Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

里見弴『怡吾庵酔語』より 泉鏡花さんの話

 

久方ぶりに里見弴のことを書いて、随筆を読み返してみたくなりました。

手にとったのは『怡吾庵酔語』。※ いごあん すいご、と読みます。

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どういう意味かなと思いましたが、もしかしたら少年の頃からのつきあいの志賀直哉や武者小路実篤たちから「伊吾」と呼ばれていたことが所以かも。

 

この本は、1972年に刊行された本です。

内容は、1969年 ( 昭和44 ) 中央公論の連載で、御年81歳の里見さんが話されたことを、

一冊にまとめられたものです。

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過去の話や短編の内容と重複していることも多々ありますが、

里見さんの生活や、近しい人たちのことがわかる面白い本です。

 

 

それにしても昔の本は贅沢。装丁が布だもの。

これは私の宝物の一冊です。

 

さて、今回はその中の「幼児の読書」からの抜粋。

里見さんの子供の頃といえば明治30年代です。

父親は、高級官僚まで昇りつめた実業家で、幼い頃より裕福な家庭で育ちました。

長兄-有島武郎、次兄-有島生馬と同様学習院に進学しています。

 

そんな里見さんは、社会 ( 文壇 ) に出てからも、上下関係を重んじないところもあり、

先輩文士に叱られたりもしたようです。

仕様がありません! 本人も開き直ってますケド「親方・近衛篤麿」ですから。

筋がね入りのいいとこのボンなのです。

一体、先輩、後進というような、階級的な感情に乏しく、時にはそれを軽蔑し、蹂躙(じゅうりん)したがるような気風が、今は知らず、近衛篤麿(このえあつまろ)を院長に戴いていた頃の学習院にはあり、大部分がそこの卒業生だった「白樺」同人の、謂うところの「文壇」なるものに対する冷淡や無関心も、(もと)(ただ)せばそこから来ていた。

『二人の作家』より

それじゃあ、里見さんが無礼の塊かっていうと、そうではない。

敬うべきものはキチンと敬う。ただし彼なりのルールがありました。

里見さんは、泉鏡花に相当傾倒していました。その泉さんに関して逸話がこれ。

 

「先生」問題

里見さんは、こういう持論がありました。

「相手の承諾も得ないで、自分免許に弟子がることを却って不躾だと思っていた、

 だから意識的に泉鏡花に対しても「先生」という言葉を避けていた。

 ひととの話には「泉さん」と姓を呼び、面と向かえば「あなた」と言っていた」

なるほど、彼なりの考えがあったようです。

僕は、泉さんを「先生」と呼んだことがないんだ。いつも「泉さん」だ。

何故そうかというと、教えを受けたればこそ「先生」だ。無論、学校の先生とか、お医者さんに対しちゃ、これは先生だ。そうした人を除いて、先生という尊称が、昨今とは違って乱用されていなかった時分だから、師と敬う人だけが先生と呼べる。

 

それからすれば、僕は肝の中では、泉鏡花の文学に随いて行こうと思っていた。師と仰いでいた。

それなのに、あの人の前に出て、「先生」とは絶対に呼べないんだ。向こうから、「お前に教えてやるぞ」とおっしゃってくだされば、その日から先生と言うが、そうは決しておっしゃらない。

それだから、おれは泉さんの所に出入りはしているが、決して「先生」と呼べないんだ、おれはあの人の弟子たるの値しなうんだ、そういう根性だったよ、僕は。

 

それを「けしからん」と思う人もいるわけで、初対面の鈴木三重吉さんにこっぴどくやられました。

 

ある時、銀座で泉さんと読み歩いて、有楽橋から赤電車に飛び乗った。チンチンが鳴って、中へ入ると鈴木三重吉さんが居た。鈴木さんがわれわれを見付けて、

「やあ泉先生、降りましょう、降りましょう」

降りましょうったって、チンチンでもう走り出してる。駄目だ、駄目だ、というのを鈴木さんが強引に停めさせて、押し出されるように降ろされ、吉田という蕎麦屋に行った。そこに一箇所だけ四畳半だか六畳だから座敷がある。それに上がり込んで、三人で飲み出した。

いろんなことを話しているうちに、「泉さんが、泉さんが」って僕が言ったのを、鈴木さんが聞きとがめて、怒り出した。

「なんだ君は! この頃書き出したばかりの癖に、この大先生を捉まえてさん付けにするとは何事か!」

「済みません」

そう詫びたものの、僕は前に話した通り、本当は「先生」と言いたいんだ。悔しいがそれが言えないわけだよ。

「まあいいよ、鈴木さん。そんなこと言わなくったっていいよ。 ⵈⵈ 弴さん、いいんだよ、あなたが言う、さんでいいんだよ」

泉さんはそう言って鈴木さんを宥めたり、僕を庇ってくれたりなさるんだ。僕としちァ、

「そうだ、お前、生意気だ」って言ってもらった方がどんなに気が楽かしれない。

吉田の座敷で、思わず不覚の涙を流したよ。

結局、帰りましょうよ、ということで外に出たけど、なんとなく三人とも収まりがつかないんだね。そうしたら鈴木さんが、

「トロへ行こうよ」

と言い出した。トロとしうのはわれわれが使っていた吉原の隠語なんだ。

~中略~

吉原行(トロゲンコウ)

「行きましょう」

ってなもんだ。僕はその時は悔しくって、嫌でしょうがないんだが、泉さんを置いていくわけにもいかない。円タクを値切って飛ばしたんだろうな。それで、お互いに良い夢を見たか悪い夢を見たか、それは相手次第の話……。

 翌朝、起きたところが、張本人の鈴木さんはいないんだ。登楼してないんだ、知らぬ間に引手茶屋から帰っちゃったんだよ。

泉さんは、なんだか知らないけれども、極まり悪そうな顔をしていてね。場所は三階か四階の高い所だった。向こうに、かすかに富士山が見える。

「おはよう、弴さん。いいね、富士山、綺麗だね」

これが先生の、その時の台詞 ⵈⵈ 。

 

里見さんと泉さんの最初の出会いの話は、可愛い。

『私の一日』という別の本に収められている話ですが、こんな風に書かれています。

泉鏡花との初対面は、明治四十三年『白樺』から、オーギュスト・ロダンに七十歳の誕生祝いの手紙を書き、別に有島生馬がフランス語で祝い物として北斎や広重の絵双紙を送ってあげた。それは改めて買い集めたわけでなく、志賀 ( 直哉 ) たちが前からもっていたのに、いくらか買い足したもので、当時としてもたいした金高ではなかったろう。ところが、そのお返しにロダンからは作品を三つもよこしたんだ。しかも「マダム・ロダンの胸像」「影」「ごろつきの首」という豪華ささ。

 

 『白樺』は明治四十三年四月の創刊で、その十一月十四日は、すなわちロダンの誕生日に「ロダン号」という二百頁からの特別号を出した。そのお返しが届いて来たのはたぶん翌年だったろうが、すぐ三つの彫刻と前からみんなが買い集めていた西洋名画の複製、⸺油絵の号数でいえば、十五号とか二十号大の写真版だね、それを何十枚か一緒に転じして、その真ん中にいはば「目玉商品」然とロダンの作品を並べてさ、あっちこっちの会場で何度も展覧したんだが、たしか内幸町にまだ木造の粗末な二階建ての国会議事堂があって、その後ろ側のもっと粗末な議員会館の中に広い部屋があり、議会の開催中でなければ安く借りられたので、そこでもやったが、たぶんその時だったと思う、『白樺』の同人たちは毎日誰かしらそこに詰めて、別に楊枝もないから、なんだかんだ雑談していたもんさ。

 

 するとある日のこと、だれかが「泉鏡花が来た!」って駆け込んできたわけだね、そばに寄っちゃ悪いからって、みんなで遠巻きにして泉鏡花が歩いて行くのを見ているわけだな。そうしたら、ゴッホのペン画の前で、⸺麦畑がずうっと広がって、遠くの果に教会かなんかのとんがった屋根があって、雨が降っている。その雨を日本画風に線で描いたのは、ちょっと珍しいんだけど、なんと思ったかその前で泉鏡花の足がとまっちまった。

 そしたら、一番勇気があった志賀がそばに行って「泉さんでしょう、よく来て下さった」というような挨拶をした。

続いて武者 ( 武者小路実篤 ) も行ったりして、だんだん鏡花の周りを取り囲んでね。そして誰かが「これが一番お気に入られたのですか」って聞いたよ。その、雨の降った絵についてなんと答えたか、それは覚えてないがね ⵈⵈ 。

オーギュストロダンなんて、私にとっちゃ教科書の中に出て来る人だけれど、

里見さんの時代には、実際に動いている人だった。

しかも、誕生日のプレゼントだなんて。

それにしてもやっぱり「白樺」のお子たちは金持ちのボンですなぁ。

そんな生意気盛りのボンたちでも、崇拝する人はいたわけで、

ひと回りも上の有名作家-泉鏡花さんにはワーキャー言ってたのか。

それでも近寄れずに、遠巻きにしている。

なんだかその様子を想像すると、初心さが可愛いくて笑ってしまいました。

 

 

 

やがて里見さんも、鏡花さんに意見をしてもらえるような付き合いになりました。

といっても弟子ではない。鏡花さんの方もあくまで弟子扱いはしない。

呼び方も、必ず「弴さん」

それでも色々なご指導 賜った。

泉さんは、僕には非常によくしてくださった。そういう人じゃないと思うのに、僕をほとんど弟子扱いしてくれた。

「あなた、こうこう、こういうことをしてますが、それはいけませんよ」

と、 ⵈⵈ 言葉は丁寧だよ、そういうふうなおっしゃり方をしてくれた。他にそういうようなことを言ってくれた人は、僕の一生の中で二人といないんだ。文章の末に至るまで言ってくれてね。~中略~

 

 ある小説の中で、座蒲団を出した。季節は夏の情景だ。すると、

「あの座蒲団は暑苦しいね。あの場合の待合ですね、あの場合に出す座蒲団ならこうこうあるべきだと私は言わないけれど、あなた、色から形から、全然あなたの頭に浮かんでないね」

と、こうおっしゃるのだ。

 

 それから、これは『夜櫻』という小説の中で、月の夜半(よわ)、公園に分捕った大砲が置いてある。満開の桜の下で、子どもが面白半分に大砲の上に乗っかるんだが、

「あの乗っかるところは面白いんだけれど、あの大砲には夜露が下りてませんね」

お前駄目だぞ、なんて決しておっしゃらない。そりゃァ丁寧な言葉でおっしゃるんだ。

夜露の下りた大砲の上に乗っかるから面白いんだ、その通りだ、参ったね。

どう書けとは言わないわけです。「夜露が下りてない」「あの座蒲団は暑苦しい」

優れた作家が、優れた作家に対する注意は、これで十分なのかと感心しました。

 

 

注意の話で、今でも印象に残っているエピソードがあります。

一番ひどく喰ったのは、僕が明治大学の文学科の教師をしていた時分だ、学生が出している小冊子というか、リポートみたいなものの読後感を学生に頼まれて書いた。

「君たちは、こんなことで文学が出来ると思ったら大間違いだぞ」と書いたのだが、そんな片々たる小冊子が、どうして泉さんの目に触れたのか、その経緯は知らないよ、だが、

「あなた、この間、卒業する学生たちの作品集の最後に、大間違いだぞ、って書きましたね」

「えゝ。よくご存じですね」

「なぜ、()ですか。大間違いだ、でいいじゃありませんか。()をつけたと言うことは、あなたが照れてるんですよ。照れ隠しですよ、あの()は」

とこうきた。みごとなタッチアウトだったね。

これが泉さんから受けた叱責のてっぺんだね。僕が思うに、こういうことを言う人は名人芸だね。もっとも、今の人はそんなことを言われたって、屁とも思わないかもしれないが ⵈⵈ 。

照れ隠しか、凄いところまで見ているものだ、と思いました。

この話から、こんな連想をしてしまいました。

 

ブログを書いていて気がついたんですが、

「〇〇です」と止めないで、「〇〇ですよね」と安易に使ってしまう癖が私にありました。

もちろん 鏡花⇔里見レベルの比ではないが、これもひとつの照れ隠しではないかと思いました。

読んで下さる方に、本当の意味で同意を求めるため「〇〇ですよね」と使う場合はあるでしょうが、

なんでもかんでも「ですね」「ですよね」というのは、やっぱりオカシイな、と。

私にとっての「ね」は多分に、照れ隠しだったり、言い切れずに《逃げ》ている時だったかも知れない。

自分への戒めに過ぎませんが、「ですね」「ですよね」の使い方には慎重になったと思います。

 

本日の本


 

 

今日の朝ごはん

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夜食べたもの、何故かこれしか撮ってない。

あと何食べたんだか。。。。

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