた才能を愛しすぎて、努力を軽んじた傾が君の過去にはあった。君はこれからだ。今ずもしかすると一番大事な時かも知れない。後で考えた時非常に危険な時だったと思う時かも知れない。
今弱りきらないようにしなければ駄目だ。自分に愛想をつかしては大変だ。
僕自身が君を弱らすようなことをしながらいうのは変に思えるかも知れないが、僕はそうは思われない。撞着はしていないつもりだ。一年半前の僕と今の僕とは随分変わった所がある。この一年半の間を ( ある努力で ) 通り越してきた僕は前より強者になった。ヒロイズムでないにしろ君にも十分その欲求はある。が、或る所を通りぬけた僕は現在だは君より強者だ。僕には君に対してより強者としての力を振りまわそうというような心持は少しもない。君が君の或る所を通り抜けて、何の意味でもいい強い人間になって、互いに不可侵の交際が出来ることが、今の君の心持の向き方によってはきっとすぐ来るはずだと思っている。
あの小説は僕は他への義理からでなく続けて君が書くことを望んでいる。
手紙に書かれている小説が何なのか気になったので、小谷野敦さんのサイトで里見弴の年譜をくってみました。
小谷野さんは里見弴のことを大変に詳しく調べていらっしゃる作家さんです。
氏のHPによると、この手紙を受け取った前後はこんなことでした。
小説は、「廿五歳まで」のことと思われます。
1912 ( 明治45・大正元 ) 里見弴 25歳 志賀直哉 29歳
06月 | 05日 | 志賀宛葉書、シュニッツラーを一気に読了。その後一向元気が出ない。 |
06月 | 06日から 17日まで |
小説「廿五歳まで」の一を書く。 |
06月 | 10日 | 志賀来訪、「廿五歳まで」を見せる。 |
06月 | 17日から 7月4日まで |
「二」を書く。 |
07月 | 05日より | 「廿五歳まで」三を書く。 |
06月 | 25日 | 札幌から志賀宛葉書、つまらないものを書いて送った。 |
2.大正四年四月 ( 日付なし )
我孫子⸺麹町堰通り五丁目
我孫子は一昨日雨がなかった。昨朝も曇ってはいたが雨は降らなかった。十時ごろから少しずつ降り出した。
我孫子は朝一度の郵便配達しかない事は話したと思う。待ちぼうけさして済まないと思うくらいなら電報を打ってもらいたい。皆がそうしてくれるのに、僕が前にも同じことで怒っている君がかえってそれをしないのは君の余りにも無神経だと思う。
僕は同じことを何べんも君にいうのがイヤだからなるべく言わないことにした。君は僕だけにではないが余り礼儀がないと思う。行為の裏にある権威がある時だけ礼儀を無視していい場合もあろう。君の礼儀のない行為には何の権威もない。
ただダルだ。
君が最近に僕に感じさせた不快をいくつかあげることが出来る。しかし我慢しようと思った。しかし我慢しているのは損だと思い出した。
二十日は僕はいない。
3.( 同上のものと同封 )
君の小説を見ると生活の改造がよく出てくる。君にそういう要求があることはいい気持ちがある。あの小説がそのその時代だけを書いて現在の気持をいっていないとすると僕の推察が邪推になるが今も尚君が同じ心持でいるのだろうという気がしてくる。
君は強くなりたいと思っているのだろうと思う。ひとがどういう風に考えても自分だけ確かな動かされない者になりたいと思っているのではないかと思う。あるいはひとがどう自分を考えようと無関心でいられるようになろうとしているのではないかと思う。それなら強くなろうとは似たようで全く反対な道で、結果も似たようで反対なものだと思う。
僕は近頃手近なものから地道に実行したいという考えを持ち出した。
悪魔派的な考えを持った平凡な人ほど下らない不愉快なものはない、偉い人間が平凡な道徳的行為に忠実なのは感じのいいものだ。
よくは知らないがバルシファールの話はいい話だと思った。僕は自分の探しているものが手近にまず第一にとらねばならぬものがあったという気を昨今している。
下から固めていった塔は確かだ。
観念でビボウ ( 註、彌縫 ) した行為で生活しているくらい不安定な生活はない。ひとつひとつの行為に観念が必要になる。そしてそれは感じの悪い行為になる。
手近なものから固められていった行為はすべての行為に対し自らある正確な感じを持つ。観念的に行う必要はない。しかも観念的に行った行為より遥かに正しく愉快なものになる。
以上は君にいっているが自分にもいっているつもりだ。
一時間程前に書いた手紙が君を不快にすることを考えると自分でも不愉快になる。ですのをヤメようかと思ったが、変わった気持ちを付け加えれば一緒にです方が何もせずに葬るよりいいと思ったので出すことにした。僕は君に今は不愉快を持っていない。
二十一日には待っている。もし来られなければ電報をくれたまえ、人を待つ気持ちには相当に尊い分子がある。それを無駄遣いさすことは実際つつしむといい。
志賀さん、ドタキャンされたことでかなり怒っています。 ( 2の手紙 )
二人は子供の頃からのつきあいですが、人生のうちに何度も絶交をしています。
《絶交》を言い渡すのは志賀さんの方で、それなりの理由もある模様。
大抵は、里見さんが志賀さんをモデルにした小説や、癇に障る内容の小説を書いたりしたことが発端でした。
しかし。志賀さんも同じように里見さんをモデルにして小説を書いてます。
当時の文士は、お互いのことを書き合いっこをしていていました、すごーく沢山 ( ´艸`)
今回のドタキャンは、絶交まではいかなかったようですが、
こんな喧嘩 ( 小言 ) を繰り返しているのは親しい仲だからなのでしょう。
さて、書簡の日付は4月、日時は不明になっていますが、
小谷野さん作成の年譜を見ると、このいざこざらしきものは、2月にありました。
1915 ( 大正4 ) 里見弴 28歳 志賀直哉 32歳
01月 | 04日 | 志賀宛葉書、喜んで東上、今日は文楽に来る由会いたいが腹が悪くやめておく。 |
02月 | 02日 | 京都衣笠園内志賀宛葉書、鎌倉から勘解由小路と一緒だった。 |
02月 | 08日 | 志賀と待ち合わせるが待ちぼうけ? |
02月 | 09日 | 雨のため行かず待ちぼうけさせる。 |
02月 | 10日 | 志賀宛葉書、昨日約束したが天気悪く行けず。 |
02月 | 12日 | 志賀宛書簡、待ちぼうけさせて侘びがないので志賀から怒りの葉書、言い訳。 最近の伊吾に腹がたつなら仕方がない。 |
13日 | 突如39度の熱。 | |
14日 | 志賀の手紙を見て涙ぐむ。 | |
15日 | 志賀宛葉書、手紙拝見涙ぐんだ、ただの風邪らしい。 |
4.大正元年 ( 夏 )
芦の湯紀國屋⸺麹町區下六番町
僕は珍しく長閑な気分で少しも退屈なく暮らしている。涼しいのが如何にも不偶にいいような気がしてこのうえもなく愉快だ。これで仕事がなかったらなおいいように思う。
ほとんど何処へも便りをしないが、噂が出たらよろしくいってくれたまえ。友情に不公平のないように便りをしようとすると、毎日その為に一時間以上ついやさなければならない。退屈することがないので、それが何だか馬鹿げているような気がする。
君も1人で日光の奥か赤城のような所へ行くといいと思う。呑気な気でいて充実した生活か送れると思う。イライラした空虚な生活は一番イヤだ。
小説は東京を出て四十枚も書かない。これから勉強をする気だが、書き上げたら見て貰おう。そうして時があったらもう一度書き直そうと今は思っている。
便りを貰うと手紙を書きたくなりそうだからいらない。イライラした気分だのアップアップのパチルスだのがそれについて来ても困るし。
現在の状態が一ヶ月も続いてくれると、頭のためにも仕事のためにも都合がいいと念じている。
芦の湯紀國屋からとあるので、下の年譜から7月28日の手紙と思われます。
1912 ( 明治45・大正元 ) 里見弴 25歳 志賀直哉 29歳
07月 | 27日 | 箱根芦ノ湯紀ノ国屋方へ稲生と連名で志賀宛葉書 |
28日 | 芦ノ湯から志賀書簡。 |
5.大正元年 ( 月日不明 )
今少し長いものを書きかけている。それは二た月前から今までのことだ。君にに対する不快が初めに出てくる。出版の世話を頼んでおきながらその人のことを書いているのが、いかにも行為の趣味から矛盾でかなわぬ。もう世話になった分は仕方ないとして、これからの所を知らん顔してこっちの方でこれを書きながら君に頼んでおくことはツライ。今君が創作に気がむいているというので二重に悪い。
青木には気の毒だが仕方ない。青木に此方から改めて頼む。
僕はどうしてこう人に迷惑になることを書きそうにするのだろう。わりに安直な我儘からかも知れない。
現在では僕に少しの不快も君にはない。先日の稲生のこと両方に同情していた。しかし稲生も勝手な奴だと思った。この夏君に向って、君が君のこの間の小説で怒ったような失礼を働いているハズだということを思い出した。そう思うと黄身に負い目は少しもないワケだと思っている。今度稲生に会ったらそれを言おうと思っている。
僕は君に対して先と変わることは君にいうことを、ある場合はそのまま信じるには一度考えてみるようになることだと思う。別に悪いとは思わない。シンプルな僕の心持を複雑にしてくれる点でありがたい ( イヤミではない。 ) それに感情を害するようなことはないつもりだ。場合によって自分がそれでヒドイ迷惑を被ればそうばかりもいくまいが、離れたことなら不快な感じはしないつもりだ。君の小説に書かれたあのウソなどは、ノンセンスなウソではないから。
この頃、志賀直哉が書いていたのは『或る旅行記 青木と志賀と、及び其周囲』です。
しかし原稿は未完のまま中絶していて、多く残された未定稿の中で一番長いものとなりました。
それから10年ほどしてこれを改稿して発表したのが『廿代一面』新小説刊でした。
内容は白樺の友人たちをモデルにしたもので、『或る旅行記~』に書かれていた武者小路実篤の恋愛と、自身の女中Cとの結婚の破談は削除していますが、青木直介のことは 残しています。
志賀直哉の手紙に「青木には気の毒だが仕方ない。此方から改めて頼む。」とあるのは、
青木のプライベートのことを書いてしまったからでしょう。
「僕はどうしてこう人に迷惑になる事を書きそうにするのだろう。
割に安直な我儘からかも知れない」
とか言いながら書いちゃうんだものなぁ。
もしも、自分のことを他人が書いたらば怒り狂うと思います ( ´艸`)
おっと、また話がそれてしましました。
書簡のことのお話でしたが、ここまで来たのだから、青木直介のことをハッキリさせましょう。
青木直介とはどんな人物かというと、あまり知られていませんが『白樺』の同人です。
前列左から
田中治之助、志賀直哉、里見弴、柳宗悦、園地公致、三浦直介、有島生馬
後列左から
武者小路実篤、小泉鐵、高村光太朗、木下利玄、正親町公和、長与善郎、正親町實慶
そう、前列右から二番目の( 赤丸 ) 可愛い顔の人が「青木」です。
志賀直哉の手紙では「青木」となっているのは、この当時直介は「青木家の養子」だったからです。
生れたのは三浦という家で、一時「青木姓」となり、その後三浦姓にもどっています。
なのでここから先は「三浦直介」でお話をしたいと思います。
三浦直介は、三浦泰輔の長男として1889年 ( 明治22 ) 3月19日に生れました。
父・泰輔は京浜電鉄社長、小倉電鉄専務取締役、大日本麦酒取締役などを務めた人です。
人事興信録 第2版 1908年 ( 明治41 ) 発行を見ると、
「長男直介は、子爵青木周蔵の養子となり」とあります。⤵
三浦泰輔の長兄は、外務大臣を務めた青木周蔵です。
あの那須の、旧青木邸を建てたあの偉い人。
青木周蔵も、三浦家から「青木家」に養子になった人でした。
※三浦家は医家である、周蔵は長州藩の藩医・青木周弼の門下に入り、周弼の弟であり、養子でもある青木家の当主・研蔵に後継ぎがなかったことから、周蔵は青木家の養子になっている。
直介は伯父・周蔵が青木家の家督を継がせるために周蔵と養子縁組をしました。
理由は、周蔵の実子がドイツ人妻とのハーフだったので子爵が継げなかったからみたいです。
人事興信録 第3版 1911年 ( 明治44 ) 発行の青木周蔵の欄には、
「養子 直介 従五位」とあります。
しかしその後、直介は離籍となり、三浦に戻ります。
人事興信録 第4版 1915年 ( 大正4 ) 発行 三浦家⤵
結局 青木の家は、周蔵が没した1914年 ( 大正3 ) 2月6日から二か月後に
杉孫七郎の三男・梅三郎が養子に入り継ぎました。
人事興信録 第4版 1915年 ( 大正4 ) 発行 青木家⤵
士族以上の家柄は色々大変だったんですね。
もしかしたら直介は、
那須のあの別邸からこんな景色を見ていたのかも知れない。
直介は三浦泰輔の長男だったので、三浦家の家督を継ぐことになりました。
人事興信録 第7版 1925年 ( 大正14 ) 発行 三浦家⤵
三浦直介 1889年 ( 明治22 ) ~1966年 ( 昭和41 ) 享年77
さて。
話を志賀直哉の方に戻します。
志賀直哉は『暗夜行路』でも三浦直介のことを宮本という名前で書き、
『廿代一面』では、仁木という名前で書いたようです。
「年下であるが神経衰弱では先輩の友」と書かれた仁木が、そもそも神経衰弱になった原因は、8カ月前にさかのぼる柳子さんとの結婚の失敗であったと書いちゃってます。
本が発行されたのは10年後のことですが、志賀直哉は、友人のデリケートな結婚問題を未定稿にしたためていたんですね。
因みにこちらが 10年後に発表された『廿代一面』のその部分⤵
然し肝心の結婚の話は益々望み少なくなって行った。最初軍人にそういう話があるように聞き、仁木はそれを切りに気にしていたが、決まった話は全く想いがけない、英介の子供からの友だちで、或る銀行に出ている男だった。仁木の事があるので先方も急いだらしかった。全てが済んでしまった。しばらくして仁木も間に入る人があり、実家へ帰ったが、彼の心に受けた傷が癒されるためにはまだしばらくの時が要った。仁木は最初からこの話を大変簡単なものに考えていた。子供からの知人であり、気心も互いによく知れてい、ことに先の人は仁木の母に可愛がられ、その人も親しみを持っているという関係では、結婚は二つ返事で承知されるものと彼は思い込んでいたのだ。仁木は柳子の姉たちも自分に好意を持っていると思い込んでいたし、そしてそれが全て裏切られた今となると、仁木は結局自分の思い違いだったと思うよりも、信ぜられないのは人の心だという、その方を強調して深く思い込んでしまった。それまで他人に甘えるような性質を多分に現わしてした仁木が、急にそういうことをしなくなった。そして時には如何にも偽悪家らしい調子を見せたりするようになった。
志賀直哉 著『廿代一面』より
里見弴の年譜にも、このことが書かれています。
1912 ( 明治45・大正元 ) 里見弴 25歳 志賀直哉 29歳
11月 |
「立腹」を『白樺』に発表。友達の喧嘩を扱ったもの。 志賀、尾道に住む。 |
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16日 | 尾道と宮島から葉書二枚。創作に油が乗っている。サロメを見た。などなど。 | |
21日 |
志賀よりの葉書、長いものを書いている。青木(直介)には申し訳ない。 君に不快はない。先日の稲生のことでも両方に同情した。 君の嘘には考えることにする。(志賀の出版で洛陽堂と交渉している) |
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23日 | 志賀宛葉書、今葉書受け取った。青木に誘い出されて郡の所。表紙のこと。 | |
26日 | 長与を訪ねて話し込む。 | |
27日 |
志賀宛手紙、印刷のことうまく行かず、また志賀との感情的疎隔について、 これからそのことを小説に書く。 |
6.大正四年六月二日
赤城山大洞⸺大阪北區堂島裏町
手紙拝見。赤城でも別にいい事もないが不愉快な事のないのがいいのだろう。康子も鎌倉へ来てから少し悪くなった神経衰弱が此所へ来てから大変よくなった。此山には非常に満足している。僕は友だちがないので少し淋しい。近々に柳が来る筈なので楽しみにしている。今は家を建てるので毎日役にも立たない手伝いをしている。家は三四か月の小屋のつもりだったが三四年は大丈夫もつ家が出来そうだ。
それからならの木の上に棚のような巣を作って其所で読書でもするようにしようと思っている。
全て丸木でサルスベリ、なら、白樺等だ。この建物はナタと鋸と金槌だけで出来る。思ったより立派ないい家になりそうだ。行水場も別に建てようと思っている。大工は当宿の主人の國さんという人で油絵も描くしなかなか意匠家で美術心もある人なので僕が口を出す余裕のないくらいウマク考えてくれる。國さんは廿円以内で作るつもりだったそうだが床板なぞ借りずに下から上げさす ( 註。前橋辺の材木屋から取寄せ、の意味 ) 事にしたのでもう少しかかるだろうがそれにしても安い家だ。壁はすを張るのだ。すというのは炭俵と同じ質のものだ。それ二枚の間にムシロを二三枚入れて囲うのだ。屋根もムシロの所を藁にするだけだ。仮家には違いないがその割に本式でかつ実用的で風雅なものになりそうだ。僕は来年も来るつもりだ。君も来年は来られるようだといいと思う。
僕は小品分を三つばかり書いたばかりで相不変書く方の勉強はしない。読む方も同様。しかし秋までには京都や鎌倉にいるより何かできそうに思っている。そして色々なものを集めて一冊にして出版したいと思っている。今までのものも入れて。
出産は何月になるだろう。君の手紙では色々なことが逆境のようで君に同情した。おまささんにも同情した。それからみると僕は幸せだが、しかし心が常に楽しんでいるような生活ではない。家を作るというようなことでも毎日楽しそうにして手伝ったり見に行ったりしているが、細工をしている國さん ( 僕よりよほど若い ) の方が倍も楽しそうだ。その手前もあって喜んでいる。僕は前の方に得意らしく家の事を細々と書いたかも知れないが、それは九里のこわいろを使うくらいの程度だと思ってくれたまえ。
しかし僕は家を建てるように僕自身を建てることには興味を失っていない。僕は自分を見かけの悪い家だと思っている。勝手も下手に出来た家だと思っている。しかし勝手のいい見掛け倒しの安普請を見ると自分の方がいい家だと思う。
文学者や絵描きには安普請の人間が多い。
憂鬱ということは活気の反対のようだが、浮かれ気でいる気分よりかもどんなに気持ちがいい安固な気分だろう。僕は今表面には新婚者らしい浮かれ気分もあるが、その奥には静かな憂鬱がある。それに僕は望みを置いている。生活は勿論調子 ( 音楽的 ) もありたいが、習字でいう入木道的でもありたい。二つが一致する生活が理想だ。
「テンペスト」を先日読んだら「悲しみ来る時は之を珍客の如く歓待せよ」云々というセリフが書いてあった。
花合わせでも手がつかなかったら寝銭を出して何篇でも下りている方がいいことがある。
志賀直哉が引っ越し魔であることは有名ですが、1915年 ( 大正4 ) には鎌倉から赤城山 ( 群馬県勢多郡富士見村 ) に仮住まいをしています。
志賀直哉 Wikipediaにも、転居23回とあり、転居年と場所が書かれています。
手紙では宿の主人の名前が「國さん」とありますが、里見さんの年譜には「六合と書くくにおさん」になっていました。
1915 ( 大正4 ) 里見弴 28歳 志賀直哉 32歳
06月 | 01日 | 赤城山大洞の志賀宛葉書、先月は遊んでしまった。 |
02日 | 志賀より書簡、長文、仮の家のこと。 志賀、宿の主人猪谷六合雄(36)に依頼して建てた山小屋に移る。 |
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10日 | 志賀宛書簡、手紙ありがとう、おまさのこと、母や姉の件で紛擾多々。 武郎や山本姉も苦しんでいる。それで申し訳なくてあれこれ。 |
7.大正三年七月
松江市上中原⸺大阪南區笠屋町
昨日夕方から雨があがったのでボートで出た。例の棒杭に繋いで泳いだ。力槽のように力泳をやったらすぐ疲れたのですぐ帰ってきた。昨日は水が塩辛かった。くらげがいた。しかし嫁が島から先へ出ると真水だった。
今日は午前風はあったが雨は降らなかった。新大橋の開通でかみさんも丸髷を結って出かけた。
午後、烈しい吹降りになった。四時ごろ洋服を着て散歩に出た。湯町まで歩いた。
十五分ばかりして汽車が来てすぐ松江に帰って来た。ぬれねずみの様子を見て例の「まァぢ 繰り返す〱という字」だった。青木から電報を待っている。
志賀直哉は松江に逗留し、里見弴を呼び寄せたりしています。
原稿がはかどらないらしい志賀の為に武者小路や里見が奔走しているのが愉快です。
1914 ( 大正3 ) 里見弴 27歳 志賀直哉 31歳
04月 | 24日 | >志賀宛書簡 大阪を出るのもいい、ミス・トモ(まさ)に気が惹かれる。 君と松江あたりへ行くのもいい。 |
下旬より | 志賀、京都、大阪、有馬から城崎へ出る。 | |
05月 | 10日 | 城崎温泉の志賀宛葉書、都合がいいのは13日。 志賀葉書未投函、松江行きは考えもの。 |
13日 | 大阪を立ち城崎で志賀と合流。 | |
17日頃 | 松江に到着。志賀と松江に滞在するが別々の下宿。 | |
24日 | 柳から志賀宛書簡に、『小泉八雲』(田部)を送ったとある。 | |
07月 | 06日 | 松江から志賀の書簡 |
10日か11日 | 志賀は漱石から頼まれていた朝日新聞の連載が書けず上京し漱石を訪ねて断り、松江に帰る | |
18日 | 武者小路から書簡、志賀が断った穴埋めに数人での連載の話。 志賀を送って不在だと思うが帰ったら来てくれ、夏目さんに返事する必要がある。 |
|
25日 | 松江の志賀宛書簡、27日から箱根、朝日の連載の話。 |
書簡だけだと、どういう経緯かわからないことばかりでしたが、その時期何を書いていて、どんな生活をしていたかがわかると、内容もいきいきしてきました。
自分的にはワクワクでしたが、大変ダラダラ長くなってしまいました。
でもねぇ、なんだかんだいって、白樺の同人は仲がいいです。
学習院という環境の中で育った、同じようないいとこのボンたちですから、
相通じるものがあるのでしょう。
その辺の付き合いを詳細に調べられている論文がありました。
とても興味深いものなので貼付をしておきたいと思います。
⤵⤵⤵
参考文献:
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/16984/1/bungeikenkyu_122_69.pdf
本日の朝ごはん
久しぶりの釜玉うどん
本日の夜ごはん
じゃがいもとカニカマのマヨネーズがけグリル
創作です、へんてこな出来でした (;^ω^)
これも創作 豚ロースのソテーに、芽キャベツのローストを乗せたもの
豚肉のソテーは軽い醤油味、芽キャベツはにんにく風味の塩味。
一緒に食べると、芽キャベツの甘味で楽しい味でした。