巌谷大四『物語大正文壇史』を読み始めている。
大正期の文筆家のエピソードが沢山取り上げられていて、ざっと目を通しただけでもよし、
その中から気になった事柄をさぐるキッカケにもなる本だ。
作者について
巌谷大四さんは、巌谷小波さんの四男で文学評論家である。
巌谷小波さんは言わずと知れた 児童文学の大家。
桃太郎や花咲じいさんなどの民話は小波さんの手で再生されたものらしい。
実はこの本を《巌谷小波さんの本》だと勘違いして借りてきた。
《大正》とあるので、お父上の著作物だと勝手に思い込んでしまったのだ。
間違ったものの読んでみると、内容はわかりやすく、借りてきて良かったと思った。
明治から大正にかけての文壇の様子・関係性もわかる資料として手許に置きたい一冊だ。
例えば。
冒頭、明治残影の「明治天皇崩御・乃木大将殉死と作家の反応」では、
徳冨蘆花、夏目漱石、森鴎外、田山花袋、芥川龍之介、志賀直哉、武者小路実篤の、
七名の作家の逸話が日記や出版物から拾い集められていて興味深い。
作家の年齢、境遇・環境、性格によって、天皇崩御・乃木殉死をどう受け止めたかに違いがあることがわかった。
抜粋したものがこちら⤵
徳冨蘆花の場合
徳冨蘆花は、千歳村粕谷 ( 現在の蘆花公園 ) の自宅で崩御を知り、翌日の日記に書いた。
「陛下の崩御は明治史の幕を閉じた。明治が大正になって、余は吾生涯が中断されたかの様に感じた。明治天皇が余の半生を持って往つておしまひになつたかの様に感じた」
御大葬の日には、母屋の六畳を掃き清め、祭壇をつくり、家族一同と息をのんで正座した。それから蘆花が先ず進み出て、一拝して香を焚き、再拝して下がった。妻の愛子と養女の鶴子、最後に女中たちが順々に香を焚いて東方を拝した。
家族と東方を遥拝している時刻に、乃木将軍が自刃殉死していたことを知った。
「尤もだ、無理もない」と呟いた。
夫に殉じた静子夫人のことを、とくに言葉をきわめて賞賛した。
愛子はすこし不機嫌になって、
「わたしだって、それくらいのことはできます」と言った。
「でわ我々もやってみようか」と蘆花が言い出した。
本当に短刀を持って来て、大真面目に、自刃の真似事をやろうとした。
まだ七歳の養女鶴子は、そばで見ていて、どうなることかと、真っ青になってふるえていた。
しかしそれは結局未遂に終わった。
感情の起伏が激しく、思い込みの強い、蘆花らしい日記と行動だ。
「わたしだって、それくらいのことはできます」
似たもの夫婦でやきもち焼きでもある 夫人らしい言動だと、笑ってしまった。
夏目漱石の場合
四十五歳の夏目漱石もまた大きな衝撃を受け、
「明治が精神が天皇に始まって天皇で終わったやうな」気がした「最も強く明治の影響を受けた」自分が、「其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが」した。
漱石がその胸中を打ちあけると、
妻鏡子は突然、「では殉死でもしたらいいでしょう」と、笑談のように言った。
漱石は「もし自分が殉死するなら、明治の精神に殉死する積もりだ」と、これも笑談めかして答えた。
間もなく乃木大将夫妻殉死の知らせが入った。相次ぐ大きな衝撃であった。
漱石は号外を手にして、思わず妻の鏡子に「殉死だ、殉死だ」と叫んだ。
後に書いた『こゝろ』の「先生の遺書」の構想はこの時胸にきざまれた。
「殉死でもしたらいいでしょう」という鏡子夫人、これも「まあ夫人らしい」と可笑しかった。
森鴎外の場合
当時五十一歳だった森鴎外は、陸軍軍医総監として実際に乃木大将希典の葬儀に参列している。その後乃木大将の殉死に触発されて数日で書き上げた作品が『興津弥五右衛門の遺書』で、鴎外が歴史小説を書いた最初の作品である。
乃木希典と森鴎外は、同じ軍人として日清・日露にも従軍している。
親交のある二人だったから、鴎外にとっては、多の作家とは違う心境だったのではないだろうか。
田山花袋の場合
その年四十二歳の厄年を迎えた田山花袋は、西南戦争で父を失い、日露戦争に写真班として従軍し、国の飛躍的な発展を眼のあたりに見てきただけに、四十五年の聖代のいろいろなシーンを走馬燈のように頭に浮かべた。
青山で行われた御大葬の日、花袋は近くに住んでいたが、一歩も外に出なかった。雨の降る夜、弔砲の響く頃、花袋と妻と二人で長火鉢に相対して座っていた。
そこに乃木大将夫妻の報であった。花袋は愕然とした。「戦歿勇士の魂の蘇りをそれに感じて」悲痛な思いに血を湧かした。天皇の崩御も、乃木将軍の殉死も「功業を樹つることの悲劇」だと思った。
戦地に赴いた、実体験のある人らしい受け止め方だ。
《功業を樹つることの悲劇》とは、花袋が経験した戦地での苦しみと、功を成した人への憧憬とがからみあった複雑な心持ちから出た言葉だと思った。
芥川龍之介の場合
芥川龍之介は、当時二十歳だった。
「御不例 ( ※ ) 中に夜二重橋へ遥拝に行った姉が、小学生が三人顔を土にちけて二十分も三十分もおじぎをしてゐたと涙ぐんで話したときには僕も動かされたが其内に御命に代わり奉ると云つて二重橋の傍で劇薬をのんだ学生が出たら急にいやな気になつてしまった」と友人にあてた手紙に書いている。
九月十四日の朝、新聞を開いて、そこに乃木将軍夫妻が殉死直前に撮ったという二人列んだ礼装の写真を見ると、一瞬いやな気がした。何故二人は最後の写真を撮ったのかその気持ちがわからなかった。どこかの店頭に飾られることを意識したのではないかと思った。乃木大将は至誠の人だとは思ったが、その至誠は、自分をふくめて、より若い世代の人たちには通じないものではないかと思った。
※ 御不例…貴人の病気
前の四人とは、考え方が違ってきている。これが新しい世代の感情なのだろう。
志賀直哉・武者小路実篤の場合
二十九歳の志賀直哉は、乃木大将殉死の翌日の日記にこう書いている
雨村訪問、伊吾も来る。玉を突く。
乃木さんが自殺したといふのを英子から聞いた時『馬鹿なやつだ』といふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた。
その頃、トルストイに心酔していた二十七歳の武者小路実篤は、「かれの死には人類的なものがない」と乃木殉死を批評し、「それにくらべればゴッホの死の方がはるかに人類的な意味をもっている」と言った。
両者とも、多感な青春時代に ( 学習院で ) 乃木希典とすれ違っている。
乃木希典が学習院院長に就任したのは1907年 ( 明治40 )
二人が学習院旧制高校を卒業したのが1906年 ( 明治39 )
因みにWikipediaには、学習院院長に就任した乃木のことがこう記されている。
自宅へは月に1,2回帰宅するが、それ以外は学習院中等科および高等科の全生徒と共に寄宿舎に入って寝食を共にした。学習院の生徒は乃木を「うちのおやじ」と言い合って敬愛した。
が、他方でそうした乃木の教育方針に反発した生徒たちもいた。
彼らは同人雑誌『白樺』を軸に「白樺派」を結成し、乃木の教育方針を非文明的であると嘲笑した。
里見弴が学習院を卒業したのは1909年 ( 明治42 ) だ。
志賀たちより5歳年下の里見は、兄貴たちとは違った印象を乃木院長に抱いていた可能性はある。
里見は著書『潮風』の中で、こう書いている。
やがて、彼等は、片瀬川の渡しを渡って、学習院の遊泳場についた。
~中略~
葦簀張 のなかで、裸になって出てくると、隣の、教官の脱 衣所に、前の日までは来てゐなかつた乃木大将がゐた。
下は、学習院の海水浴を片瀬海岸でおこなっている時の記念写真。
旧制高校1909 ( 明治42 ) 卒の里見弴は、もしかしたらこの写真にもいるかも知れない。
上記は、「藤沢市文学館 ふみくら 第21号」より拝借しました。
https://digital.city.fujisawa.kanagawa.jp/introduction/humikura/content/150113_1.pdf
こんな風に、気になったことを他の史料て照らし合わせたり調べたりしながら読んでいるから、
読了はいつになることやら。
本の末尾には、人物の牽引ページがあり、
参考文献も掲載されている。
※ 片っ端から読んでみたい衝動にかられる・・・
参考文献をざっと見れば、かなり有名どころから拾っていることもわかる。
このあたりを出発に情報集積したのなら、少し浅い部分もありそうだが、
それでも私の好奇心をゾワゾワさせてくれる宝物が沢山眠っていそうな予感がする。
そんなことを思っていたら、あるブログ 雨子さん (id:poolame) の記事にくぎづけになった。
敬愛するブロガーさんの記事で、校閲について書かれているものだった。
校閲は、出版物の内容に間違いがないか、特に、事実と違うことが書かれていないかを確認する仕事とのこと。
読み進むうちに「なんと大変な仕事なのだろう。集中力と根気と膨大な知識を有していなければ出来ない仕事だ」と驚いた。
少し抜き出させていただく⤵
時々、偏見に基づいた表現を含んだ原稿がまわってくることがあり、そうするとかなり大変です。何頁何行目から何行目までの表現は事実に反しています、とはっきりきっぱりと指摘できれば楽なのですが、大抵、偏見は当人に自覚がなく、その人の文章から特定の差別用語などをひっこぬいて他の表現に置き換えれば済むという性質のものではないからです。
また別の日には、ネットの記事について書いていらっしゃった。
私たちが気軽に当たり前のように引用しているネット記事に、とんでもく笑える間違いもあることを実例をあげて紹介してくださった。
私もブログを書く時に、よくWikipediaなどを閲覧する。
しかしそれ以外に、同じ内容を書いている記事を検索し、4つ5つ閲覧する習慣がある。
大抵の記事はwikiからの引用だったりするが、
更に検索を重ねると、ご自身で深く調べたとわかる貴重な記事に巡り合う。
信頼に足るものは、どこから引用したかを明記されていて、
最も信頼できるのは、その引用が論文や書籍から得ているものである。
私も論文はよく閲覧する。
論文には参考文献が必ず書かれているから、さらにそういうものに目を通せば、
情報を鵜呑みにした不確かな記事になることからは避けられる。
そんなことをつらつら思っていたら、その方の文章が心につきささった。
いつもはキチンとID付きで紹介、言及させていただくのだが、
そういうのはちょっとお嫌な方なのではなかろうか、など、勝手な想像から、名前は伏せさせていただく。
本当にその通りだと、何回もうなづいてしまった箇所はこんなこと⤵
本のつくりとwebのつくりは全然違うので、両方必要だと思います。
本は一応、著者、編集者、デザイナー、校正・校閲、印刷と大勢でよってたかって鍛えるもので、それが史料として残っていき、他の史料とともに検討され続けるものであり、またアクセスも非常に容易で便利なものです。とはいえ、いい加減なつくりの本が大量にリリースされているという問題もあり、「本だったら情報源として大丈夫」とは必ずしもいえないのですが。
一方、web はもはや情報源として私たちの生活に欠かせないものです。しかし、情報ツールとしてはもうちょっと全体的に「プレーヤーのほとんどが何らかのプロの姿勢で臨み、責任を自覚している」という状態が実現して、今の「でたらめを好きに書ける! ひゃっはー!」みたいな一部の状況をある程度対象化、可視化できるようにならないと、学習者が使用するのは二度手間三度手間を生むので大変かなと思います。
追記 ) ご許可をいただけましたので、引用元を明記させていただきます。
本日の昼ごはん
好きな具、全部のせ❤
本日の三時
MOURI が仕事でお腹がならないようにと買ってきたのをお相伴にあずかる
和風かつとかで、本わさびがついていた。
ネギに、かつおぶしに、醤油ベースのたれに、わさび。
最高に合う合う! 和風カツ、今度自分でもやってみよう。
ひとり晩ごはんは、簡単にこんなもの⤵
ずっと食べたいと思っていた、ふりかけ系のどんぶり飯 (;'∀')
参考資料
聖代四十五年史. 後編 - 国立国会図書館デジタルコレクション