Garadanikki

日々のことつれづれ Marcoのがらくた日記

里見弴 著 『極楽とんぼ』

 

f:id:garadanikki:20160314101005j:plain 題 名 : 極楽とんぼ gokurakutonbo
著 者 : 里見 弴 satomi ton
初版本 : 中央公論
底 本 : 筑摩書房『現代日本文學大系37』より
読了日 : 2012年06月20日

 

「いい人だったがなア」--。

わがままで甘ったれ。嘘もつく。ずるいところもある。しかし、どこか愛嬌があって憎めない極楽とんぼ。怠け放題で、ひたすら女道楽に過ごして大往生した男の75年の生涯を、自在な描写と豊かなユーモアで描く。当時73歳、達人 里見弴の生んだ絶品。

 

上の文章は、文庫の表紙に書かれていたんですが、物語の内容を端的に現わしています。

この作品、作者が73歳の時に発表されたんですが、ますます円熟味が増しています。

今まで読んだものの中で一番好きな作品かな。

落語のような文体なんです。

古今亭志ん朝の、テンポの良い洒脱な落語を聞いているようで、どんどんのめりこんでしまいました。

 

どう面白い話かは、モタモタ説明するよりも、ひとくだり読んでいただいた方が、合点がいくと思います。主人公の父親は吉井市蔵といいます。

そして主人公(周三郎)と三人の兄姉たちのくだりを。。。

 

矢継早に三児を得た後、市蔵は、遣欧使節・何某に随伴中、憲法調査を命ぜられて一行と別れ、英・仏に留まること四年にして帰朝したので、上の三人と、三男以下の四人との間には、それだけの年齢の懸隔 (ひらき) が生じた。

 

僅か五つ六つにしても幼い身として、上からはともかく、下から見上げる目には、ちょっと手がかりのないほどの可怕 (こは) い存在だった。

 

お世辞ツ気は抜きにしても、よく他人から、「稀にみる、仲睦まじい御同胞 (きゃうだい) と褒められたものだが、細かな観察眼には、父親の外遊を境として、謂はば前派と後派とでもいつた風な、おのづから両分された親疎の差は移った筈だ。

本編は、明治十八年、乙酉 (きのととり) の年 (1885) 6月10日に生を享 (う) けた三男・周三郎を主人公とする稗史である。 よしんば総領だらうと、嘗ての一期間には末子たるの寵を擅にしたわけだが、あとからあとからと殖 (ふえ) て来るにつれて、両親の子女に対する関心は次第に薄らぎ、結局、年更 (としたけ) て儲けた末子が一番可愛い、といふのが、ほぼ世間一般とも言える共通性だらう。

 

ところが、「後派」の総領に丁 (あた) る周三郎は、幼時、「小児喘息」といふ専門語はまだなかった頃にしても、それが持病で、ほかの同胞に比べると、段違ひにひ弱かったため、弟妹たちの出生後も、なんとなく、末子じみた偏愛を受け続けた傾きが見られる。

ちょっとしたことにも、すぐ医者よ薬よの騒ぎで、大事に扱はれれば自然と甘ツたれたくなり、制 (と) められようと叱られようと、思ひのまゝを通さうとしても、体質的に乱暴は働けず、さも悲しげにピーピーと泣きだす。

執拗 (しつこ) く泣いてゐるうちには、宥 (なだ) めすかしの優しい言葉や欲する何物かが得られる。もちろん意識的な企図 (たくらみ) ではないにしても、さういうことの繰り返しで習慣づけられ、やがては後天性ともなりがちなもの。

少なくも、本編の主人公にあつては、それが、甘ツたれの泣き虫で、我儘で、女々しくて、多少の狡猾 (ずる) さをも含む性分に形づくられて行つた大半の原因と言へる。

 

駄目です。 ひとくだりのつもりが、止らなくなっちゃいました。

それにしても、里見さんのセンテンスが長いわ。

どんどんと言葉がつむぎ出されて、流れるように、リズムよく繋がっていく。

これだけ長いと、普通なら途中で息切れしてしまうけど、里見さんの文章は、ノースショワのサーファーが、良質な波に身を任す快感に似ているんじゃないかと思います。

サーフィンやったことないけど。。。

 

とにかく周三郎という男が、いかに甘ったれでこらえ性がないかのエピソードが綴られていきます。

自分の浮気が原因で、奥さんがガス自殺してしまえば、それはシュンとして、落ち込んで、何度目かの腑抜けの状態に陥るんですが、その内また、他人に厄介かけ出す。

あまりの「極楽とんぼ」さ加減に、周りも思わず笑い顔になってしまう。

こんなどうしようもない男の様が可笑しくて、次は何をやらかすのだろうかと、ページをめくってしまいました。

 

作者-里見弴は、有島武郎・有島生馬という、優秀で真面目な二人のお兄さんを持ち、本人は家財を食いつぶす放蕩三昧の日々を送ってきた人物です。

周三郎のモデルは作者自身ではないかと思われます。

作者の環境や性格などを存分に盛り込んだといっても差し支えはないでしょう。

しかし自分や周りの人の話を軽薄に頂戴したかというとそうではなく、様々な出来事を吟味して、凝縮して、練りに練ってまとめ上げているように思います。

 

里見さんは、『善心悪心』『俄あれ』『君と私』『妻を買う経験』『安城家の兄弟』など沢山の作品に、亡兄-有島武郎や、親友-志賀直哉、そして自分自身のこと題材にしています。しかし中途半端な引用ではなくて、キチンと覚悟をつけて投影させているように思います。

 

ぜったい、ぜったいオススメの本です。

ぜひ読んでみてください。

 

最後に「うまいこと言うなぁ」と思った部分を転記したいと思います。

 

とかく醜聞なり、災難なり、凶 (わる) いはうの噂ならば、たっぷり一時間でも続くところを、美談なり、僥倖 (げうかう) なり、吉 (よ) い話となると、さて五分も保 (も) つかどうか。

 

心の壁に映って来る。 悪い奴、くだらない野郎のと、えらいなァと感服させられる賢者のと、どっちの人間像に対して気が楽か、改めて考へてみるにも及ぶまい。

 

肉体的に言っても、庭に立って、満天の星を仰いでゐれば、間もなく首根ッこが痛くなるし、縁側の腹ン匍 (ば) ひで、蟷螂 (かまきり) の死骸を運ぶ蟻の行列でも眺めてゐる分には、けっこう飽きが来ない。

 

「絵で見れば地獄のはうが面白い」とは、いしくも喝破したもの。黙阿弥も、泥棒芝居ならたくさん書いてゐるが、孔孟はともあれ、二宮尊徳にしても客の呼べないことぐらゐ知ってゐた。

そこで、永らく御哀願を蒙 (かうむ) つて来た本篇の主人公だが、あれほどの動機で、果たして善心に立ち還 (かへ) るかどうか、ともかく作者としては、死ぬまで跡を従 (つ) けて行くつもり。

 

※ この記事を書いた後、beatleの「探検隊日記」 さんのコラムで「里見弴が『小説家の小さん』と賞賛された所以でしょう」と書かれておられるのを拝見しました。

不勉強にも既に世間で「小説家の小さん」と賞賛していることを知らず「志ん朝さんの落語」と表したワタシですが、誰もが思うことを、今さらのように書いたこと、苦笑しております。 

 

※ これは、 旧GARADANIKKI (JUGEM) にアップした2012年07月18日 14:34付のコンテンツです。
  hatenaへの引越しに伴い一日だけ先頭にアップし、後日 作成日へ以降する予定です。