岩野泡鳴の『人か熊か』を読了。
『耽溺』と同様、こちらも「なんとまぁ」というのが正直 私の印象です。
【ざっくりあらすじ】
主人公は、樺太に入植した民蔵・お竹夫婦。
二人は、蟹の缶詰工場に勤めている。
工場の旦那の発案で、干し蟹をやってみようということになり、
野外に蟹を干したところ、熊が出没。
夫婦が住む番屋の周りの干し蟹は、全部喰われてしまった。
薄っぺらな板一枚で隔てただけの小屋に住む夫婦の恐ろしさは尋常ではない。
ところがそんな最中、民蔵とお竹は喧嘩をする。
お竹の腹の子が誰の子かという民蔵の言葉に、腹を立てたお竹は外に飛び出してしまう。
お竹を追って外に出るものの、ずんずん走り去るお竹をみて、民蔵は小屋に戻る。
一人になれば怖くなり戻ってくると思ったからだった。
しかしお竹は戻らず、翌日 熊に襲われて死骸となって見つかった。
捜索してくれた仲間たちは、気の毒がって通夜をしてくれるのだが、
民蔵が「みんな帰れ」と、怒りだすところで話は終わる。
この「帰れ!」の前に、こんな描写がありました。
通夜をしようとする人数は昼間よりも増していた。
けれども、民蔵は 再び熱い男性の力をばかりおぼえ初めた。
~中略~
「帰れと云うに、この野郎!」
目をけわしくして怒った民蔵は、この正直者を、床の上から引きずり下ろした。
「じゃァ、帰る! 帰る!」
これも怒って草履を履こうとするのを、民蔵は待ってやる暇も我慢できなくなっていた。
そして彼はからだ中にみなぎって来る蛮力にまかせて初さんをぐんぐん戸の外に突き出した。
ううん。。。
要するに、彼は 死んだ妻の身体を愛撫したかったというのか。
民蔵の愛のカタチはズバリ、性的行為に集約されているのかも知れません。
そもそも民蔵とお竹が喧嘩になるのも、民蔵がお竹の体を求めたのがキッカケでした。
妊娠中のお竹に拒否されたことから「誰の種だ」と口論になり。
飛び出したお竹が帰ってくるのを待つ間も民蔵は「お竹が帰ったらやさしくしてやろう」と思っている。
どうやら民蔵の愛は、肉体を愛おしむということしかないようです。
この作品も、先に読んだ『耽溺』もなんですが、
泡鳴作品には《相手を愛しいと思う 心の描写》が見当たりません。
肉体的な欲求や繋がりは書かれていても、精神的な描写がないのです。
そういってしまうと元も子もないけれど「性欲こそ愛のあかし」といったような考えを、
もしかしたら泡鳴自身が持っていて、その一点で突き進んでいるように感じます。
泡鳴という人物がどういう人なのがが気になりました
かなり女性遍歴の凄まじい方だったようです。
3度の結婚に、複数の愛人がいて、乱脈な女性関係で知られる人でした。
3人の妻との間に9人の子を成した泡鳴ですが、子どもに対する愛情も希薄。
正宗白鳥は泡鳴を評して「子供に対してほとんど愛情らしいものを感じないのは、日本の作家のうち類例を絶している」と述べていたそうな。
『人か熊か』も、泡鳴が実際に樺太で蟹の缶詰工場を経営していたことから書かれたもので、
『耽溺』の吉弥の話も実体験からだそうです。
数々の女性との体験が『毒薬を飲む女』『発展』『憑き物』に反映しているというから、泡鳴さんも大概な人でした。
そういえば、岩野泡鳴の『人か熊か』を読むキッカケは、島木健作さんの日記だったが。
そこに書かれたこの言葉でした。
「人か熊か」という怪しい標題の作は、樺太の荒涼たる自然のなかにおける原始に近い生活を描いて、作柄は全然ちがふが、有島 ( 武郎 ) の、カイン、と好一對の作をなしている。
実はこれと同様のことを書いている人がいらっしゃいました。
一読して、有島武郎の「カインの末裔」を連想させる短篇だが、民蔵は、有島の描いた仁右衛門のように、必然の敗北をまだ予定されてはいない。北の涯の、荒涼とした風景のなかで演じられる愛と死のドラマ、それ自体としては救いようのない悲劇を描きながら、どこかに喜劇的でさえある余裕を残した野放図な構想に、泡鳴の持ち味がある。
こう評したのは、本作品が収録された「日本短篇文学全集 9」の解説を書かれた三好行雄さんでした。
本日の昼ごはん
オムライス~
私の卵はちょっと固めになってしまいました。
本日の夜ごはん
さつまいものレモン煮は困った時の定番メニュー。
とうもろこしは、レンチンした後 醤油をつけながら焼きました。
この食べ方が一番好きだ。
でも、MOURI は食べたくないという。私ひとりで食べてしまった。
ビジュアル悪いが美味しいんだなこれが。
と自画自賛なのがワンタンスープ。
今日もいろいろ食べました。
ごっそさん!